【3】 少しだけ顔を赤くして、ウィアは廊下を大股で歩く。 なんだか、あまりにも彼のイメージではない表情を見てしまった所為で、ウィアの方が無性に恥ずかしくなっていたのだ。 シーグルは強くて、しっかりしているようでやけに素直すぎたりと、ちょっとそれで兄気分で可愛いなと思った事もウィアにはあった。けれどもあの綺麗な顔を見て、可愛い、という感想を抱いたのは今回が初めてだった。もしかしたら今までも、実は時々あんな表情をしていたのかもしれないが、兜の所為で分からなかっただけなのかとも思う。 「……ったくさ、すげー嬉しそうだったぞ、シーグル」 思い出しただけでも、なんだか恥ずかしい。 普段が無表情に近い分、あんな柔らかい顔をされると、そのギャップの所為か心臓にあまり良くないとウィアは思う。 それに。 柔らかく、静かに微笑みを浮かべる彼の顔は、兄であるフェゼントに似ていた。 最初は似て無いと思った彼らは、時折見せる瞬間の顔が重なる事がある。そんな時はやはり兄弟なんだなと、そう思ってウィアは他人事ながら嬉しくなる。 ――どっちもさ、お互いに相手に遠慮して、兄弟を名乗る資格がないとかさ。そんな事考える必要なんかないんだよ。だって、ちゃんと兄弟だって事は事実なんだからさ。 自分でもお気楽思考の自覚があるウィアは、その考えが気楽すぎるとは思いはしても、それでも思わずにはいられなかった。 もっと、二人とも単純に考えればいいのにと。 確執があるなら、言い合えばいいのだ。それで喧嘩になる事など、ウィアとテレイズにとってはいつもの事過ぎて、遠慮なんて事は一欠けらも思いつかない。 「フェズ、シーグル食うってさ。すぐ持っていけるか?」 厨房に入ってすぐに言えば、フェゼントは少し緊張した面持ちで返事をする。 「はい、出来てます。すぐに用意します」 いつも感心するくらい手馴れた動作で動くフェゼントの、その手の動きがぎこちない。丁寧にスープをよそうその顔は、緊張して幾分強張ってはいるものの、どこか嬉しそうに見えた。 それが、ウィアも嬉しい。 「シーグルがさ、フェズが作ったから食えっていったら、何かすごい嬉しそうだったんだ」 フェゼントはそれを聞いて、僅かに口元を綻ばす。 けれどもすぐに、笑顔だと思った彼の顔は哀しそうに下を向く。 シーグルが食べるといって彼も嬉しそうだったのに、何故急にそうなるのか、ウィアにはどうしても分からない。 だからフェゼントにどう声を掛けようか考えて、そして、いつも通り途中から考える事が面倒になって開き直る。本当はもっと待とうと思っていたウィアだが、折角のこの機会に聞いてしまわないと機会を逃すかもしれないと思ったのだ。だから、回りくどい表現は避けて、この際はっきりと聞く事にした。 「フェズ、あのさ。フェズはシーグルに負い目を感じてるような顔するけどさ、一体何が原因でそんな事になったんだ?」 フェゼントが顔を上げる。 その顔は苦しそうで、彼にそんな顔をさせている事でウィアの心も痛んだ。本当は急ぐつもりが無かったのに、結局聞いてしまった事を後悔しそうになる。けれども、ここまで聞いたら、最後までちゃんと聞かなければ意味がない。 「シーグルもフェズも、二言目には兄や弟と名乗る資格がないって言うけどさ。どうしてそんな事になったんだよ。何でそんなに兄弟同士でギスギスする必要があるんだ」 フェゼントは辛そうに唇を引き結んで、それから顔を手で覆うと、静かに息を吐き出した。 「私の、所為です」 顔を下に向けたままのフェゼントが、震える声で答える。 彼が今にも泣きそうだという事が、その声だけでわかる。 「それは、前にも聞いたけどさ。一体フェズは何をしたんだ」 「彼が、私を兄と呼ぶ事を否定したのは私です。シーグルだけがシルバスピナ家の跡取として引き取られ、私達が再会したのは10年後でした。その時、私を兄と呼んだシーグルに、私は、兄と呼ばれる筋合いはない、と言ったんです」 ウィアは言葉を失う。 それが事実ならば、確かに悪いのはフェゼントだろう。 だが、この優しい青年がそんな言葉を言うのに理由がない筈がない。現にフェゼントは後悔している。相当の理由がない限り、彼がそんな事をいう筈がないのだ。 「なん、で。何でそんな事をいったんだ」 「それは……」 フェゼントは顔を俯かせたまま、その顔を手で覆う。 それでも軽く首を振って、彼は振り切るように顔を上げると、無理矢理な笑みを浮かべてウィアを見た。 「理由は、話します。でも先に、彼にこれを持っていってもらえますか? スープが冷めてしまう」 言われてウィアは、用意されたトレイに気がつく。 「あ、あぁ、そうだな」 焦ってそれを手に取ると、心配そうにフェゼントの顔を伺う。 フェゼントは、苦しそうにしながらも、ウィアを安心させる為にかやはり笑みを浮かべていた。それは痛々しいだけで、少しもウィアに安堵を与えなかったけれども、それでも彼が落ち着いている事だけは伝わった。 ウィアの心配そうな視線を受けて、フェゼントは静かに目を閉じた。 「話します、こんな事になった理由を。ですから、シーグルにそれを届けたら、私の部屋に来て下さい」 「うん、分かった」 ウィアは、振り返りながらも、厨房を後にした。 シーグルの部屋に帰ってくると、彼は自分で体のチェックをしているのか、また、腕や足の筋を伸ばしたりして体を試すように動かしていた。 けれども、ウィアが料理の乗ったトレイを机に置いた途端、彼は体を動かすのを止めて、そのトレイの中を見つめていた。 「これを、フェゼントが?」 「おー、美味そうだろ。そんな食えないだろうからさ、とりあえずスープだけ。でも、栄養取れるようにって、なんかいろいろ入ってるってさ」 座ったシーグルを見て、ウィアは彼の目の前にトレイを押してやる。 じっとそれを見ているシーグルの顔は、嬉しいというよりも懐かしむような顔に見えた。 リパ信徒である彼は、胸の聖石を掌で押さえると小さく祈りを呟き、それから、そっと置かれたスプーンを手に取って、それをスープの中に入れる。 けれども、まるで食べるのが勿体ないとでもいうように、細めた瞳で嬉しそうにそのスープの中を確認するように混ぜ、口元にほんの僅かな笑みを作る。 「美味そうだろ? きっと美味いぞ。俺ここんとこフェズの料理食ってるけど、どこの食堂の飯より美味いと思うぞっ」 彼の様子をずっと見ているウィアも、何故だか妙に緊張してしまって、言っている言葉が支離滅裂になっていた。 「あぁ、美味そうだな」 言ってシーグルはスープを掬い、口元に持っていく。 自分が食べている訳でもないのに、ウィアは思わず彼と一緒にごくりと唾を飲み込んだ。 続いてもう一掬い、彼は口の中に入れると、ゆっくりと味わうように唇を動かした。 「食べられ……そうか?」 「あぁ」 すぐに返された声に、ウィアは自然と笑顔になる。 「な、美味いだろ?」 だからすかさずそう聞けば、やはりシーグルはすぐに返してくる。 「あぁ、美味いな」 声はいつも通りの淡々としたものだったが、口元の笑みが彼が喜んでいる事を教えてくれる。 「野菜もいろいろ入ってるし、肉も入ってる、ミルクも入ってるからすごい栄養あるんだぜ」 「あぁ」 「まだ作ってる最中に俺も味見させて貰ったんだけどさ、美味かったぜ、さすがフェズだよな」 「あぁ」 嬉しくなったウィアがいろいろ話し掛ければ、シーグルは静かに食べながら相槌だけを返してくる。彼の手は止まる事なく、順調に器の中身が減っていくのを見ていると、それだけでウィアの思惑は成功だと思えた。 「あ、そうだ。そのスープのとろみってさ、何使ってるか分かるか?」 思いついて聞けば、シーグルは一瞬の間の後に、迷う事なく答えを返してきた。 「麦だな」 だからウィアは少しだけ驚いた。 「あ、うん、そうだけどさ。なんだすぐ分かったかぁ」 ウィアが残念そうに言えば、シーグルは食べる手を止めてスプーンからも手を離す。 それから、俯いた顔を片手で覆って動かなくなる。 何が起きているのか分からないウィアは、そんな彼に声も掛けられずじっと見ていたが、やがて、呟くように小さな彼の声が聞こえてきた。 「本当に美味いな……母さんの、味だ」 震える声はまるで泣いているようだった。 もしかしたら、実際、彼は泣いているのかもしれないとウィアは思った。 シーグルは暫く顔を手で押さえていたが、やがてまたスプーンを手にとって食べ始める。 それは決して急ぐ事はなく、噛み締めるようにゆっくりで。 少しづつ、彼は器の中のスープを口に運び、大事そうに噛み締める。 そうして綺麗に器の中身を食べきると、静かにスプーンを置く。 ウィアはその間もずっと彼を見ていたから、食べ終えた途端顔を上げた彼と目が会った。シーグルの顔は、静かに微笑んでいた。 「フェゼントに言っておいてくれ。ありがとう、美味かったと」 言って彼は、トレイにあった水を飲み干す。 なんだか自分の方が無性に嬉しくなったウィアは、目尻に涙まで浮かべてそんな彼を見ていた。 これがきっかけで、フェゼントが少しでもシーグルに対して負い目を感じなくなってくれれば。そして、シーグルが食事をちゃんと取れるようになってくれれば。 今のシーグルを見いてウィアは確信する。彼がこの家に滞在している間、こうしてまたフェゼントの作る物を食べていれば、どちらもきっと良い方に進むだろうと。 「昔、母さんが、俺やフェゼントが風邪をひくと良く作ってくれたんだ。たくさん、栄養を取れるようにって、スープに麦を入れて」 シーグルが空になった器を見たまま、独り言のように言う。 「あぁ、それでか」 片付けをしようとトレイに手を伸ばしたウィアは、それで彼が先程すぐにウィアの出した問題を答えた理由が分かった。 「俺さーあのつぶつぶした食感が好きでさ。あとミルクのスープも好きなんだよ」 「俺もだ」 ミルクを使った料理が好きだと言う度、テレイズに子供っぽいと言われているウィアは、シーグルに同意されて更に嬉しくなる。 「美味いよな、特にフェズの作る料理が一番」 「そうだな」 口元だけの笑みでなく、シーグルはクスリと息を漏らす。 ウィアは嬉しくて笑顔でトレイを持ち上げ、片付ける為にシーグルに別れを告げようとした。 そこで、気がつく。 机の上には、先程荷物から彼が取り出した瓶が二つ。セイネリアが寄越したという栄養剤が、中身が減らないままに置いてあった。 「それ、飲まなかったのか?」 聞けばシーグルは、静かに目を閉じる。 そして、口元に微笑が残っているままで答えた。 「必要、なかったからな」 ウィアも、つられるように歯を見せて笑う。 「そうだな、そうだよなっ。ここにいる間はそんなモン必要ないよなっ」 「あぁ」 ウィアは浮かれて足早に部屋を出た。 早く、フェゼントにこのことを教えてやりたかった。 |