【1】 全く、人というのは変わるものだ、と。 木の上から見える光景を見つめてフユは思う。 変わる筈がない、と思う者程、変わる時は生き方全てが変わってしまう。 そう、自分に起こった事が彼にも起こるとは、初めて彼に会った時のフユは予想も出来なかった。 フユがセイネリアに初めて会ったのは、首都の西区、有名人がそんなところに一人でいれば、いかにも襲って下さいといわんばかりの暗い路地裏だった。 「貴方が、セイネリア・クロッセスですか?」 全身、黒で固めた男は、ゆっくりと振り返る。 そうして、肉食獣のような金茶色の瞳を向けられた時、フユは返事を聞くまでもなく、彼が目的の人物だという事を確信した。 「お前は、なんだ?」 その時のフユの出で立ちは、半分マスクで顔を隠し、暗灰色の動きやすい服装に全身投げナイフを仕込んだ姿で、はっきりいって暗殺者にしか見えない格好だったと思う。実際、仕事がそれなのだから、弁解のしようもなかった。 けれど、こんな場所で、そんな人物に声をかけられたのに、向けられた目には全く動揺も驚きもなく、彼が浮かべた表情はあえていうなら『面倒そう』とでもいうものだった。 しかも、『何者』ではなく、『なんだ』とくれば、こちらにどれだけ興味がないというのかさえ分かってしまう。 「貴方に話があります」 だからフユは、全く相手にされずに追い払われる事を覚悟もしていた。 「……手短にな。俺も暇じゃない」 なのにあっさりとそう返されたから、フユの方が驚いて、一瞬、耳を疑った。 「さっさと言え、でないともうすぐ忙しくなる」 相手の言葉がよく分からなかったが、フユは急いで口を開いた。 「貴方が前に、ボーセリングの飼い犬を買い取ったという話を聞きました」 男はその金茶色の瞳でじっとフユを見つめていたが、フユの態度とその言葉を聞くと、口元を皮肉げに歪めた。 「成る程。つまり貴様もあのクソジジイのとこの飼い犬か。あそこから逃げたくて、俺に買い取って欲しいという事か?」 フユも僅かに口元を緩めて見せた。もっとも、男の瞳に圧倒されて、それはらしくなくひきつったものではあったが。 確かに、噂通り。 最強と呼ばれ、敵に回せば死ぬより恐ろしい目にあわされると言われる男は、相当に頭も回ると聞いていた。今のフユの発言だけでそこまで分かってしまうのなら、それも納得出来ると思う。 これなら十分命を預けていいかと思える。実のところ、今の主よりマシなら問題ないと思っていたが、これは予想以上だと。 「その通りです。俺は、役に立ちます」 その後に向けられた視線は、明らかにこちらを値踏みするもので、けれどもフユはそれに焦ったりする事も、臆して目を逸らす事もしなかった。 そうすれば、彼の口元が僅かに緩んで、金茶色の瞳はまたこちらの瞳をじっと見つめてくる。 「成る程、言うだけあって『使えそう』ではあるな。……だがお前なら、いつでも主を捨てて逃げる事は可能だろう。逃げきる自信がないとも思えないが、わざわざ別の主を探す必要があるのか?」 見た目上は平然としていたフユだが、内心は見透かされすぎていて冷や汗ものではあった。 この男の言う通り、フユは自分が主から逃げるだけならわざわざ人に頼る必要などなかった。いや、そもそも、自分だけの話であるなら、別に逃げたいと思っている訳でもなかった。 「私だけではなく、もう一人、買い取って欲しい者がいます」 フユの言葉に、黒を纏った男は特に目に見えた反応はしなかった。ただ、淡々とした感情のない声が返される。 「……そいつは、『使えない』者か?」 本当は最初から、この男はこちらの事情を全て知っているのではないかと、フユはそんな錯覚に陥りそうになる。 どんな状況でも冷静さを欠く事なく、理想通りの暗殺者として育てられた筈のフユでさえ、この男の瞳の圧力に、動悸が早くなっている事を自覚していた。 「はい、その所為でもうすぐ処分されます。ですからその前に、貴方に買い取って欲しいのです」 「お前がそいつを助けたい理由は何だ?」 「俺にとっては、失くしたくない者だからです」 どんな嘘でも平然とつけた筈なのに、この男の前では嘘は命取りになる。だからフユは、自分を偽らず、思う通りの言葉をただ返すしかなかった。 「失くしたくない、か。そいつの存在は、お前の生き方を変えるだけの価値があるのか?」 「はい、私にとってはあります」 「その所為で、一生俺の命を聞く事になっても構わないのか?」 「はい、もとより飼われるしかない身ですから」 「お前の命がかかっていたとしても?」 「はい」 男の瞳は動かない。ただじっと、フユを試すようなそんな問答の間も、彼の声には感情が何もなかった。 そして。 「……分からんな」 ぽつりと、男が興味もなさそうに返す。 その声にだけは、僅かに男の感情が見えた。 ほんの少し、苛立ちに似た響きを感じ取った途端、フユは自分の手足が冷たくなっていく気がしていた。 一瞬、立っている足にさえ力が入らなくなりそうな喪失感を感じたフユだが、相手はまだ拒絶を返した訳ではなく、気の所為か先程よりも軽い口調の声が続いた。 「まぁ、お前にとっての価値など俺の知った事ではない。……俺はな、『使える』人間とは個別に契約をしているんだ。俺の部下になって、一生俺の命を聞く代わり、そいつの願いをかなえてやる、というな」 一度うつむきかけた顔を、フユはあげる。 唇に薄い笑みさえ浮かべてこちらを見る男は、それでも瞳には冗談だと茶化すものはない。 まっすぐ向けられた獣の瞳は、未だにじっとフユを値踏みしていた。 「『願い』が言った人間の価値に見合うなら契約してやる。――お前はどうだ? あのクソジジイから二人分買い取る程の価値が、お前にあるか?」 フユが彼への望みを叶えてもらう為には、彼に返すべき言葉は一つしかなかった。 「その分の価値を、必ず貴方に示します」 価値を示せなかったら、どんな目に合わされるか分からない。少なくとも簡単に見捨てられる事は確実だろう。それでも、今、フユが助けたい相手を助ける為には、それ以外の返事を返す訳にはいかない。 だから、今――。 フユの返事を受けて、男は喉を震わせて笑う。 「いいだろう。俺は大口を叩く人間は嫌いじゃない」 それに即座にフユは返す。 「口だけじゃなく、今、それを示してみせます」 言って、すぐにフユは男の前から姿を消す。 辺りに感じる人の気配、はっきりと殺気を纏う者が一人、うまく気配を消して隠れている者がもう一人。話している間に、隙を伺うようにやってきた相手は、少なくともあの男の敵である事は確かだろう。 最初に、明らかな殺気を纏う相手に近づけば、それは冒険者らしい格好の男で、実力はないという程でもないがたいした事はないと判断する。 男はフユの接近に気づいて、すぐこちらに構えようとする。 その前に、フユの手から放たれたナイフが男の足に刺さり、男は体勢を崩して、足のナイフを抜こうと手を掛ける。 その僅かな隙だけで、フユには十分だった。 男が屈んだ時には、フユは接近を完了して男の視界から消え、手袋に仕込んだ細紐を伸ばして男の背後に回っている。紐を慣れた手つきで男の首に掛けて引けば、それで一人終了だった。 だが。 「殺すなよ」 そう、あの男の声が聞こえたから、フユは引いた紐を思わず緩める。 そうすれば、追いついてきたらしい、気配を消していた敵の方が姿を見せる。それと同時に近づいてくる刃の煌めきが見えたから、フユは押さえつけていた男を盾にしてその刃から身を守る。 どうやら相手はフユとは同業者らしく、ナイフが防がれたのを見ると、すぐさま壁影に隠れてしまった。 盾にした男をちらと見て、死ぬような場所に刺さっていない事を確認すると、そのまま投げ捨てる。ただし、首に絡ませたままだった紐で男の腕も縛っておく事は忘れない。もしこの男がまだ戦闘能力が残っていたとしても、少なくとももう一人をどうにかするまでは身動きはとれない筈だった。 飛んで来たナイフを今度は避けて、相手の位置を確認する。ただし向こうもプロだけあって、一カ所にとどまるなんて間抜けな事はしない。止まらないのはこういう時の基本でもある。それでも、一定の速度で走っているのは、馬鹿としかいいようがない、とフユは思うが。 すでにナイフを2回投げているから、相手の走っている方向は分かる。この辺りの地形は、フユの頭の中には入っている。 となれば、次に相手がナイフを投げるだろう位置は大体予想が出来てしまう。 フユは2回、ナイフを投げた。 一回目は足止め。走っている間は足音をたてないように訓練されていても、足を止める瞬間は僅かに音が発生する。それで正確な位置を把握した2本目が、相手の足に突き刺さる。 ただし、それくらいで終わりになる程簡単な話とはフユも思っていない。 足を負傷した相手は、今度は簡単に足音を消す事が出来なくなる、走る速度も大幅に落ちる。それでも、厄介と言えるのは、明らかな不利を悟って向こうも逃げる事を決めたろう事だ。 けれど、逃がさない。 フユは相手に向かって走る。この状況では、追いつけない筈がない。 だが、フユが丁度自分の投げたナイフが落ちているのを見つけた時、ぼんっと弾けるように、火が地面から噴きあがった。 ひっかかったか、と壁に手をついて逃げていた男は、ふと足を止めて火柱を振り返る。 火が上がるのは一瞬だが、燃えている何かが地面に倒れる姿がみえれば、それは確定だろうとほっと安堵の息をつく。 けれども、そう思ったその直後に、彼は何者かの気配を感じて、再び振り返った。 「魔法使いか、火の神の神官様ですかね、ちょっと驚きましたねぇ」 灰色の髪の男が、灰色の瞳を細めて微笑んでいる。 「でも火の魔法陣を描くなら、もうちょっと見えないとこに書いとくか、せめてナイフは遠くへ投げておけばよかったと思いまスけどね」 フユが投げたナイフ、しかも血がついたナイフは恐らく男の足に刺さったもの。そのナイフの傍に、見慣れない記号が血で描かれていた事で、フユは相手の仕掛けた罠に飛び込まなくて済んだのである。燃やしたのは、頭から膝までを覆っていたマントだ。 最後の手を防がれた男には、もう逃げる手段がなかった。男は、がっくりとその場に膝をつくと、全てを諦めた。 --------------------------------------------- 夏の特別編? セイネリアとシーグルの絡みが書きたくて、性懲りもなくまた番外です。 また0話と2話の間のちょくちょくセイネリアがちょっかい出してた頃のストーリーですが、今回はフユさんの過去をちょっと紹介しつつ的にしてみます。 5話いくかどうかくらいの長さを予定してますので、気楽にお読みください。 |