<番外編・セイネリア×シーグル> 【4】 シーグルはほぼ全裸の姿のまま地面に座り込み、顔を俯かせ、自分の腕を爪を立てて掴んでいた。 セイネリアが、その手に触れる。 「やめておけ、腕に傷がつく」 激しい拒絶をこめて、伸ばされたセイネリアの手をシーグルの手が叩く。 だが、セイネリアは逆にその手を掴み、彼の手首を軽く舐めた。 「跡が、ついたな」 行為の間中縛られていた手首には、痣のような跡がついていた。 愛し気にさえ見える動作でシーグルの手首にキスをするセイネリアを、青い瞳が憎しみを込めて見つめる。 「誰がやったと思っているんだ」 セイネリアは笑う。 「俺だな。他の人間が付けた跡ならただじゃ済まさない」 シーグルの手を離し、セイネリアは立ち上がる。 「お前は俺のものだ。お前を傷つけていいのも俺だけだ。ヘタな怪我はするなよ、愛してるぞ、シーグル」 「ほざけ」 シーグルは地面の土を掴んで、セイネリアに向かって投げた。 セイネリアはそれをマントで払って防ぎ、笑い声を上げる。 睨むシーグルの視線にうっとりと目を細めて、セイネリアは彼から離れ、自分の馬を呼んだ。 「必ず……貴様に勝ってやる」 呟く彼の言葉に喉を震わせて笑うと、セイネリアは馬に乗る。 未だに諦めない彼の強さに昂ぶりを感じながらも、この彼を諦めさせるのはまだかかるかとも思う。予定通りさっさと彼を此方の内に堕としたいと思う反面、どこまで彼が意地を通すかを楽しみにしている自覚がセイネリアにはあった。 「全く、困ったものだ」 だから、セイネリアは顔に苦笑を浮かべるしかなかった。 「なんだよ、こんとこ見かけなかったじゃないか」 「少し、体調が悪かっただけだ」 「そんな細っこい体してるからだ、ちゃんと食えよ」 と、そこまで言ってから、ジャムは思い出したように口を閉じ、それから今の発言を謝る。一緒に仕事をした時に、シーグルは彼に自分の少食の件は既に話しておいていた。 「ま、この仕事は体資本だからな、体だけには気を付けたほうがいいぞ」 「あぁ、すまない」 初めて彼と会った、裏通りの小さな酒場、ついでに言えば時間もあの時とあまり変わらない。あの時と同じように夕飯をとっていたシーグルは、やってきたジャムの姿を見て、嬉しくは思いつつも重い息を吐かずにはいられなかった。 「本当に顔色良くないな、食事だけじゃなく眠れてないんじゃないか?」 しかも、こんな風に心配までされては、余計に話がし難くなる。 シーグルは再び息をついて、それから真っ直ぐに彼の顔を見つめる。 「ジャム、実は、俺が付けられたりしているのには事情がある。だから、やはり俺と一緒に仕事をするのは止めた方がいい」 心配そうにシーグルを見ていたジャムの顔が、途端機嫌悪そうに顰められる。 それから彼は、テーブルの上に肘をついて、そこに顔を乗せると大きく溜め息を吐いてシーグルに向き直った。 「お前の事情って奴は、セイネリアって野郎の事か」 「……知っていたのか」 「まぁな、あの後気になってな、すこしばかり調べさせてもらった」 「そうか……」 少しだけ怒るような口調のジャムに、シーグルは目を伏せる。 二人の間に下りた沈黙の中、口を開いたのはジャムだった。 「でさ、噂は何処まで本当なんだ? お前がセイネリアって奴のオンナだって、奴が公言したって話だけど、そいつはお前を好きなのか? お前の方はどうなんだ?」 シーグルは苦しげに眉を寄せ、テーブルの上で手を組んだ。 「あいつが俺の事を自分のものだと言ったのは本当だ。だが実際、あいつは俺で遊んでいるだけだ。俺は一方的にあいつに付き纏われているだけで……あいつの所為だ、全部、頻繁に何者かに狙われるのも、奴のオンナと侮辱されるのも……」 シーグルの手は握り締められ、力を入れてぶるぶると震える。 それを憐れむような目で見たジャムは、大きく肩を落としてまでの溜め息を吐いてから、頭を掻いて顔を顰めた。 「お前、あいつの事憎いか?」 「当然だ」 「そっか」 そうして彼は立ち上がる。 あぁ、これでこの男とももう話す事はないだろう、また一人に戻るだけだ、とシーグルはそう思う。 下を向いて黙るシーグルを、だがジャムは立ち上がると傍に来て、その肩を優しく2回叩いた。 シーグルは顔を上げて彼の顔を見る。 ジャムは、笑っていた。 「何暗くなってんだよ。最初に言ったろ、俺は強いから巻き込まれても大丈夫だって。ただあれだ、お前とそいつが両思いでさ、邪魔するなっていうなら話は別だっただけでな」 目を見開くシーグルに、ジャムは片目を瞑って見せる。 「いやいや、年下なのに俺より強くてしっかりしててこれが非の打ち所がないって奴かってとこで、正直なんかこいつ付き合い難いなって思ってたんだが、そうしてしゅんとしてると歳相応に可愛いじゃないか」 「な……」 シーグルの頬に朱が差す。 ジャムは声を上げて笑った。 シーグルは恥ずかしそうに目を逸らして、ぼそりと呟く。 「可愛い、なんて言葉……子供の時でも言われなかった」 ジャムは大仰に驚いてみせた。 「そっかぁ、お前さん美人だし、子供の頃はそりゃー可愛かったんじゃないか?」 「子供の頃は……本当に小さい時だけだ。可愛い、なんて言われたのは」 下を向いて辛そうに眉を寄せるシーグルに、ジャムの笑みも消える。 子供の頃の話をすれば、シーグルは思い出さずにはいられなくなる。あの、幸せだった日々と、一人ぼっちの屋敷での生活を。 シルバスピナを名乗るようになったシーグルは、笑わない子供だった。可愛げのない子供だったと、自分でも自覚していた。自分が笑わないから、使用人達も客人も誰も自分に向けて笑いかけなくなった。 「事情がありそうだな。……話せ、とは言わないさ、だがな……」 言いかけたジャムは、一度息をついてシーグルに笑いかける。 少しだけ苦しそうな笑みは、彼のイメージとしては珍しいものだった。 「そうだな、あのさ、俺の方の事情を話してやるよ。……実はな、俺がお前と組みたがったのには別口の理由があるんだ」 シーグルが顔を上げると、ジャムは頭を掻く。 「最初に声掛けたのはさ、確かに付けられてるのが気になったんだけど、それだけじゃない。お前さ、俺の知ってる奴にちょっと似てたんだ」 ジャムは目を細めて、シーグルの顔をじっと見る。 まるで、シーグルを通して他の誰かを思い出しているようだった。 「俺の弟分みたいな奴でな、勿論、あいつはお前さん程綺麗な顔しちゃいないし、お前さん程強くもない。あぁ、背は同じくらいだったかな、ンな細くないけどさ、歳はあいつのが上だ。銀色の髪と、もうちょっと色は薄いが青い目で、それでやっぱり騎士だった」 ジャムが瞳を閉じる。 唇に笑みを浮かべ、懐かしそうに彼は話す。 「俺はジェシアって街の出身で、孤児だった。まぁ、だからそのヘンの同じような境遇の奴らと組んでな、かっぱらいとかスリとか、ろくでもない事して生活してたんだよ。 ただな、あいつは違った。あいつは死んだ父親が騎士やってたのが誇りでさ、孤児のくせに真面目で、年下のくせにいつも俺達にケチつけて、盗んだものは一切受け取ろうとしないでちゃんと仕事して食ってた。……父親の武器の手入れを手伝ってた所為でな、冒険者相手に武器や鎧磨きの仕事が出来たってのもあるんだが、それで小銭稼いで、どうにか買った剣を一生懸命振って、いつか自分も騎士になるんだっていってた」 自由の国、と呼ばれるクリュースには孤児や片親しかいない子供はそこまで珍しくはない。 冒険者というのは、あるものは冒険者同士の争いで、またあるものは危険な場所へ行って命を落とす事も珍しくなく、その上、仕事で赴いた先でその場限りの関係を持つ者達も少なくなかった。 更には、この国に来て冒険者になればマトモな生活をしていけると、他国からやってくる身寄りのない子供も多い。 そんな子供達が夢見るのは、冒険者として大成して惨めな生活を抜け出す事。特に、他国では貴族の特権である騎士という地位は、人に認められる象徴のように、多くの子供達の憧れだった。 「冒険者登録が出来る歳になってさ、あいつは騎士になるんだって言ってセニエティに行った。それからまた何年かしてから、騎士になれたって手紙が来た。そりゃもう俺達は喜んでな、口うるさくてお堅いやつだったけど、あいつがすごく努力してたのは俺達は知ってたし、俺達みたいな汚い事もしてないあいつだからさ、報われるべきだって皆思ってた。掃き溜めで生きて来た俺達がさ、神様だって信じる気になれたよ」 「なら……」 ジャムが首都セニエティに来たのは、その人物を探しにだろうか。 そう聞き掛けたシーグルは、彼の瞳が涙を零すのを見て言葉を続けられなくなった。 「でも、やっぱり神様なんていなかったんだ。次に俺達に来たあいつからの連絡は、あいつが死んだって知らせだった。折角、あいつの夢が叶ったと思ったのに、あいつが報われるのはこれからだった筈なんだ」 歯を噛み締めて、ジャムは顔を手で覆う。 押し殺した嗚咽が聞こえる。 けれども彼は、腕で顔の涙を拭うと、顔を上げてシーグルに笑いかけた。 「そいつに、お前がちょっと似てたからさ、やばそうな連中が付けてるの見たらどうしても放っておけなかったんだよ。付けられる理由を知ったら知ったで、余計放っておけなくてさ、だから、気にせず頼れるとこは頼って欲しいんだ。あいつは俺の弟分だったからさ、助けてやれなかったのが今でもすごい悔しくてさ。だからさ、代わりっていったら悪いけど、お前を助けられるのが俺は嬉しいんだ」 ジャムの目にはまだ涙が残っていた。 シーグルは目を細める。けれども、じんわりと胸の中を熱くさせるその感情は、久しく忘れていたものだった。自然とシーグルの唇が笑みを浮かべる。 「だから、な」 ジャムはシーグルの肩を、今度は少し強く叩く。 それからシーグルを引き寄せて、歯を見せてまで笑ってみせる。 「俺の事は兄貴とでも思ってくれよ。お前も無理して気張ってばかりいないでさ、たまには可愛く俺を頼ってくれ」 シーグルは釣られるように笑いながら、だが瞳を閉じて眉を寄せる。 様子の変化を感じたジャムからの笑みが消えて、彼は心配そうにシーグルの顔を覗き込んだ 「兄は……いるんだ」 呟くような小さな声は、けれどもジャムには聞こえていた。 「いるんだ。でももう俺は家族じゃないから、兄と呼ぶ事は出来ないんだ」 泣きそうに声が震える事を、シーグルは自分でも抑えられなかった。 涙を流さないのが精一杯で、それ以上話を続けたらそれも耐えられそうに無かった。 ジャムの手が頭に置かれる。 子供をあやすように優しく撫ぜられて、感情を押さえ込んでいたシーグルは、耐え切れずに顔を下に向けた。 「お前も、いろいろ辛い事があるんだなぁ。そうやっていつも気ィ張ってるのは、そうしないと耐えられないからだろ。たまには泣いちまっていいんだぞ、辛い事は辛いって文句いったっていいんだ」 シーグルの瞳からは涙が零れる。 それでも声だけは耐えて、苦しそうな息だけが漏れる。 撫でてくる手の暖かさと優しさの所為で、耐えてきた感情が涙と一緒に溢れ出すようだった。 幼い頃、愛されていた頃、撫ぜてくれた母の手を思い出す。 抱き合って泣いた、幼い兄の暖かさを思い出す。 「……本当に、お前は悪くない、悪くない、のになぁ」 ジャムがシーグルの頭を撫ぜながら呟いた。 そして。 「ごめんな」 言ってシーグルの頭をそのまま掴むと、無理矢理顔を上げさせる。 驚いて目を見開いたシーグルの目の前に、緑色に鈍く光る宝石が押し付けられた。 「な……」 疑問を言葉にする間もなく、シーグルの瞳が閉ざされる。 途端に、がくりと力を失った体を、ジャムが支える。 見ただけで相手を眠らせられる眠り石は、眠りと意識を司るアルワナ神官が作る魔法アイテムだった。凝視させないといけない上に警戒されたら使えない代物であるから、動物や意識が薄い者、こうしたふいうちくらいにしか使えない。シーグルもジャムが敵であったならこんなものが利く事はなかっただろうが、それだけ今のシーグルがジャムに心を許していたとも言える。 ジャムはシーグルの顔を苦しげに一度見つめ、その体を肩に担ぐ。それから殆ど間を空けずに、二人の男がジャムの傍にやってくる。ジャムが彼らに合図をすると、男の一人はシーグルとジャムの荷物を持ちあげた。 「本当にいいのか?」 その男がジャムに尋ねる。 ジャムは顔から表情を消して、シーグルを担いだまま辺りを見回す。 「辺りの連中は眠らせといたよ。すぐ気付くけどね。でも十分でしょ?」 頭からフードを被ったもう一人の男がいえば、ジャムは急ぎ足でその場から立ち去ろうとした。 「おい、本当にいいのか? お前……」 最初の男が尚も引き下がらずに言えば、完全に表情を消していたジャムの顔が、僅かに苦しそうに歪んだ。 「計画は実行する。……恨まれる覚悟なんかとうに出来てるさ」 |