廃村・過疎集落探訪体験記
2000年秋頃に姿を消してしまった旧脇ヶ畑村役場(右側の赤錆びた屋根の建物)です。
「まだ雪が残る多賀町の過疎集落」 〜 まめさんより
「晩秋の海辺の廃村(野崎島)」 〜 長崎ゆかりさんより
「脇ヶ畑村廃村紀行」 〜 廃屋の猫さんより
「八丈小島探検記」 〜 豊田泰弘さんより
「廃村 峰 4度目の正直!?」 〜 ぴぴさんより
「宮崎最南端の幻の分校跡を訪ねて〜宮崎県串間市」 〜 水上みなみさんより
「名寄・北山集落跡探訪〜北海道名寄市」 〜 成瀬健太さんより
「漁村の廃村・歩古丹集落跡探訪〜北海道増毛町」 〜 成瀬健太さんより
このページでは,「HEYANEKOの旅心のページ」に来ていただいている方から,廃村や過疎集落の探訪体験記を募っています。全国あちこちからの声が集まると,面白みのある廃村関連のページができる感じがします。
廃村や過疎集落に行かれて何かしら感じることがあった方は,是非私宛にご連絡ください。登山や自転車,島旅が趣味の方から,廃墟フリークの方,初めての方まで,いろいろな方の探訪記が集えばよいなと思うところです。
アイデアを与えていただいた,「Eureka!」の村岡様とまめさんに感謝いたします。
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まだ雪が残る多賀町の過疎集落
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まずは,兵庫県のまめさんからのご報告です。廃村・過疎集落探訪は初めてとのこと。
時期は2001年3月,場所は滋賀県多賀町(旧芹谷村)です。
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3月11日、行ってきました、多賀町!しかし通行止めが多く、しかも普通のセダンで行ったので、そうでないところも近付けず終いのところが多く、5月頃再トライということに。
とりあえず行ったのは、桃原、霊仙入谷、山女原です。
霊仙入谷では、廃村の記録写真を撮り続けているという方が雪に埋もれた廃村を撮影されていました。
冬は、周辺の環境自体も眠ったようになっているからか、私が初心者だからか、思ったよりも過疎集落と廃村の区別がつきにくいような気がしました。夏の方が、草木が生命力に溢れている分、廃村が際立つのではないかと。
写真を撮られていた方によると、霊仙入谷は年間を通じて生活している方はいないとのこと、
10年程前に皆さん離村されたそうです。春や夏には天気が良ければ来て、山の芋を植えたりされている方もいるとのことでした。
もうちょっとあったかくなってから出直します(~,~;).
桃原は、崩れかけた小屋や倉などがところどころに見受けられるものの、廃村とは思えない生き生きとした雰囲気でした。
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やはり,3月中旬だと多賀町あたりでも,杉(Sugi)や保月(Houduki)といった標高500mを越える集落への道は通行止めでしたか・・・
廃村と過疎集落の区別は・・・ 実はあまりはっきりしません。
土台ぐらいしか建物の跡がなくて,記念碑しか残っていないとなると明かに廃村ですが,往時の建物が残っているほうが味わい深いと思われる方が多いのではないでしょうか。
私は,春や夏だけでも往時の建物に寝泊りして暮らす方がおられる集落は,過疎集落と呼ぼうと思っています。
山女原(Akenbara)と桃原(Mobara),霊仙入谷(Ryouzen-Nyutani)の集落の雰囲気の違いは,驚かれたのではないかと思います。
写真を撮られていた方がおられたとのこと。
廃村や過疎集落の雰囲気が好きな方ってなかなかの数が居そうで,興味深いお話です。
季節や天候,時間によって,同じ場所でも全然雰囲気が違うというのはよくあることです。サクラの頃の保月は,きっととても綺麗だと思います。5月が楽しみですね(^_^;)
(C) 03/18/2001
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晩秋の海辺の廃村(野崎島)
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山口県(元長崎県)の長崎ゆかりさんのレポートです。ゆかりさんもはじめての廃村探訪です。
時期は2000年11月,場所は長崎県小値賀町野崎島です。
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26・27日、すばらしい自然が残っているという野崎島に、ついに行く機会を得ました。五島には福江島に3回、上五島に2回行ったことがありますが、離島の離島(長崎では、小さな島をこのように言います)に行くのは初めてです。
野崎島は、想像していたよりもすごく素敵な所でした。島では以前には3つ(野崎・野首・舟森)の集落があり、その内の2つ(野首・舟森)がすでに廃村となっています。
廃村 野首で人の住んでいた形跡といえば、水がめ、陶磁器の破片、薬品瓶等が散らかっている場所が元住居である・・・といった具合で、はっきりと廃墟的建造物が残っているわけではありません。
軍艦島や崎戸町の炭鉱アパート群を目にしている私にとって、廃村というものがこのような形で存在するのかと、たいへん感慨深いものがありました。
島では野首・舟森の廃村で人間の生活が止まったことからシカの個体数が増え、現在ではシカの被害を防ぐために野崎集落の周りには高いフェンスが張り巡らされ、人間はその中で生活を送っています。人の生活が止まっても、自然はそのまま、いや、むしろ成長し続けている・・・大げさかもしれませんが、現在の私たち人間の存在価値を問われているような、そんな感覚に陥りました。
住民は一世帯2人で、ほぼ無人の島…という感覚で行ったのですが、実際はシカ調査隊の学生らしき人達、ダム工事の方々、漁師の人達と、島に出入りする人はかなり多くて、楽しい時間が過ごせました。
朝、島の桟橋で漁師のご夫婦がアジを釣ってました。あんなにたくさん釣れるなんてすごいすごい。感動していると、「魚は好きかね?」と聞かれて、「だいすきです〜!!」と答えたら、おじさんが釣ったばかりの大きなタイをさばいてくれました〜。芸能人気分(^^)新
鮮な鯛のお刺身を、朝から食べました。もう、お魚大好き!いただいたアジと、タイのあらとお刺身の残りを、帰りの小値賀で買った発泡スチロールにいれてお土産にもって帰りました。
道中では、住民の神主さんが飼っているチョコちゃんという犬がずっと私について回って、お供してくれました。おかげでシカは逃げ
るし、デッサンは出来ないし(笑)でも、とっても可愛くて、さよならするのが悲しかった。
本当に楽しい旅でした。また、必ず行きます!
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野崎島には,私も一緒に行ったわけですが,丸一日じっくりと楽しめましたね。
初日だけでも,廃村 野首(Nokubi)の学塾村(学校跡)で,中に入っていた野生シカの群れに出くわしたり,野首教会にカギをもらって貸切で入って,調子よく窓を全部開けたら閉めるのに一苦労したり,夜の野崎漁港に入ってくる船がいて,密航者じゃ
ないかとおそれたり・・・ と,いろいろありました(^_^;)
二日目の朝,漁師さんがアジを釣る様子はとてもインパクトがありました。お刺身は美味しかったし,この手の意外な展開はとても嬉しいものです(^_^)
イヌのチョコちゃんはほんと可愛かったのですが,もしも野崎島が無人島になって,神主さんもチョコちゃんも居なくなると思うと,とても寂しいです。また足を運ぶことがあったら,再会したいものですね。
廃村にはたくさんの廃屋があるようなところから,まったく往時の面影のないところまで,いろいろあるのですが,多くは山奥にあり,野首のような海辺にあって広がりのある廃村は珍しいと思います。
ゆかりさんからは,その後「さようならキリシタンの島」という離村のときの新聞の記事を送ってもらいました。野首の離村は1971年3月31日とのこと。どうもありがとうございました。
# ゆかりさんは,「ねこ!猫!ニャン子」というWebで,軍艦島や崎戸町の炭鉱跡の記事を公開されています。
(C) 03/20/2001
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脇ヶ畑廃村紀行
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東京都の廃屋の猫さんからのご報告です。言わずと知れた廃墟系Webの老舗,「残骸趣味」の管理者さんです。
時期は2000年8月,場所は滋賀県多賀町(旧脇ヶ畑村)で,3部作です(^_^;)
=(前 篇)=
2000年8月某日。近江鉄道・多賀大社前駅に降り立った唯一の観光客である私は罰当たりにもその格式高い神社を素通りし、廃村・杉を目指して歩き始めました。
当地へは八重練(駅から約4km)を経て杉坂を登り杉原峠に至るのが最短距離の筈ですが、私は地形図で破線になっている道をあまり信用しない主義なので、もう2km先の栗栖から峠に通じているつづら折りの車道をルートに選びました。
ぐいぐいと高度を上げ、峠を乗り越すと廃村・杉に到達します。休憩時間を入れて栗栖から1時間半といったところでしょうか。
杉はひっそりとした廃村・・・ではありませんでした。製材会社の人が木を切り出していたのです。
ここへ来るまでに気付いたのですが、この辺りの山林は枝打ちも丁寧になされていて、手入れがよく行き届いています。林業で採算が取れるということなのでしょう。それでも杉は廃村になってしまった訳です。
チェーンソーのモーター音が響く杉を後にして、保月へ向おうとすると、今度は前方からバイクのモーター音が聞こえてきました。
しかしやって来たのはオフロードバイクではありません。
何と郵便配達の原チャリです。もちろん運転者は、おなじみの制服を着ています。
この道は2つの廃村を結ぶ一本道。一体誰に何を届けようというのでしょう。
まさかと思い、遠ざかる郵便配達人の背中を目で確認してみましたが、尻尾は生えていませんでした。
なんだ、タヌキじゃないのか・・・
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旧脇ヶ畑村(保月(Houduki)・杉(Sugi)・五僧(Gosou))は,標高500m超の集落群ということで,下界からの隔たり方は,島に通じる匂いのあるところです。陸の孤島という表現がよく似合います。
人口も昭和10年で320人,昭和30年で230人と離島並みです(^_^;)
しかし,多賀大社前駅から歩いてのアプローチというのはすごいです。五僧などは岐阜県との境目ですから・・・ 地形図で調べると全行程の距離は40km近くありました。
郵便屋さんはなかなかタフでして,私は根尾村の最奥の越波(Oppa)でも遭遇したことがあります。杉−保月間の山の深さを考えると,タヌキに遭遇しても不思議ではありませんが・・・(^_^;)
# 郵便ポストが保月にあって,杉にないということが,個人的な過疎集落と廃村の区分の大きな要因になっていたりします。
(C) 03/22/2001
=(後 篇)=
約1時間で保月に着くと、驚いたことに子供の歓声が聞こえてきました。
や、やっぱりさっきの郵便配達はタヌキで、目の前を走り回っている子供もタヌキで、
きっとここはタヌキの里で、私はタヌキに化かされているんだぁあああ
・・・勿論そんな訳はありません。
かつての村人達が家族連れでお墓参りに来ていたのです。
杉と違い、ここには寺と墓地が残されています。そのため杉のように家を朽ち果てるままにはせず、お彼岸やお盆の時に滞在できるよう、手入れを怠らないのです。
半壊した郵便局跡を除けば、廃村の憂愁というものは感じられず、どこか別荘地のような和やかな雰囲気さえ漂っていました。
保月を出る時には、もう午後3時をまわっていました。
権現谷への下りにかかると、急に道が荒れ始め、拳より1〜2まわりも大きい落石が、路上に振りまかれています。
そんな悪路にもかかわらず、地元の車は慣れたもので、特に減速することもなく、平気な顔で通り過ぎていきます。
川を渡って工事中の道路を登っていくと汗もかかないうちに峠に着いてしまいました。新しい道路は峠から先が全く手付かずで、今は廃村で行き止まりになっています。そこが五僧でした。
保月からの所要時間は1時間弱。残っているのは1戸、多く見積もっても2戸しかなく、道路工事の傷痕も真新しいせいか、うら寂しく痛々しい感じがします。
今日の予定を全て終え、あとは川沿いを下って、駅へ戻るだけとなりました。
権現谷は灰白色の岩石に埋め尽くされた涸れ川で、その荒涼とした景色が疲れた身体を一層重くします。分校に着くころには日もとっぷりと暮れてしまいました。
ヘッドランプで足元を照らし、阪神・広島戦をラジオで聞きながら、マメだらけの足を引きずるようにして、ひたすら駅を目指します。
ようやく多賀大社前駅に到着。コンビニで買ってきた牛丼を貪るように食べていると、ラジオから午後9時を告げる時報が聞こえてきました。
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振り返ってみると,保月にはほとんど廃屋がないのです。半壊した郵便局兼村役場跡ぐらいで・・・
その後,「気分はhigh(廃)」というWeb(管理者Yu-Kiさん)の「多賀の廃村記」では,郵便局跡は見つからなかったとあるので,大丈夫かどうか気になるところです。
# これを綴って1週間ほど後に,「山人舎」というWeb(管理者sanjinさん)の「近江カルスト逍遙記」で,
# 取り壊されたことを知りました・・・ 合掌。
五僧では,私は工事のおじさんに「五僧とはここですか?」と尋ねたら,土地売買の関係者と思われたようです(^_^;) 多賀町の公式パンフにも「廃村」と記されているなど,妙な存在感のある廃村です。
私は山女原(Akenbara)に着いたとき,「人里に戻ってきたなあ・・・」と感じたものですが,多賀大社前駅まで歩きとなると,それどころではなかったかもしれませんね(^_^;)
(C) 03/24/2001
=(補 遺)=
廃村とは直接関係のない話ですが、もう少しお付き合い下さい。
「見慣れない地形だな」
これが初めて旧脇ヶ畑村周辺の地形図を見た時の感想でした。
杉・保月一帯は傾斜の緩い高原状の尾根になっていて、両集落間は小さなアップダウンだけで行き来することができるのですが、周囲は断崖と言っても良いくらいの急傾斜が高さ400mにもわたって続きます。
極端に言うと、皿の上に載ったプリンみたいな形です
(この地形がカルスト台地特有のものだと知ったのはかなり後になってからでした)。
これではいくら住民が少なくても尾根上の集落同士で村を形成する他ありません。
もう少し詳しく見ると、杉も保月も尾根上の小さな窪地に位置していることがわかります。
これはドリーネ(カルスト台地の凹地)と呼ばれる地形で土壌が堆積しやすく養分が周囲から流れ込むため耕作に適しているのだそうです。
当たり前と言えばそれまでですが、こうした合理的な土地利用には感動さえ覚えます。
もっとも杉も保月も今では廃村になっている訳ですが・・・
大変長くなりましたが、私の脇ヶ畑廃村紀行はこれで終わりです。
旧脇ヶ畑村を歩いてみて、改めて廃村の「深さ」を知ったような気がします。
廃村というものに不謹慎にも魅力を感じてしまった私は「都市住民の手前勝手なノスタルジーだ」と叱られるのを承知の上で、これからも廃村を巡っていくことでしょう。
機会があれば、また体験記など書かせていただけたら思います。
次回は簡潔にまとめますので、どうか御安心下さい。(笑)
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多賀町の旧脇ヶ畑村や芹川流域(旧芹谷村)辺りは,「近江カルスト台地」と呼ばれるそうで,石灰岩,涸れ川,湧き水,風穴などにその特徴が映し出せれていますね(^_^;)
カルスト台地については,私も2001年になってから,先にも挙げた「山人舎」を見て初めて知りました。
廃屋の猫さんには,埼玉県秩父山系の白岩,冠岩,奈良県奥高野の中津川といった廃村を「残骸趣味」で教えていただいていまして,旧脇ヶ畑村(保月・杉・五僧の三ヶ村)の情報はそのお返しという感じとなりました。
くしくも,この記事の編集中(公開前)にsanjinさんからメールが来ました(^_^;)
WWWの輪は非常に広範囲なわけですが,専門分野ではわりあい狭い範囲で広がって行くわけですね・・・(^_^;)
(C) 03/31/2001
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八丈小島体験記
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兵庫県の豊田泰弘さんからのご報告です。豊田さんは「離島航路」という島旅関連のWebの管理人さんです。
時期は1997年3月,場所は東京都(伊豆諸島)の八丈小島です。
=(前 篇)=
97.3.11
朝、ストレチア丸にて八丈島底土港にに上陸。近くの野営場にテントを張る。
重い曇天で、いつ雨が降るか分からない。八丈富士も雲に覆われている。
野営場はテントが3張りほど。オフシーズンで、人気がない。
街中へ歩き始めたが、いきなり雨が降った。ラッキョウの粒のような強烈な雨。八丈警察に飛びこみ、雨宿りをする。
警察の人としばし雑談。八丈小島に渡りたい、という話をすると、釣りの渡船の電話番号を教えてくれた。
公衆電話で、交渉してみる。釣り人は餌代込みで7000円だが、散策は4000円で良いとのこと。4000円なら許容範囲。明日、天候が良ければ渡ることにする。
テントの隣人、T氏に一緒に行かないか、と誘ってみた。険しい無人島なので、一人で行くのは心細い。渡船「正丸」の船頭にも底土の野営場にいるなら、他の人も誘ったらいい、と言っていた。
97.3.12
4時45分起床。島の反対側の八重根港から6時半出航なので、早起き。
夜の明けぬ八丈の街を横断し、八重根港へ。釣り人が20人ほどいた。
船頭の話によると、時々釣りとは関係なしに好奇心で島に渡る者もいるらしい。10tほどの小船はよく揺れる。
岩場に船の舳先を乗り上げさせ、そのすきに島に乗り込んだ。
島の周囲は崖ばかりである。600mほどの太平山が高く見える。
この島に来てしたいことは、部落の跡の散策、そしてできたら、山に登りたい。
船頭に10時半に迎えに来るから、と言われて船から下りたが、ここが島のどこか、手もとの地図を見ても良く分からない。とりあえずうろうろと歩いてみることにした。
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豊田さんは,島旅MLというメーリングリストに参加されていて,私も1999年5月より参加しています。私が参加してほどない頃,八丈小島の話題が盛り上がり,1999年7月にこの体験記を挙げられていることに気が付き,連絡を取って引用させていただきことになりました。
私が知っている範囲では,Web上では初めての八丈小島探訪記です(^_^;)
八丈小島は興味深い存在なので,「行きたいもんだ」という気持ちが先行して妙な回答になっていますが,何卒ご了承ください。
この記録を読む限りでは,わりあい簡単に渡ることができるようですね。「正丸」は,本木修次さんの著書「無人島が呼んでいる」でも登場しており,要チェックですね。4000円でしたら,安心して使うことができます(^_^;)
=(中 篇)=
上陸は岩場をよじ登るようだった。太平山に登ろうと思ったが、背丈ほどの笹竹が斜面にぎっしりと生えていて、ここからは登れない。一時笹竹の薮の中を30分ほどさ迷った。
部落の跡も見当たらない。というか、このような海に面した急なところに部落があったとは考えづらい。
2人して「よく分からんな」等と言っていると、同行のT氏が建物の跡を発見。石組みの枠だけが残っていた。中に入ると、1990年の落書きがあった。
海伝いに歩くと、部落の跡を発見。意外なところにあった。
建物としては学校跡のみが辛うじて残っていた。中にはヤギの死骸が幾つかある。
小さな運動場。部屋は3つしかない。門柱には「宇津木小学校」「宇津木中学校」との字が読める。
地図で史跡のマークがあり、「金次郎の墓」「為朝神社」が近くにあるはずである。
金次郎の墓ははっきりと楷書でそう書いてある墓石があった。
その他、日蓮宗の髭文字で書いた小さな碑や、苔むした墓など。為朝神社はいくら探しても分からない。
部落の建物は石の土台のみが残っている。20軒程度か?
平地の全くない部落で、港は桟橋さえない。
崖っぷちのやや入り組んだところを申し訳程度にコンクリートで固めている。
そこに降りる道も階段などなく、岩場の隙間にコンクリートを入れ、荷物がなければ這わなくても通れる、と言う程度。この部落では、船をどこにどうやって揚げたのだろうか?
部落に水槽や便器、焼酎の空き瓶などのみが残っている。
25年の歳月は確実にこの島から人間のいた跡を消しつつある。
海が荒れれば波しぶきがかかりそうな岩場にお堂があり、昔の硬貨がそばに落ちていた。
10時半、移動の船が来た。もう一つの部落、鳥打に向かう。釣り客も多くいるが、誰もこの島に人が住んでいたという歴史を気に留めない。岩場に新しい弁当の空箱がうち捨てられていた。
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渡船は最初に宇津木(Utsuki)に上陸して,次に鳥打(Toriuchi)に向かうんですね。計算すると両集落とも3時間半くらいは探索できるようで,このスケジュールは廃村探索をするにはちょうどよい感じです(^_^;)
学校跡の門柱や墓石の文字が読み取れるというのも嬉しい話ですね。ヤギの死骸はあまりみたくないですが・・・(^^;)
水槽や流し,風呂,便器,空きビン,水ガメなどは,廃村ではよく見かける遺物ですが,黒潮の真っ只中の小島で見ると,また新しい感銘があるいそうです。
足を運ぶときには,本木修次さんや小島出身の民宿の方などから事前の情報を仕入れて,為朝神社も見つけ出したいものだと思います。
=(後 篇)=
宇津木から島を半周し、鳥打の港に着いた。宇津木とは違い、平地がわずかながらもある。段段畑のあとのようなところもあった。宇津木よりも環境としては恵まれているように思えた。
港も、一応コンクリートで固められた船揚場がある。3t程度の船なら揚げられそうに見える。ただし、桟橋はない。
宇津木よりもはっきりした道跡があり、上り詰めた所に学校跡があった。
部落の跡も宇津木よりは戸数が多い。
学校には有名な赤ペンキの詩が書いてある。「今日を限りの故郷よ」という詩に、私もT氏も、何も言えなかった。
宇津木と同じようにヤギが多い。怪我に衰え、まさに死にゆく瞬間のヤギがいた。
鳥打から宇津木へと行く道があったと思えるので探してみるが、どうやっても薮に入り込んでしまう。
港に降りると、釣り人が10人ほどいた。
14時半、八重根港に迎えに来た正丸で帰った。八丈島に帰ると、現実の世界に戻ったようだった。
後日談
・ 翌日、T氏は八丈島の中ノ郷から底土までのヒッチハイクをした。そこで、八丈小島に世捨て人が住んでいる、という情報を耳にした。太平山の中にいて、釣り人とは接触がないらしい。本当だとすれば、面白い情報である。
・ その後私は数日間八丈島に滞在し、青ヶ島に渡った。
・ 帰りしなに寄った東京八重洲ブックセンターで、「黒潮の瞳とともに〜八丈小島は生きていた」(漆原智良・たま出版)を偶然見つけた。往時の写真が何点かあり、興味深く読めた。
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鳥打の最後の村長さん(鈴木文吉さん)が記したという学校跡の「惜別の詩」は,この道では有名ですよね。何でも,全国で初めての挙島離村で,当時(昭和44年)は話題になったそうです。その後も離村をテーマにしたTVドラマなどで取り上げられているはずです。
離村から30年以上経過して,学校跡の建物もいつ崩壊するかわからないほど傷んでいると耳にします。私も残っているうちに見にいきたいと思うことしきりです。
鳥打集落のいちばんてっぺんにあったという戸隠神社には行かれたのでしょうか。
「黒潮の瞳とともに 八丈小島は生きていた」は,「無人島化した離島一覧」をまとめてその存在を再認識して,少し前に入手したばかりです。著者の漆原智良さんは,元鳥打の学校の先生ということで,暮らしていないとわからない描写が各所にあり,感動を覚えました。
私も近いうちに足を運びたいものだと思います(^_^;)
(C) 04/23/2001
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廃村 峰 4度目の正直!?
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神奈川県のぴぴさんのレポートです。「温故知新」というWebで,たくさんの廃村の写真を公開されています。
時期は2000年9月から2001年1月にかけて(^_^;) 場所は東京都奥多摩町峰です。
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「廃村」..何とも言えない響き..その言葉から、寂しさよりも興味をかき立てられた私は、
ついに行動を起こした。
目的は「峰」を確認し、「タイムマシンの廃屋」の資料を見ること。
その資料から教科書では学ぶことのできない「生」の歴史を学び取れればと思い、アウトドア
仲間と出撃した。
第一アタック:9月上旬、古里駅前のコンビニ集合。ダチはすでに到着し気合いが入っている。
もちろん、私の気合いも120%だ。この気合いを仕事に向ければもっと出世しそうなのだが...
話はそれたが鳩ノ巣駅まで移動し登山を行う。しかし、ひさびさの運動であり、さらに豪雨の中体力を
かなり消耗し、映画「八甲田山」の兵隊さん状態でようやく「峰」に着いた。
だが、2階建ての廃屋を見つけたときその疲れは吹き飛んで、資料探しに躍起となった。(^^)
が....ない!ない!!ないぞ〜!!! おぃおぃマジかよ〜 なんでないんだ?
HEYANEKOさんのHPはガセか!?(スミマセン) しかし、一冊も残ってないのはおかしい。
なぜだ...いろいろ考えた結果、誰かが持ち去ったと言うことで納得し失望して帰った..
さらに帰り道に迷うとおまけ付きで、ナントカ鳩ノ巣駅に戻ったのは出発から4時間後だった...
第二アタック:11月中旬、元写真部の「I君」を引き連れ必勝態勢で望んだ。
HEYANEKOさん
に、メールにて教えていただき「これで、見つからなかったら馬鹿だぜ!」と、I君を先導し堂々と
山登りを開始した。ただ2人ともオヤジであるため4回ほど休憩しながら、「峰」に到着。
すでに、5名ほどの先客有り。「ザコは後回しだ。資料満載の廃屋をゲットする」と、オヤジ2人で
廃村内をロンメル将軍真っ青の機動力(?)を生かし走り回ったが、収穫なし..
結局、その無理がたたり短時間の滞在で下山。途中、「大根ノ山ノ神」のところで「峰はどう行くの
ですか?」と、カップルに尋ねられ教えたが、なにか複雑な心境..
第三アタック:12月初旬、もともと「ダチ」が少ない私は、女房を連れて「峰」に向かった。
前回の失敗を繰り返さないため、「アキバ」で買ったハンディカムで、遠方のズームもバッチリだ!!
天候も味方し晴れ。う〜〜ん「大根ノ山ノ神」は女好きか?と、罰当たりなことを考えながら、
スムーズに到着。
女房は、ハンディカムで紅葉を撮ってご満悦だ。廃屋が嫌いな女房もはしゃいでいた。
しかし、このときも「日天神社」後ろの山道を行ってしまい第一アタックの二の舞を踏みそうだった
ので、「福島さんの家」周辺を撮影しコンビニで買ったサンドウィッチを食べ下山。収穫は殆どなかった
が、2人でのピクニックを女房は楽しんでいた(^^)
第4アタック:2001年1月2日、みんなは新世紀を味わっているが、我々廃屋フリークには後がない。
旧年中に見つけられなかった「タイムマシンの廃屋」、今を逃せばもうダメだろうと、ヒマであろうダチ
にTELすると案の定寝正月であった。
今までの経緯を話し、古里駅前で待ち合わせた。しかし、2時間以上ダチが遅刻し午後4時から登山開始。
冬の日の日没は早い..早くしないとシャレにならない。
今回は、HEYANEKOさんからの「アンチョコ」もあり、ようやく「タイムマシンの廃屋」に到着した。
「写真で見たのと同じだ..」と感動したが、なんせ時間がない!もうすでに陽は落ちようとしている。
なんの躊躇もなく2階へのはしごを登った..そして、ようやくご対面できた貴重な資料。教科書や新聞..
室内は荒れてはいたが、保存状態はすこぶる良い。ダチもこの保存状態には驚いていた。
写真を撮ろうとしたが、暗すぎて写るかどうか判らないのでフィルムの続く限り取りまくった。
取り終えて、帰ろうとするとしたときには「と〜おき〜山に〜陽はおちて〜」と、懐中電灯を灯しラジオを
ガンガンにならして下山した。しかし、結果的になんとか使えるだけの写真が撮れ公開!
ここまでいろいろなことがあったが、あらためてみるといい思い出になった。付き合ってくれた仲間には、
本当に感謝の気持ちでいっぱいだ。
それ以来、「峰」には行っていない。今までは「タイムマシンの廃屋」を見つけることばかりに
気を取られていたが、次回の訪村では新たな発見ができるよう、いろいろな角度から峰を見られるように
なりたいと思う。
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「タイムマシンの廃屋」・・・ 私が「廃村と過疎の風景」で最初に公開したときは「加藤さんの廃屋」と言っていたんですね・・・(^_^;)
その後,「蚕棚の廃屋」と改めて,まとめの段階で「タイムマシンの廃屋」に再度改めたという,私としても強烈なインパクトがあり,こだわりを感じる廃屋です。
ぴぴさんには,その都度名称を更新していただき,恐縮するところです。
一度の探索では,全容を捉えるのは難しいというのは一般的なことだと思います。私も一度目には福島文長さん邸跡を見つけることができませんでしたし・・・
特に「タイムマシンの廃屋」は,「廃墟Explorer」の栗原さんをはじめとして,多くの方が見つけ損ねているようなので,このことも興味深いところです。
ぴぴさんから峰の地図の画像データをメールでいただき,「このあたり」とお返事したのも,なつかしい話ですね(^_^;)
しかし,雨の中,夕暮れ間近と,悪条件の中,アプローチを重ねられたパワーはすごいです(^_^;)
「タイムマシンの廃屋」はじっくりとは見られていないようなので,季節や時間を変えて行かれると良いかもしれません。
私も地元の詳しい方にお話を伺った後で探索できたら,きっと新たな発見があるに違いないと思うところです。
奥さんともいかれたとのこと。「廃キング」という感じで(・・・というWebもありましたが・・・(^^;)),ご夫婦で趣味のひとときを共有できることは,とても良いことだと思います。
峰は比較的手軽に行けて,かつ何ともいえない雰囲気を持っているので,「廃キング」に向いている感じがします。
今後も活発な活動を期待しています。
(C) 04/30/2001
「廃村・過疎集落関連Web集」
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