【7】 夕暮れの町は昼とは別の活気に溢れ、道行く人々は少し早足で、家へ、あるいは今夜の宿へと向かっている。冒険者達はこれからまずは酒場へ繰りだそうと考えているのか、周りをきょろきょろと見回して店を探している者も多く、既に酒が入ってでもいるかのような足取りの者も珍しくない。 そんな人々の間を、最近ではすっかり姿を隠すクセのついたシーグルは、いつも通りフード付きのマントに身を包み歩いていた。 身を隠してはいても背筋を伸ばしきびきびと歩く姿は変わらず、人々の間を縫うように歩いていれば、その雰囲気だけできちんと訓練された者だというのは分かるだろう。 首都はいろいろな人が集まっている分、シーグルのように正体を隠している者も少なくはない。その為、この姿でも目立つ程ではないが、それでも他の人間達との雰囲気の違いに目に止まる事もある。 だからシーグルは、普段は極力個々に目が行く事も少ないような大通りを歩くようにしていた。とはいえ、今は早めの夕食を取って来たばかりであるから、大通りから外れた路地を歩いているのだが。 これから宿や酒場を探す人々の流れに逆らうように、シーグルは大通りに向かって少し急ぎ足で歩く。 だが、そんなシーグルの前に、やはり黒いフードつきのマントにすっぽりと身を包んだ大柄な影が立ち塞がった。 姿を隠してはいても、その体格、そして何より纏う雰囲気で、その人物が何者なのか即座に理解したシーグルは、足を止めて相手を見上げる。 「何の用だ?」 言えば、セイネリアが僅かにフードを上げて、顔を半分だけ露わにする。 「少し、話がある」 シーグルはそんな彼の顔を暫く見つめて、そして溜め息をついた。 「分かった」 セイネリアが近づいてシーグルの腕を掴む。 反射的にシーグルはそれを振り払おうとしたが、圧倒的な力差のあるそれを拒める筈がない。しかも、先程からこの人物がセイネリアだとは分かってはいたものの、違和感を感じていたその正体も分かって、シーグルは思わず顔を顰めた。 「鎧はどうした?」 外で彼に会って甲冑を身に着けていなかったのは、少なくとも今までのシーグルの記憶にはない。マントに身を隠していても、鎧を着用していない所為で、全体的な大きさがかなり変わる。 「あぁ……鎧は今、調整中でな」 つまり、だからこそこんな姿を隠した格好をしているのだろうかとシーグルは考えるが、鎧がない程度でこの男が敵を恐れる必要もないかとそれはすぐに思い直した。 セイネリアはシーグルの腕を持ったまま歩き出そうとする。 まったく動かない腕に自嘲の笑みを浮かべて、シーグルは腕から力を抜いた。 「ついてこい」 そうして、引かれるままに彼に付いて行く。 裏路地を通り、酒場街を過ぎ、セイネリアに連れて来られたのはとある建物の中だった。中はランプもなく暗いままで、窓を通して外の街灯から僅かに照らされて見えた風景からは、おそらく長く人が住んでいない空き屋のように思えた。 こんなところに連れて来られたのならされる事はもう決まりきっていて、シーグルは諦めたように唇に自嘲を浮かべるしかない。 「こい」 尚もセイネリアに引かれていけば、恐らく寝室だと思われる奥の部屋に連れて来られて、窓際の壁にシーグルは背を押しつけられた。 シーグルは全てを諦めてただセイネリアを見つめる。 セイネリアの琥珀の瞳が窓からの明かりを受けて、暗闇の中、それ自身がやけに浮かび上がって見える。その瞳が、感情らしい感情を浮かべていない事に、何故かシーグルは安堵した。 セイネリアの顔が近づいて来る。 触れた唇は、だがすぐに離れて、そのまま彼は耳元に唇を寄せた。 「いいか、黙って、外に耳を澄ませてみろ」 セイネリアが何を言いたいのか分からなくてシーグルは混乱したが、言われたように耳を澄まして聞こえた声に、その青い瞳を見開いた。 『……ナレ卿は、既にこちら側につく事が決まって……ならあの連中は……王子派の……』 セイネリアの唇が笑みを作る。 「国王候補達の襲撃について情報が欲しかったんだろ? 暫く外の話を聞いていれば、何か分かるかもしれんぞ」 耳元で囁かれた声よりも、シーグルの意識は遠い男達の会話に向かう。 『レバット卿は、表立ってはグスターク王子側に付くという事だが、条件次第では此方につくという返答を貰っている』 『成る程、恐らくヴィド卿にもそう答えてるだろうな。相変わらず、腹黒い男だ』 『ところでこの間、イレーナ夫人の馬車が脱輪した事故の時、コワントレイ卿の飼い犬を見かけたという話だが』 『飼い犬といっても下の下だからな。足が付かないようにもう始末したらしい』 『相変わらず、手際がいいのか悪いのか。ならばこの件で追求するのは無駄か……』 『それよりも今朝……』 延々と男二人が語るのは、最近起きた貴族達の大小の事故と、その犯人について。 シーグルが追っていたのは国王候補達の襲撃の件だが、そんな直接的ではなく、周りを崩す為の陰謀劇は見えないところで実は既に炎上していたらしい。シーグルは、ただ一番目立つところで起こった氷山の一角を調べているに過ぎない。 男達の会話を聞いていくうちに、呆然と、そして苦々しい気持ちになって行くシーグルの傍で、セイネリアもまた、忌々しげに鼻を鳴らしたのが気配で分かる。 「いいか、権力争いをしてる連中など、何処も似たり寄ったり、相手を引きずり下ろす為に刺客の一人二人雇う事など日常茶飯事だ。誰が正統か、誰が国王に相応しいかなんて事は意味がない、どうやって相手を貶めて自分が上にあがるかという争いだ。貴族の権力争いに正しい者なんかいない、真っ黒な腹のさぐり合いに善悪なんか関係ない。だから、誰が誰を狙っている、誰が誰を殺したなんてのを特定するのも意味がない」 既に外の会話を聞くのが嫌になってきていたシーグルは、意識を目の前の男に移した。 「……つまり、俺の調べている事は無意味だと言いたい訳か」 セイネリアが少しだけ体を離して、シーグルの顔を覗き込むように視線を合わせて来る。同時にシーグルの頬をセイネリアの手が抑えて、目を逸らせまいとする。 「そうだ。……やめておけ、お前に宮廷貴族共のどろどろした政治抗争は似合わない」 だからシーグルはじっとセイネリアの琥珀の瞳を見つめるしかない。 目を逸らせないなら、心を保つ為には彼を睨み付けるしかない。 逃げる事も出来ずに、ありえないと思っても優しさを感じるその瞳をじっと睨む事しか出来なかった。 「後は……」 先程まで纏っていた皮肉な笑みを消して、彼らしい表情のない顔で、セイネリアはシーグルを見つめて来る。 「……ヴィド卿には近づくな、と言っておいた筈だな」 「生憎と、立場上、近づきたくなくても逆らえる立場でもない」 シーグルが答えれば、セイネリアは眉間に皺を作る。 「逆らいはしなくとも、返事を引き延ばして、ある程度は誤魔化して逃げられるだろう。多少の不興を買ったところで、その内問題がなくなる」 舌打ちさえしそうな口ぶりで吐き捨てるように言ったその言葉は、聞き流すには意味深過ぎた。シーグルの瞳が見開かれて、セイネリアの顔をその深い青色の中に大きく映す。 「待て、それはどういう事だ」 「これ以上は言わん。だが、意味は察せた筈だな」 彼が言わないと言うのであれば、いくら聞いてもそれ以上は何も話さない事は確定だ。そして、彼の言葉から察しろというのであれば、つまり、ヴィド卿は然程遠くない時期に失脚するという意味だとシーグルは理解する。 ――この男は、何かを知っているのか。もしくは、何かをするつもりなのか。 見返した琥珀の瞳の昏い光からは、彼が何を考えているか正確に掴む事は困難だ。 それ以上に、彼の瞳をよく見ていれば、知りたくもない真実を知る事になりそうで、シーグルは耐えられず瞳を伏せた。 セイネリアの顔が、再び耳元に降りて来る。 「もう一度だけ言っておく、ヴィド卿には近づくな。奴の派閥に付いたと見られると……後で後悔する事になる」 それから、まるで自分の体でシーグルの体を壁に押し付けるかのように、その身体を押し付けてきて、再び唇を合わせられる。今度は、先程のようにすぐに離されはせず、口腔内を深くまさぐられて、唾液を絡ませ合うまで。 「ん……」 鼻から抜ける自分が出した声に、まるで女のようだとシーグルは我ながら思った。 唇を合わせ直されて、より深く、口を大きく広げれば、絡んだ舌同士が大きく動いて口から唾液を溢れさせる。セイネリアが上から噛み付くように口を合わせて来るから、自然シーグルは顔を上に向けて受け止める事になり、溢れた唾液は喉を伝って鎧の中にまで入って来る。 唇を合わせ直す度に水音が鳴る。 息をする度に甘い声が鼻から抜ける。 こうしてキスされているだけで、体にも頭にも熱が生まれて来ている事を自覚すれば、もう、嘲笑うしか残された道はなかった。 いくら心が拒絶したところで、体はこの男を欲しがっている、快楽に溺れる事を望んでいる。 いや、本当に心は拒絶しているのだろうか? この男に抱かれる事を本当に本心から拒絶しているのだと、今のシーグルは胸を張っていう事が出来るのか、それさえも自信がなくなっていた。 心だけは渡さないと、自分のものだと、この男に対して言い切る自信さえなくなってしまっていた。 何も考えない為には、全て棄ててしまえばいい。 一番肯定したくない事を肯定しないままにするには、全て諦めて明け渡してしまえばいい。 ――だからシーグルは体から力を抜く。 全てを諦めて男にされるがままにする。 何かに気付いたセイネリアが、唇を離してじっとシーグルの顔を見つめて来る。 シーグルは何も言う事はなく、ただその琥珀の瞳を見つめ返す。 セイネリアの顔が、一瞬、苦しげに歪む。 ただそれは本当に一瞬の事で、シーグルは今見た彼の表情を頭から消して錯覚だと思い込む事にした。 彼の顔が視界から消えてシーグルが我知らず安堵すれば、首筋にちくりとした痛みを感じ、彼が歯を立てたまま肌を吸ったのだという事が分かる。彼の手は乱雑に着ているものを剥いで行き、その度に現れた肌に唇を這わせて、首筋と同じように跡をつけて行く。 シーグルは真っ暗な部屋の中に視線を彷徨わせた。 体はされるがまま、セイネリアに明け渡して、ただ全てが終る事だけを待つ。 ゴト、と自分の装備が剥がされ、床に落とされている音を遠くに聞く。静かな部屋の中では、セイネリアの息遣いさえ音として聞こえるものの、それは妙に現実感を帯びていない。全てを投げ出してしまえば、まるでこうしている今が夢の中の出来事のように思える程、頭の中に実感が湧かない。 ――本当に、夢だったら良かったものを。 目が覚めたら自分の部屋のベッドの中、セイネリアはただの友人で、自分を犯す事も、ましてや自分に何か特別な感情を持つ事もないただ尊敬する強い男で、軽口を言い合って仕事に行く、あの時のままであれば。 いや、いっそ、そんな都合の良い望みが叶うなら、目が覚めたら、あの小さな小屋の小さなベッドで、小さな兄と体を寄せ合って眠っている小さな子供のままの自分であれば。 ――どうしたの? シーグル。 ――うん、ちょっと、嫌な夢を見たんだ。とっても苦しい……。 母親は抱き締めてくれるだろう。 父親は頭を撫でてくれるだろう。 優しい兄はきっと自分も辛そうな顔をして、ぴったりと寄り添ってくれるだろう。 騎士を乗せたシルバスピナ家からの迎えの馬車なんて来ない。 騎士団に復帰しない父はそのまま畑を耕し、暴動の鎮圧に行って命を落とす事もない。 悲しみと罪の意識に押しつぶされて、母親が狂って死ぬような事もない。 ただ、幸せな一家は小さな村で笑って過ごすのだ。 貧しくても、身を寄せ合って、家族はささやかに平和な時を過ごす。 やがて、大きくなった兄弟達が冒険者として旅立つのを、優しい両親は少しの涙とたくさんの笑顔で見送るだろう……。 『ところで、あの蝙蝠の連中は、一体何処に雇われているんだ』 耳から微かに入って来たその声に、シーグルの頭は現実に戻される。 『レバット卿と同じだ。どうやら蝙蝠の名前の通り、どの派とも契約しているらしくてな』 『それはつまり、どれか一つが本当の奴らの雇い主という事か?』 『あるいは、何処も本当の雇い主ではないのかもしれん』 『ただ、また犯行予告がどこの王子にも行っているらしい』 会話の内容に気を取られていれば、何時の間にか、目の前にはセイネリアの顔があった。彼はその暗闇にも映える、夜行性の肉食獣のような金茶色に光る瞳で、シーグルの顔をただじっと見据えていた。剣呑なその瞳の色は、明らかに怒りを映していた。 「お前は、何を見ていた?」 シーグルは答えない。 セイネリアは目を細める。 「俺に体だけ明け渡しておいて、頭は何処かへ行っていた訳か、随分と馬鹿にしてくれる」 ――あぁ、確かに。 今、自分は現実逃避をしていたのだと、今更ながらにシーグルは思う。 とうとう、そんな何にもならない事を考えるしか逃げ場がなくなったのかと思えば、益々自分に対しては嘲りの笑みしか湧いて来ない。 「笑うか? 俺を」 セイネリアが、瞳に憎しみさえ映して、唇だけに笑みを浮かべて言う。 彼が、そんな顔をするのは、シーグルにとって見るに耐えなかった。 「……違う、お前を笑ったんじゃない」 だから、目を逸らして、そう彼に告げる。 「もう、あり得ない夢想にしか逃げ場がない自分が笑えるだけだ」 言って、喉を震わせる。 セイネリアの顔を見ずに、ただ湧いて来るまま笑い声を零す。 「母さんと同じだ……結局俺も、幸せな夢想に逃げる事しか出来ない」 もし、このまま、心が幸せな幻だけを追っていけば、現実を棄てて狂えるのだろうか。自分の罪の意識に押しつぶされた母親のように、幸せな時だけを見つめて、心は平穏を手に入れる事が出来るのだろうか。 「シーグル、俺を見ろ」 シーグルはそれでも目を合わせず、ただ、喉だけで嗤う。 セイネリアがどれだけ切実に彼を見つめても、返されるのは笑い声だけだった。 ――けれど。 「……愛している」 シーグルの笑い声が止まる。 時が止まったように、シーグルは顔を逸らしたまま瞳を見開く。 口は震えて歯が噛み合わず、体も固まったように震え、手足が冷たくなって行く。 一番聞きたくなかった言葉に、身も心も凍りついて、シーグルの唇は声を失った。 --------------------------------------------- はい、実はこのエピソードはセイネリアさんの告白回だったんです。 |