失くした日




  【1】



 シーグル・アゼル・リア・シルバスピナ。
 それが、今現在の彼の名前だった。

 シルバスピナというのはこの港町リシェの領主の家名で、リアというのは第一後継者を指す。つまり、シーグルは旧貴族シルバスピナ家の次期当主という事になる。
 それを教えて貰ったのは、八歳になった頃だったか――厳しい祖父、現シルバスピナ卿は、この家に来てからずっと、ただシーグルには自分に従う事しか許さなかったから、シーグルは何も聞けなかった。だから、何も知らなかった。
 使用人達は、極端に愛想のないシーグルを面倒な子供としか見ておらず、仕事以上の言葉を掛けてくる事はなかった。勉強を教えにくる者達は、祖父から何か言われていたらしく、余分な話はしてはいけない事になっていたらしい。
 だから、この家でたった一人、シーグルに話しかけてきて、シーグルが何かを聞く事が出来たのは、昔は祖父の従者をしていたという騎士のレガーだけだった。剣の師である彼だけが、決まった言葉以外の、ちゃんと本人の言葉でシーグルに話し掛けてきて、シーグルの体調を気にかけてくれたり、シーグルの質問に答えてくれた。

 ――皮肉な事に、半ば攫うようにしてこの屋敷にシーグルを連れてきた張本人である彼だけが、この屋敷の中でただ一人、シーグルと普通に会話をしてくれる存在だった。それは言い換えれば、唯一の心を許せる相手だと言ってもよかった。
 シーグルの名前の意味と、ここにいる理由、そしてかつてここにいた時の父の事を教えてくれたのも彼だった。

 とはいえ、彼が優しかったという訳ではなく、彼は厳しい師だった。シーグルの事を『様』をつけて呼んではきても、こと訓練となれば甘い言葉など一切掛けてはこなかった。稽古をつけながら、腹を打たれ、ふっとばされ、地面に這いつくばった事は何度もあった。
 それでもシーグルは、彼に愛情を感じていた。
 シーグルの体調が悪い時に、祖父に言って庇ってくれたのは彼だったし、訓練分の上達をすれば褒めてくれた、シーグルが寝込んだ時に近くにいてくれたのも彼だった。
 少なくとも、幼いシーグルが寂しさに押しつぶされずに居られたのは、彼がいたからだったのだ。






 父が別れる時に言っていた言葉。

『シーグル……強くなりなさい。お前が強くなったら、いつかまた一緒に暮らせる日がくるかもしれない』

 幼いシーグルは、その言葉だけに縋って強くなろうとした。幸い、騎士になる為、強くなる為の事であれば、祖父はシーグルに大抵の事をさせてくれた。
 シルバスピナ家は、『貴族は王国の騎士である』という、今では建前上の事となってしまった在り方を守っている家であったから、代々生まれた男子は騎士になる事が決まっていて、当然シーグルも騎士になる事を求められた。幼い頃、騎士である父が誇りであったシーグルとしては、騎士になる事はその頃からの目標であったため、それには自ら進んで従った。
 そしてこの国では、貴族でなくても騎士になれる分、貴族であるなら騎士になる事は容易であった。

 けれども、シーグルは決めていたのだ。

「レガー、今日、おじい様に、貴族特権を使わないで、正規の騎士試験を受けると言ってきた」

 前からそれを打ち明けていた剣の師は、それを聞いて、いつも少し怒っているように見える厳しい顔をいくらか和らげた。

「そうですか。あの方はお喜びになられましたか?」

 明らかに、いつも表情のないシーグルの顔が嬉しそうに紅潮していたからだろうか、そう尋ねられて、シーグルは少し戸惑いながら答えた。

「喜ぶ、というのではないが、褒めて……くださった、と思う」
「それは良かった」

 極端な小食の所為でいつまでも細いシーグルを見て、祖父は騎士としてのシーグルに期待する事はなくなっていた。そんなシーグルにとって、祖父がシーグルの言った事に感心するような言葉を返してくれたのは初めてだったのだ。

「それで、もし、試験に合格して騎士になれたら、二十歳までは自由に冒険者として働いていいと……約束、してくださったんだ」

 それには少しだけ、驚いたように片眉を跳ねあげたレガーだったが、シーグルの顔を暫く見ると、明らかに彼もまた嬉しそうに笑った。

「それは、本当に良かった。シーグル様なら、試験を受けたとしてもきっと誰より早く騎士になれます」
「本当に、大丈夫だろうか」
「はい、自信をお持ちください。現状でも、貴方は既に騎士たるに相応しい技能を身につけてらっしゃいます」
「そう、か。俺は、強くなれただろうか……」

 シーグルは少し俯いて、言葉を噛みしめるように呟いた。

「はい」

 力強くそれを肯定されて、シーグルは微笑んだ。それは、久しぶりすぎて酷くぎこちない笑みであったものの、心から自然に湧いた笑みだった。

「良かったです。本当に……」

 祖父の一番の部下であり、シーグルの師である男は、僅かに涙を浮かべてまでそれを喜んでくれた。彼は心から、シーグルの事を喜んでくれた。

 ――少なくともそれは、嘘ではなかった、とシーグルは思う。






 貴族でない場合、騎士試験を受ける為には、いくつか前提となる条件があった。
 大抵の条件は、貴族の特権を使わなくても、シーグルの立場であれば既にクリア出来ているといってもいいくらいだったのだが、まだ年齢が若すぎるという事と、後一つ、騎士に従事しその騎士から試験を受けていいという許可証を貰わなくてはならない、という条件だけはこれから満たさねばならない項目だった。
 平民の場合、実はそれ――従事させてくれる騎士を見つける事――が一番難しいのだが、幸いシーグルの立場からすればそれは問題にはなる事ではなかった。かつては騎士団の重鎮であった現シルバスピナ卿は、自分の元部下の信用出来る騎士にシーグルを預ける事を決めてくれた。

「レガーの従者になるのではだめなのか?」

 とはいえ、最初にその話を聞いた時、シーグルはそうレガーに聞いた。
 というのも、祖父がシーグルの為に選んだ従事先の騎士というのが、レガーよりも明らかに腕が落ち、そして身分の問題で少々やりにくい部分があったからだ。なにせその騎士にとってみれば、自分より地位的に上で、更にかつての上官の家の子供を預かるという事になれば、それはかなりの重責を感じる事に違いない。だから彼はシーグルに対して、ものすごく気を使って、腫れ物に触るように丁寧に対応をしてきてくれた。
 正直、シーグルとしては、そういう状態では訓練にならない、と思ったのだ。
 だがその理由まで察した上で、レガーは困った顔で首を振った。

「私は貴族ではありませんので」

 基本的に、従者を取れるのは貴族騎士とされる。レガーは、平民出の騎士としては騎士団時代もそれなりの地位であったらしいが、それは祖父の直の部下であったからだ。

「あの方がもう少しお若ければ、直であの方の従者となるというのもあるのですが……ですが折角の機会です、外の家で過ごしてみるのも良いのではないでしょうか?」

 そういったレガーの顔は優しく微笑んでいて、シーグルは少しだけ表情を綻ばせて、『分かった、行ってくる』と彼に返した。

 シーグルが従者となったのは、旧貴族ではないが南部の元ファサンにおける古い貴族で、地方領主でもある騎士の男だった。
 もちろん祖父が選んだだけあって、貴族騎士としては現在のクリュースの貴族騎士事情を考えると相当に立派と言える人物で、シーグルはそこで従者として短くはない期間を過ごす事となった。ただし、彼がレガーよりも腕が落ちる、というのは祖父も承知していたらしく、シーグルは従者時代、ずっとその騎士の元で生活していた訳ではなかった。彼の元へいるだけでは腕が上がらないと判断したのか、もしくは厳しく出来ない相手の事情を察してシーグルをそれに慣れさせないためにか、定期的にシーグルは暫く家へ戻って、前の通り、レガーの元で訓練と勉強をしてはいた。
 そのせいで、期間だけなら4年近く、シーグルはシルバスピナの家と、主の騎士の元半々という生活を過ごした。騎士の家、外での生活は、なにかと疲れるものはあったが、それなりに有意義なものであり、なにより初めて祖父の管理の下でない屋敷の外での生活は、シーグルにとってはかなり気楽なものであった。主である筈なのに、騎士の方がこちらに敬語を使ってくるような窮屈な状態ではあったものの、彼から騎士として学ぶ物は少なくはなかった。
 自分の未熟さを実感出来もした。早く騎士になるのだと急いていた心も、それで多少は落ち着いた。

 けれども、騎士の元へ来て3年程たったある日、シーグルにはすぐにでも騎士にならなくてはならない理由が出来てしまった。

 冬が近いある秋の日の朝。
 その日シーグルは、丁度騎士の元ではなくシルバスピナの屋敷の方にいて、朝の訓練が終わろうとしていたところであった。
 最初は、正規騎士団の格好をした騎士が一人、屋敷へ馬でやってきただけであった。その騎士は、祖父、シルバスピナ卿への知らせがあると告げて、屋敷の奥へと案内されていった。
 ただ、妙に気になる事といえば、彼はやけに重い表情をしていて、さらには彼はシーグルを見ると、まるで泣く寸前のように表情をしかめて目を逸らしてしまった事だった。
 その騎士は祖父と話をしてすぐに帰ってしまった為、シーグルが彼と直接話をする機会はなかった。だが、彼が帰った後、妙に屋敷内が慌ただしくなり、使用人達が忙しそうに動きまわりだした。
 シーグルは妙な胸騒ぎにおそわれたものの、レガーもすぐ祖父に呼ばれ、使用人達も何も言おうとしなかった為、何があるのかは分からなかった。
 けれど、昼を過ぎてから、レガーがシーグルの元にやってきて、あの騎士と同じ、重い表情で告げたのだ。

 お父上が亡くなりました、と。




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キリの関係で短めですいません。シーグルの過去話です。これが終れば、書く予定だった分の番外編は終わり。
あ、父親の死についてはこの話の主題ではないので、それを巡った話ではありません。
あくまでこの話は、シーグルとレガーのお話です。


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