自治体規模で消えた村(2) その5

自治体規模で消えた村(2) その5 福井県池田町河内,田代
〜旧西谷村の西隣,池田町の集落跡〜

河内の集落跡に立っていた,往時の村の様子を示す看板です。



2000/5/4 池田町河内,田代

# 7-34
水戸天狗党がたどった道を池田町の中心集落である市(Ichi)まで進み,市からはR.417を山に向かって進むことになりました。
R.417ということで,冠山峠を越えると,2日前に行った旧徳山村へ入ることができます。天気のよいところで,もう一度旧徳山村に行って,R.303から八草(Yachigusa)峠を越えて,北陸道木ノ本ICに出る計画を立てたわけです。
池田町は人口4032人(1995年国調)の小さな山間の町。「能面の里」ということで,能の雰囲気をあしらった地名の看板があちこちに見られます。市からR.417を5kmほど山に向かった志津原には,冠荘という第三セクターによる新しい施設がありました。

# 7-35
志津原の先にある河内(Kouchi)という集落は,志津原からの7kmほどの距離と,その山の深さから,廃村の可能性があると感じていました。
到着した河内で迎えてくれたのは「大沼清水」という湧き水と,「ふる里河内」という1963年(昭和38年)の集落の様子を記した看板でした。
看板には15戸の家と神社,小学校が記されているのですが,祠を除いてすべてなくなっているのはすぐにわかりました。
GWということで,案外多くのクルマが通ります。庭先にジュースの自販機を置いた家屋があり,おじさん,おばさんが屋外で作業をしていたので,缶コーヒーを買いました。

# 7-36
村の様子を伺ったところ,おじさんいわく,「山の中の集落からは,若い人は出て行っちゃったよ」とのこと。このときの会話で「こうち」という読み方がわかりました。あわせて「冠山峠は,越えることができますか」と尋ねたところ,山開きは5月14日で,まだ通行止めとのこと。ただ,バイクということで,「ひょっとしたら通れるかもなあ・・・」とのんきなお返事。
さらにR.417を2kmほど山に向かって進むと,田代(Tashiro)という私の手持ちのツーリングマップでは記載されていない集落跡があるということ。注意して先に進むと,取り壊された家の柱や,トタン屋根の古びた家屋が見つけることができました。

# 7-37
田代の集落跡から少し走ると,もう見飽きた「通行止」の看板。ここから管理上ではR.417は途切れ,林道冠山線となります。
バイクを止めて写真を撮っていると,名古屋ナンバーのクルマが入っていくくらいなので,「問題はないかな」と思ったのですが,しばらく上り道を進むと雪が目立つようになり,「峠まで4km」の看板のあたりで,クルマは通れないほどの雪の塊に遭遇しました。
「えへん,やっぱりバイクはいいねー」と得意になったのもつかの間。どんどん落石は増えて行き,1kmも進まないうちにバイクでも通過不能の雪の塊に出くわしてしまいました。ちょっとGWとは思えない風景に,悔しいというよりニンマリしてしまいました。

....


# 7-38
旧徳山村への迂回路はなく,この時点で廃村めぐりの旅は終わりました。幸い旧徳山村の各集落はしっかり回ったので,その辺りの悔いもありません。雪渓の近くの日だまりで地図を見直して,結果,池田から魚見峠を越えて武生近郊に出て,R.8を敦賀に向かって走って,敦賀ICから大阪へ向かうことになりました。高速に入るのを武生ICからにしなかったのは,夕陽の沈む海を見たかったからです。
綺麗な夕陽を敦賀市に入ってすぐのレストランから見て,堺の実家には,レストランから3時間半ほどで到着しました。
山の奥深い道を走ってくれたバイクは,その後4か月間(9月上旬まで),堺の実家に常駐となりました。



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