「廃村と過疎の風景(2)」まとめ(後篇)
「廃村と過疎の風景(2)」まとめ(後篇)
ダンノ峠−四郎五郎峠間,同志社大学の施設近くの雑木林にて。大きなサルノコシカケが目をひきました。
まとめの旅の最後は,平成17年4月,冬に積雪のため行けなかった京都・北山の廃村 八丁へリベンジしました。1月に無事に八丁へ行けていれば,また,3月に予定通り野崎島に行けていれば,違う形になっていたことでしょう。
思うように行かないことが多々あるのが旅であり,それを経て新たな展開が広がります。
当日は単独で,広河原菅原から旧京北町小塩まで,約9kmの道程を,6時間半かけて歩きました。雪は所々に残っていましたが,天気にも恵まれ,4年強に及ぶ旅の終わりを飾るにはちょうどよい,味わい深い廃村探索でした。
その7 京都府京都市右京区(旧京北町)八丁 (2005/4/17)
廃村 八丁・刑部谷・四郎五郎峠の三差路にて。案内板には単に「廃村」と書かれていました。
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「廃村が好きだ」…昭和56年3月,新潟県の角海浜(Kakumihama)で初めて廃村に出会って以来24年,平成11年10月,「秋田・消えた村の記録」に影響されて,本格的に全国規模での廃村探索を始めて以来5年半。振り返れば100ヶ所を超える廃村を訪ねていました。
「廃村と過疎の風景」のまとめ(平成12年11月)では,「なぜ廃村に心惹かれるか」の問いに,「命の侘しさや寂しさが感じられること」と答えていますが,その後,「わびさび」とともに「のどかさ」が大切な要素と思えるようになりました。廃村へ足を運ぶと,気持ちが和むのは,そこに過ぎ去った時代の「のどかさ」が残っているからに違いありません。
また,山登り・里山歩きのように,気軽に入手できる情報がなく,いろいろ調べものをしなければならない不便さも,廃村探索を続けるための原動力になっています。入念に下調べをして,見知らぬ廃村を訪ねて,その様子をまとめるという一連の作業には,それ自体に楽しみがあります。ただし,これは情報があれば,そのほうが楽ということは間違いありません。
二度目の八丁行きの往路は前回と全く同じです。だた,季節は春,快晴の日曜日ということで,京阪出町柳駅前7時50分発の広河原行きの京都バスは,山歩きの方で満員です。ようやく席に座れたのは,出発してから1時間強,花脊峠を越えてからでした。
菅原バス停着は,定刻通りの9時43分。ダンノ峠へ向かうハイカーは,私を入れて4組7名。適度な合間を作りながら山道を歩きはじめると,道や物陰など平面には少しばかり雪が残っていましたが,斜面からは完全に雪は消えていました。
一つ目の分岐では,前回と同じく尾根道を選びましたが,「雪の中,よくこんな坂を上がったもんだ」とちょっと感心。この道は,多くの八丁行きレポートでももうひとつの道(沢道)よりも人気があります。前回中途撤退した場所は簡単に通過できましたが,そこから峠まではかなりの距離と勾配があり,撤退の判断に誤りはありませんでした。ダンノ峠に到着したのは10時37分。峠には見晴らしと空の広がりがあり,「往時の八丁の村人も一服したんだろうなあ」と思いながら,ひと休みしました。
ダンノ峠から同志社大学の施設までは,明るい雑木林を抜ける緩やかな下りの道。二つ目の分岐では,楽とされる四郎五郎峠越えを選びました。四郎五郎峠は,見晴らしもない地味な峠です。途中に滝があるもうひとつの道(刑部谷経由)のほうが人気があるのも納得です。峠からはやや急な坂を下り,八丁川に取り継いでしまうと,後は川に沿った一本道なのですが,飛び石伝いの渡渉が数多くあり,意外に時間がかかりました。休み休み進んだこともあり,八丁に到着したのは12時10分,菅原から2時間半かかりました。
八丁は,地図やレポートからの想像よりも広々としており,トタン屋根の山小屋の横には土蔵の跡と八丁の歴史が書かれたプレート,そして往時の石臼がありました。また,家の敷地跡の石垣の様子は,私が数多く訪ねた廃村と同じ佇まいでした。
関西の山好きの方の間で語り継がれた廃村 八丁は,現在多くのハイカーがここを訪ねる人気のコースとなっています。廃村になじんだ私は,もの寂しさは感じることなく,ひとり高台でのどかな風景を見下ろしながら昼食休みを取りました。
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八丁が廃村となったのは昭和11年。「日本の過疎地帯」(今井幸彦さん著,岩波新書刊)には,「昭和22〜23年頃までは,比較的,家屋はよく保存され,土蔵の中には運びきれなかったかさばる家財道具や,分教場のわびしい九九の掛図なども見られた」と記されており,廃屋や土蔵,分教場跡が廃村の「わびさび」を醸し出している様子がよくわかります。今井さんご自身が昭和41年に訪ねられたときにも「二,三の小舎と一軒の土蔵が残っていた」とあります。分教場と九九の掛図も探されたそうですが,見つからなかったとあります。
土蔵跡から渡渉し,お地蔵さんに挨拶をして,少し道を下ったところには,二棟の古びた木造の山小屋が建っています。「八丁小屋」と呼ばれるこの小屋の入口には,「廃村八丁の会」という看板と時計がありましたが,人気はありませんでした。
往時の苔むしたお墓は,小屋よりさらに下った道沿いにありましたが,八幡神社の入口はお地蔵さんの近くにあったらしく,見つけることができませんでした。廃村八丁の会の方がしゃれっ気で作ったらしい八丁神社に惑わされてしまいました。
整備された歩きやすい山道を登り詰めたところが卒塔婆峠。名前のイメージとは裏腹な,見晴らしの良い明るい峠です。卒塔婆峠から小塩東谷まで坂を下り,帰り道は衣懸坂を越えて菅原に戻る予定だったのですが,衣懸坂は道がたどれないほど荒れていたため,小塩までの林道を歩くことになりました。小塩到着は午後4時5分。幸い1時間も待たずに乗れた周山行き終バスの乗客は私ひとりです。周山からJRバスに乗り継いで1時間15分,京都市街の阪急大宮駅に到着したのは夜の帳も下りた午後6時50分でした。
八丁が廃村になってから,今年(平成17年)は69年目です。30年目には残っていた往時の家屋,土蔵などは失われ,今は神社,お地蔵さん,石垣,お墓などが残るのみです。しかし,今も「廃村八丁」はしっかりと生きづいています。
全国各地に多数の廃村が発生したのは昭和40年代(今から30〜40年前)。語り継がれなければ,その存在は風化されてしまいます。「ここに村があった」。平凡なことですが,八丁に行くことによってこのことを明確にする意義が再認識できました。
長崎を訪ねたとき,doutokuさんが「軍艦島を世界遺産に」という大きな目標を立てて活動されていて,その成果が確実に上がっているということは,よい刺激となりました。八丁行きを成し遂げ,「廃村と過疎の風景(2)」の旅がすべて終わり,私が「廃村」をテーマとして「これから何ができるだろう」と考えてみました。
京都・北山の廃村八丁が,多くのハイカーに親しまれている山歩きのコースとなっているのは,その存在が語り継がれて,所在がはっきりしていることからです。そして多くの廃村は,八丁のような山歩きの範囲ではなく,里山歩きの範囲にあります。
「いつか,廃村探索が里山歩きのように皆が楽しめるカテゴリーになるといいな」。是非,廃村が全国のどこにあるかを明確にしたいと思いつきました。廃村から見た日本は,街から見たものとは別のものに見えます。「DISCOVER JAPAN」の副題の所以です。同じ志向の趣味を持つ方には,これを実感していただきたく思います。
「廃村と過疎の風景(2)」は,開始から9ヶ月後(平成13年10月)に前の妻が亡くなり,2年半のひとり暮らしを経て,終了の11ヶ月前(平成16年5月)にkeikoさんと再婚し,ふたり暮らしに戻ったということで,日々の暮らしを見直す動きでもありました。「DISCOVER MY LIFE」の副題の所以です。
職場と家庭,趣味は,生活の三本柱になっています。趣味の廃村の旅に行ける時間を捻出させてくれた職場の方々には,改めて感謝するところです。妻ともできるだけ一緒に旅をして,趣味の話をしあえる仲でいたいと思います。
あわせて,秋田の佐藤晃之輔さん,福井の吉田吉次さん,山口の長崎ゆかりさん,長崎のdoutokuさんをはじめ,「廃村と過疎の風景(2)」に係わっていただいた多くの方々に感謝いたします。
廃村の調査,フィールドワークは,ライフワークとして続けていきたいと思います。
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