雛壇状石灰鉱山集落跡の謎に迫る

雛壇状石灰鉱山集落跡の謎に迫る 東京都奥多摩町倉沢


石灰鉱山集落跡 倉沢に残る共同浴場の跡です。斜面にあるため,両脇が階段です。



2004/9/11〜12 奥多摩町倉沢

# 31-1
都下奥多摩町の山中に倉沢(Kurasawa)という石灰鉱山集落跡があるという話は,平成12年の秋,廃村探索を本格化した頃にネットを介して知りました。「伝説の廃村」とも呼ばれる 峰(Mine)との直線距離は6km。首都圏からならば,日帰りでふたつとも回ることが可能です。
ネット仲間の黒魔さんのWeb「Legend of Ruins 〜廃墟伝説〜」には地図付きの詳細な倉沢のレポートがあり,山の斜面に雛壇状に木造の社宅跡が並ぶ様子には驚いたものですが,あまり「行きたい!」と思うことはありませんでした。その理由は,浦和からならば日帰りで行けるという距離的な気楽さと,ネット上にたくさんの倉沢レポートがあり,行かずしておよその雰囲気がわかっていたことからです。

# 31-2
そして平成16年の秋,「廃村回帰」の気運と「かねてからの謎を解きたい」という気持ちに乗じて,倉沢を目指すこととなりました。
「複数がよい」と思い,心当たりをお誘いしたところ,秩父・浦山でもご一緒したSCEチームの佐藤さん,外山さん,高橋さん,堀川さんと,ネット仲間の冊子「廃校浪漫紀行」の著者 鎌田さんの6人が,9月11日(土曜日)午後12時半頃,JR奥多摩駅前に集うことになりました。
奥多摩駅からは鍾乳洞で有名な日原(Nippara)行きの西東京バスに乗り,18分ほどで倉沢バス停に到着しました。途中には奥多摩工業(株)氷川工場と同 日原鉱業所を結ぶ,曳索鉄道(氷川−倉沢停車場)の鉄橋があり,これらの施設はすべて今も現役です。

# 31-3
倉沢バス停からは「倉沢のヒノキ」(都内最大のヒノキで,都指定の天然記念物)上り口の看板脇の階段を上がっていきます。ヒノキには山道を歩いて15分ほどで到着し,まずは一服。さらに山道を5分ほど行ったところの右手下方には倉沢に今もひとり住み続けられている坂和さんの家が,左手上方に石灰鉱山集落跡の入口がありました。坂和さんは,鉱山集落ができる前からの山間の小集落 倉沢の住民です。
黒魔さんのレポート(平成13年頃のもの)では,「集落跡入口には江戸時代の蔵がある」との旨が記されているのですが,崩壊したらしく,そこには苔むした柱の跡が残るのみでした。

# 31-4
蔵跡から古びたコンクリートの階段を上がると,雛段状に並んだ木造平屋建の廃屋が見え始めました。同じ規格でできているところが,いかにも社宅跡です。廃屋の入口には,番号がふられており,よく見ると「7.4.22 青梅警察」との添書きがありました。平成7年4月といえば地下鉄サリン事件のすぐ後です。警察は「オウムが潜んでいるかもしれない」とにらんだ様子です。
倉沢社宅が建ったのは,日原鉱業所が稼動開始した昭和19年で,JR青梅線(御嶽−氷川(現奥多摩))も鉱石運搬を主目的に同年開通。最盛期には200人強が住まれていたが,日原社宅の完成(昭和33年)とともに徐々にシフトして,昭和41年〜42年頃に無人となったとのこと。

..

# 31-5
22〜23年少しという歴史の浅さもあってか,倉沢の廃屋群には峰とは好対照にからっとした印象があります。しばらく階段を上がった集落跡の中心部には,左手に食堂の跡,右手に共同浴場の跡がありました。食堂跡には大きな釜戸が,共同浴場跡には男女別の脱衣場,風呂おけ,木製の腰かけまで残っていました。他にも売店,床屋,娯楽場(劇場)まであったとのこと。この山の中のことを考えると驚きです。
もとの倉沢は,すべてが坂和姓の4戸20人ほどの小集落だったとのこと。そこになぜ雛壇状の鉱山集落が形成されたかが,私がかねてから感じていた大きな謎です。「戦時中なので,目立たない場所を開発したのかな?」などと推測しましたが,答はまとまりませんでした。

# 31-6
鉱山集落跡はかなりの広さがあり,6人は診療所跡,集会所跡などそれぞれ好みの方向へと動きました。その様子はかくれんぼのようであり,子供のような好奇心が呼び起こされます。そのうちにいちばん高い位置にある社宅跡に集まって語らいのひとときとなりました。
鎌田さんは廃校については冊子をまとめられるほど足を運んでいるのですが,廃村は初めてとのことで,興味深げです。SCEチームの面々は,現在,和製ホラー「SIREN−サイレン−」の続編(「SIREN 2」)の制作中。今回は息抜きのひとときとのことですが,その舞台は鉱山集落跡の無人島ということで,完成の折にはどこかに倉沢の景色の断片が登場するかもしれません。

....

# 31-7
倉沢に感じたもうひとつの謎は,鉱山集落跡の奥のほうにある二階建の廃屋です。明らかに他の社宅と異なる構造を持ちながら,同じ敷地内にあることから,黒魔さんのレポートでは「社長宅」として登場するのですが,古くからの小集落の方の家だったとも考えられます。
この廃屋には,6人での探索の〆めにばらばらと足を運びましたが,最後方の私が着いたときには二階から佐藤さんが「おーい!」と顔を覗かせて手を振っており,しっかりとした様子です。中を見て印象深かったのは洒落た丸窓でした。
また,玄関前の庭には枯れかけたサクラの木があり,「春には花が咲くのだろうか?」と妙なところに興味が湧きました。

....

# 31-8
6人はここで日原の小学校跡に向かうチームと,倉沢に留まり神社などを探索するチームに分かれ,私は佐藤さん,堀川さんとともに二階建の廃屋の裏手にある神社へと向かいました。赤い鳥居とお地蔵さん,傾いた祠が印象的な神社は,一目で古い時代のものとわかりました。
この神社は地形図には記されておらず,「コンソン日記」(管理者コンソンさん)のページの記事で知ったものです。このページの倉沢マップはよくできていて,探索では人数分のコピーを用意したのですが,たいへん重宝しました。神社の後は,マップを頼りに診療所の奥の道を進み,朽ちかけた鉄橋を見に行きましたが,ここは行かなかったほうがよかったかも知れません。

# 31-9
帰路は倉沢バス停午後5時28分発の奥多摩行きバスで日原チームと合流。日原チームは小学校跡とその近くの奥多摩工業日原社宅を見てきたとのこと。恒例の飲み会は青梅街道と日原街道の三差路に近い食事処「農家ヘムロック」にて。なぜか新潟の地酒が充実していてびっくり。
現地で賑やかに過ごせたり,飲み会でわいわいできるのは大人数の良いところなのですが,気軽に地域の方からお話を伺うには不向きです。「謎を解くには往時の倉沢に住まれていた方にお話を伺うのがいちばん」ということで,この夜はJRで南浦和に戻って,下調べをし直し,翌日(9月12日(日)),バイクで単独の倉沢探索を試みることになりました。急きょの予定の変更は,近場ならではです。

# 31-10
「倉沢のお話を伺うならこの人!」とまず思い付くのが,ひとり住み続けられている坂和連さんです。TVや雑誌にも登場された著名人で,明治40年(1907年)生まれの97歳。その環境は,秩父の細久保にひとり住まれている中山頼之助さん(明治44年生まれ)と似ています。
南浦和から奥多摩までの途中,青梅市立図書館でコピーした「山と渓谷 2003年11月号」の「奥多摩山中 九十六歳ひとり暮らし」という記事を熟読して,質問事項の的をしぼり,電話でアポイントしてみたところ,「申し訳ないのですが,心臓が悪いので,見知らぬ方とは会わないようにしていますのじゃ」とのお返事。これは静観しなければなりません。突然伺って迷惑をかけなかったことをよしとしましょう。

..

# 31-11
坂和さんにお会いできなくても,再訪は基本です。鉱山集落跡到着は前日とほぼ同じ午後2時頃。「複数での行動と単独での行動の違いを知るのにちょうど良い」と思いながらコンクリートの階段を上ると,前日と変わらない社宅跡,食堂跡,共同浴場跡などが迎えてくれました。
診療所跡,集会所跡と,ほぼ前日と同じ順序で探索を続けましたが,複数と単独での違いはほとんど感じませんでした。ただ,皆で集ったいちばん高い位置にある社宅跡では,昨日の賑やかさがすでに戻らない過去になっていることに気付き,妙にしんみりとした気持ちになりました。これ以上探索を続けても謎解きには縁がないと判断し,再訪はここまでとし,二階建の廃屋には行きませんでした。

....

# 31-12
「倉沢と縁がある人に会えるならここ!」と,足を運んだのは前日は行かなかった日原です。日原鉱業所は倉沢と日原の間にありますが,倉沢社宅ができた頃には氷川からの車道は途中の大沢まででした。つまり鉱業所ができた頃の倉沢や日原の交通は,徒歩が基本だったわけです。日原はほとんど平地のない谷間の小集落で,徒歩交通の時代は山の裏側の秩父・浦山とのつながりが強かったといいます。
まず,小学校跡から奥多摩工業の社宅へと足を運びました。ここでいちばん印象深かったのは社宅内にあった理髪店です。営業は月に数回の様子で,人気はありませんでしたが,「倉沢の床屋はこんな感じだったのかな?」と想像力をかき立てさせる雰囲気を持っていました。

# 31-13
集落を一周した後,交番に駐在さんの姿が見えたので,ご挨拶をして「倉沢に縁のある方をご存知ありませんか?」と尋ねたところ,「この6月に日原から栃久保に越された荒館喜三次郎さんが詳しい」との紹介をいただきました。鳩ノ巣で峰の加藤良光さんを紹介いただいたことに続き,奥多摩ではなぜか駐在さんが良い縁を持ちかけてくれます。
「謎解きは荒館さんに頼るしかない!」と気持ちを引き締めて,氷川の手前の栃久保に到着したのは日もすっかり暮れた午後5時頃。大正9年(1920年)倉沢生まれ,84歳の荒館さんは,突然の訪問者をあたたかく迎えてくれました。

# 31-14
荒館さんが生まれ育ったのは,坂和さんの家がある倉沢よりもだいぶ山中に入った場所(上倉沢)で,石灰鉱山集落ができた頃は兵役で満州で過ごされ,昭和26年に日原に戻られ,林業に従事されていたとのこと。
世間話などを交えながら,雛壇状に鉱山集落が形成されたことの謎について尋ねたところ,「あの場所は坂和家所有の段々畑だった」という明快な回答を得ました。この瞬間,謎はあっけなく解けてしまいました。車道がない時代,鉱業所からそう遠くではない社宅の立地として,倉沢の段々畑に白羽の矢が立ったというのが真相のようです。

# 31-15
二階建の廃屋については,「役員クラスの高級社宅で,鉱山集落形成とともに作られた」という説と,「この建物は娯楽場で,古くからの家屋を改造したもの」という説に二分されています。白黒はっきりつけたくもあるのですが,謎のまま残るほうが面白いのかもしれません。
もうひとつ気になっていた小学校ですが,昭和30年頃では日原ではなくバスを使って氷川に通われていたとのこと。
お礼を言って荒館さんと別れたのは,夜の帳も下りた午後6時過ぎ。栃久保から青梅街道の三差路まで,バイクならば数分です。無事に探索を終えた余韻に浸りながら,前日6人で新潟の酒を飲んだ「農家ヘムロック」で,この日はひとりホットコーヒーを飲みました。

(注1) 倉沢の沿革の調査には,荒館さんのほか,奥多摩工業(株) 総務部の方,坂和さんの親類の方に協力していただきました。

(注2) 倉沢鉱山集落跡の建物は,平成17年11月頃に解体されました。



「廃村と過疎の風景(2)」ホーム