弘法大師に抱かれて眠る村

弘法大師に抱かれて眠る村 和歌山県高野町野平, ________
_____________________________
奈良県野迫川村紫園,中津川

中津川の小学校跡です。バイクが止まっているのは運動場の一角です。



2000/5/26 高野町野平,野迫川村紫園,中津川

# 8-1
私は関西人なのですが,こと廃村に関しては関西はとても疎く,今回のツーリングが関西の廃村巡り第一弾です。
導火線は,秩父の白岩・冠岩と同じく廃屋の猫さんのホームページ「残骸趣味」です。
「残骸趣味」では,奈良県の吉野にある,野迫川(Nosegawa)村中津川(Nakatsugawa)という廃村の学校跡が紹介されていました。野迫川村には1989年夏に行ったことがあり土地勘もあったので,中津川を目指すツーリングが成立しました。
バイクは,GWの岐阜・福井ツーリング以来,堺の実家に常駐となっているので,時間的には余裕です。

# 8-2
前日の夜は,関西出張の後,神戸は三宮・元町界隈の飲み屋さんで午前2時半まで飲んでいて,千鳥足でさまよいサウナに泊まりました。深酒の後,午後一番で廃村巡りに出発というのは,くしくも秩父の白岩・冠岩と同じパターンです。
実家のある堺(新金岡)からは,R.310で河内長野,R.371で橋本,さらにR.371を走り続けて弘法大師(空海)ゆかりの高野山(高野町)を経由して,県境を超えて,村役場のある上垣内(Kami-kakiuchi)を経由するのが最短距離で,新金岡からの机上の計算での野迫川村までの距離はおよそ70km,途中,悪路が予想されるとはいえ,2時間半もあれば着きそうです。

# 8-3
橋本市街までは1時間ほどで走れて,楽勝だったのですが,紀ノ川を渡ったところで雰囲気が一変して,R.371はいきなり大型車通行止めの林道並みの道になりました。国道番号は同じにして,いきなり全然家屋のない山道が続くのです。
やがて,丹生(Nyuu)川沿いとなって川をさかのぼると,川口という小さな集落があり,ここには「ダム反対」の看板がありました。
高野町に入ったところで,気紛れでメインルートから外れた高野町東部の下筒香(Shimo-Tsutsuga)は,山の斜面をフルに活用した,とても見晴らしのよい集落でした。しかし,山が深く,歴史も深いという土地柄か,何となくとっつきにくい感じの集落が続きます。

# 8-4
下筒香で一息ついてツーリングマップを見ると,上筒香の少し下流側の山の中に野平(Nobira)という行止まり集落が記されていました。「この山の深さから考えるとたぶん廃村だろう」と予想して,遠回りなのですが寄り道をすることになりました。
高野温泉という一軒宿がある道を入り,ずっと山に向かって走って行くと,やがて電線がなくなり,祠が見えて野平らしき場所にたどり着き,道はダートになりました。石垣はあるのですが,あまり集落があったという雰囲気ではありません。
目立ったのは「山止め」という年度を書いた札。これは松茸山の入山規制の看板を示すとのことです。

# 8-5
高野温泉に戻って,入口で声をかけたところ,お坊さんが出てきました。さすが弘法大師ゆかりの里です。
野平のことを尋ねると,「明治時代には3軒ぐらい家があったらしい」とのこと。なるほどとは思ったものの,そんな頃になくなった集落の名前が載っているツーリングマップにも困ったものだとも思った次第です。
上筒香まで戻って,野迫川村に向かう道には「御通行中の皆様へ,この県道は私有地であり,橋本土木事務所との協議次第では,明け渡しを求めることをここにお知らせいたします」との所有者名の看板があり,何とも閉鎖的な・・・という印象はますます強くなりました。

# 8-6
県境を越えた所に待ち構えていた野迫川村の看板には思いきりコケが生えていて,「いよいよ秘境に到達」という雰囲気です。
野迫川村の面積は155kuに対し,人口は861人(1995年国調)。奈良県といってもつながりは高野町のある和歌山県のほうが強く,県境からほど近い台地状の高原に村役場がある中心集落の上垣内(Kamigaito)があり,吉野というよりは奥高野といったほうが似合っています。上垣内を流れる北股川の水系は,太平洋に注ぐ熊野川で,川下に行くほど山が険しくなり人気もなくなるという,ちょっと変わった村です。
因みに本家の高野山も台地状の山上にある町で,こちらには弘法大師が開祖の金剛峰寺をはじめ,多数の寺院が集まっています。

# 8-7
このルートで最初にたどり着いた野迫川村の集落の平川では,交通量のない大きな道沿いに民家がちらほらとありました。平川からは,ダートが主体の林道を抜け,池津川という川沿いのまったくクルマの気配のない県道を,下流に向かって走りました。
途中,紫園(Shion)という集落があり,名前入りの看板の前にバイクを止めて一息つくと,新しいログハウスがあるものの,これは別荘で,まったく人気がないこと,看板の上方の山中に屋根に草の茂った一軒の廃屋があることから,紫園は廃村らしいことがわかりました。
廃屋の保存状態はよく,入ってみると1968年のカレンダーが貼ってありました。やはり高度成長期が離村の頃のようです。

....


# 8-8
紫園から中津川は5kmほど。現在中津川は県道から2km近く入った行止まり集落ですが,往時は歩道が四方に通じる交通の要所でした。
まず中津川で出迎えてくれたのは,「残骸趣味」にも載っている小学校の跡。小さいながら木造(焼き板作り)のしっかり校舎は,木材資源の豊富な奥高野にふさわしい風格があります。また,小学校の敷地の左手には,神社がありました。
学校跡からしばらく行くと,全部で5軒の民家を見つけることができました。うち4軒は施錠がされているものの,使われてはいない様子で,1軒は廃屋となっていました。廃村になってから植えられたと思われるスギも,かなりの大きさになっています。


# 8-9
中津川の民家には,しっかりした門構えがあって,往時は豊かな村だったことが想像できます。中津川小学校の閉校は1969年。中津川が廃村になった時期も,やはり高度成長期の頃のようです。
県道まで戻って池津川をさらに下ると,立里(Tateri)という川を渡った高台にある集落へ通じる吊り橋がありました。すごく細くて傾いた吊り橋は興味深く,また,高台にあるものの池津川沿いからはクルマ(バイクを含む)では行けない立里という集落にも興味があったのですが,時間は夕方の5時過ぎということで,立里行きは断念しました。

# 8-10
吊り橋から少し下流の,川原樋川沿いにはダートが主体の林道があり,川をさかのぼりながらハードな林道を越えて,北股,上垣内を通過。上垣内から県境にかけての道は,峠道とは思えない空の広がりがあり,雲海の見所という看板も上がっていました。
峠を越えた高野町は,あえて中心部を避けて,R.371を戻ることにしました。やはり午後出発のハンデは大きいものがあります。
しかし高野山は,その個性的な地勢もあって,歴史のある信仰の対象の地ということがよくわかる,今回の山間ツーリングでした。
紀ノ川を渡ったとたん現実の世界に戻り,堺の実家には,紀ノ川から1時間半ほどで到着していました。



「廃村と過疎の風景」ホーム