徳山村・水没直前の廃村の風景
徳山村・水没直前の廃村の風景
岐阜県揖斐川町徳山本郷,櫨原,塚,
________山手,戸入,門入
廃村 徳山本郷(とくやまほんごう)に最後まで残った校舎と銀行の看板です。
2006/8/5〜6 揖斐川町(旧藤橋村)徳山本郷,櫨原,塚,山手,戸入,門入
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# 11-1
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ソーシャル・ネットワーキング・サイト(SNS)の草分け「mixi」(ミクシィ)にSCEの佐藤さんからの紹介を受けて参加したのは平成16年8月,「廃村コミュニティ」を立ち上げたのは,「廃村(2)」の旅が終わって1ヶ月後,「廃村(3)」の旅が始まる3ヶ月前の平成17年5月でした。
コミュでは,いくつかの新たなオンラインの出会いがありましたが,なぜか東海地方の方との縁が深く,県別のトピックでは,「岐阜県の廃村」がいちばんの活況を呈しています。中でも最も話題になるのは,日本最大の貯水量(6億6000万立方m)を誇る巨大ロックフィルダム(徳山ダム)の堤体(堤高161m)の完成により,平成18年秋に試験潅水が始まり,水没することが決まっている旧徳山村(現揖斐川町徳山など)です。
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# 11-2
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私は平成18年元旦,八丈小島と徳山村へのフィールドワークの実施を「廃村コミュ」に目標として挙げました。徳山村は,何があっても水没する前にもう一度足を運びたかったからです。そのうちに,現地でキャンプをしたいと思うようになり,コミュで仲間を集いました。
その結果,八丈小島に引き続いての廃猫さん,水上みなみさんに加えて,愛知県在住のばばしんさん,水上さんのご主人のよっぱさんの5人がメンバーとなりました。日程は「梅雨明け後の土日」の8月5日・6日に決まり,私は年休消化なしの1泊2日の旅です。
先立って7月初旬に愛知県チームと私で行った名古屋打合せオフは,単に顔合わせの飲み会になり,打合せはオンラインで行いました。
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# 11-3
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徳山ダム建設の調査開始(昭和32年)から49年,工事の着手(昭和41年)から40年,自治体 徳山村の消滅(昭和62年)から19年。賛成派の方も反対派の方も,旧村民の方もダム工事関連の方も,今年は特別な年に違いありません。
徳山村の語り部としてなじみだった増山たづ子さんは,ダム完成直前の今年3月7日,米寿をまっとうして他界されました。増山さんが「徳山村写真全記録」(影書房刊,1997年7月初版)のあとがきに書かれた「私たちの大事な故郷が後々の世に,一人でも多くの方のお役に立てたらよいですが,地震でダムが壊れるようなことがあれば下流の人たちは大変です」(一部意訳)は,何とも意味深なメッセージです。
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# 11-4
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徳山キャンプの出発,8月5日(土)の起床は朝4時半頃。天気は快晴。荷物は大きなコマ付きカバンと小さ目のリュックひとつ。新幹線に乗って,8時21分に到着した岐阜羽島駅で,ばばしんさん,水上さん夫妻と合流です。チームの足はばばしんさんと水上さんの2台のクルマです。
樽見鉄道本巣駅で廃猫さんと合流し,駅近くのスーパーでキャンプの買い出しをして,ダム直下の藤橋城(鶴見,東杉原)を目指しました。
鶴見の入口に位置する建設作業員向け居酒屋「わっしょい」はすでに店終いしており,ダム建設作業はおおむね終わったことが感じられました。まずまず人気がある藤橋城を通過して,橋を渡った東杉原の食事処「すぎはら」には提灯がありましたが,お昼はお休みでした。
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# 11-5
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東杉原に建つ家は現在2軒。立ち寄った神社跡には真新しい家を形どった「昭和32年当時の東杉原家並み」という大きな石碑があり,60数戸の家が描かれていました。東杉原にはダム工事のため休止中のキャンプ場があり,このメンバーがキャンプをするには良さそうです。
藤橋城のある公園の食事処で昼食をとり,2台のクルマはいよいよ徳山村へと向かいました。途中で垣間見た徳山ダムの堤体は確かに完成しており,ダム湖を横切る新しい国道(R.417)の長い橋もつながった様子でした。橋を渡らない徳山本郷集落跡を見下ろす高台には「徳山会館」という3階建ての建物ができており,「水を溜める準備はすべて整った」という印象を受けました。
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# 11-6
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徳山本郷到着は午後1時10分頃。時折工事の車両が通るだけで,人気はほとんどありません。クルマを止めた村役場跡の「ふるさとの碑」は,台座を残してなくなっていました。いよいよフィールドワーク開始ですが,真夏の日射しはすごい暑さで,5人ともおそるおそるです。
徳山小学校はへき地等級1級,児童数173名(S.34),昭和62年休校(平成4年閉校,閉校時の名称は藤橋小学校本郷分校)。そのまま湖底に沈むRC三階建の校舎の周りには盛り土が施されていました。すでに全員訪ねているため,今回はみんな遠目で見ただけです。ばばしんさんの案内により初めて見ることができたパチンコ屋の看板は,商工会,銀行の看板と一緒に,本郷の中心部に残っていました。
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# 11-7
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往時の徳山小学校には分校が5つありました。今回は住宅地図により場所の特定ができているので,計画ではすべての分校跡を廻る予定です。
最初に訪ねたのは東谷(揖斐川沿い)の櫨原(Hazehara)です。国道沿いの空地には穴が10数個あり,遺跡の発掘が行われた様子です。
徳山小学校櫨原分校はへき地等級2級,児童数66名(S.34),昭和61年閉校。国道からの分校へ向かう上り坂はすっかり夏草に埋もれていました。廃猫さんが先導した新しい工事用の車道から集落跡を見下ろすと,遠目ながらも分校跡のトイレの跡を見出すことができました。
次に訪ねたのは東谷最奥の塚(Tsuka)です。プレハブの作業小屋がある大きな樹の陰では,作業員の方々が暑さをしのいでいました。
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# 11-8
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徳山小学校塚分校はへき地等級3級,児童数29名(S.34),昭和58年閉校。国道から少し入った分校跡の敷地には,養蜂の四角い巣箱が置かれていましたが,巣箱の跡という様子でした。少し高い場所には代替の新しい国道が見え,塚も湖底に沈むことが実感できました。
クルマはここで折り返し,櫨原−本郷間の脇道に入った山手(Yamate)を目指しました。山手に向かう町道の分岐点には警備員さんがいましたが,クルマを降りて「分校跡を見に行きたい」とのお願いをすると,快諾をいただきました。
山手橋を渡ってすぐにクルマを停めて,上り坂を歩くと,倉庫の土台,石垣,防火水槽,神社跡の石碑などを見つけることができました。
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# 11-9
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徳山小学校山手分校はへき地等級1級,児童数30名(S.34),昭和60年閉校。分校跡は防火水槽がある四差路からさらに坂を上った場所にあり,廃校好きの私と廃猫さんは,二人で一足先に分校跡に到着しました。
分校跡の敷地には何もありませんでしたが,「間違いなくここは校庭」という雰囲気は残っていました。しばらくすると,水上さん夫妻とばばしんさんが分校跡に到着。校庭跡で3人を迎えた私と廃猫さんは,しゃれっ気で「おはようございます」と声をかけると,「おはようございます!」という返事が来ました。帰り道,高台から見下ろした揖斐川と山手橋は,往時の景色のままのように感じられました。
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# 11-10
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次の目標 戸入(Tonyuu)に向かう途中の徳山本郷は通過です。夕方の西谷(西谷川沿い)の道は静かで,セミの声もアブラゼミからヒグラシに代わりました。戸入到着は5時少し前。戸入は増山たづ子さんの故郷であり,この旅のキャンプ地の第一候補でもあります。
第二候補の東杉原へ「これから下りよう」という声はあるはずもなく,5人は「事業用地管理棟」の敷地におもむろにテントを張りました。キャンプのセットができた頃に夕陽は沈みましたが,七輪を囲んでのバーベキューは,暗くならないうちに始めることができました。
夜空にレモン月が輝き始めた頃にはあたりはすっかり涼しくなり,私は沖縄三線を弾いたりしながら皆と戸入の夜を楽しみました。
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# 11-11
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翌6日(日)の起床は朝5時頃。外はすでに明るくなっていましたが,川沿いの山間,朝もやがかかっており,テントは夜露でびっしょりです。まずは,増山さんの写真集でも印象深く登場する下手の橋(吊り橋)をひとりで見に行きました。5月に訪ねた水上さんのレポートによると,「橋は落ちてしまっていた」とのことでしたが,ワイヤには張りはあり,敷かれた鉄板も平たく連なっていました。
ひとりで渡るのはためらいがあったので,一度キャンプに戻り,誰かが起きるのを待っていると,廃猫さんが登場してくれました。再び吊り橋まで歩き,廃猫さんが見守る中,ワイヤに手をかけながらおそるおそる橋を渡ると,無事向こう岸に到達することができました。
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# 11-12
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続いて工事の方が来られる前に神社,道場(住職が常駐しないお寺の施設),分校跡を見つけようと,ひとりで町道の山側を探索しました。
徳山小学校戸入分校はへき地等級3級,児童数57名(S.34),昭和60年閉校。4月の水上さんのレポートでは,「分校跡では水飲み場が雪の中から顔を出していた」とあるのですが,その後の工事で根こそぎ掘り起こされたらしく,地図を照らし合わせても何も見出せません。
新しい工事用の車道を上がり,プレハブの作業小屋の近くを探索すると,「戸入船着場」と書かれた看板があり,どうやら掘り起こしは船着場を作るための工事のようです。作業小屋より少し上がった車道の裏側には,「神社跡かも」と思わせる石垣が残されていました。
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# 11-13
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キャンプに戻ると全員そろっていて,朝食のひとときとなりました。朝もやが消えて晴れ出した町道には,ダンプカーに加えて,門入方面に向かう一般車が何台か走り,その数の多さに廃猫さんから「門入ではお祭りがあるのでは」という声が上がりました。
私,廃猫さん,ばばしんさんが上手の橋を見に行っているうちに,日曜だけ参加の「廃村コミュ」仲間,「サラリーマンの休日 ちょっと行ってくる」Webの管理者 zinzinさんがオフロードバイクに乗って登場され,メンバーは6人になりました。のんびり過ごした戸入を出発したのは朝9時45分頃。携帯が通じない戸入では,「事業用地管理棟」のピンクの公衆電話(10円玉を入れる形式)が役に立ちました。
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# 11-14
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西谷最奥の門入(Kadonyuu)への曲がりくねった町道は,クルマだと30分近くかかりました。zinzinさんのバイクは軽やかそうです。
徳山小学校門入分校はへき地等級5級,児童数57名(S.34),昭和62年閉校。ダムが完成しても水没しない門入では大規模な工事はなく,分校跡も落ち着いています。長い間草に埋もれていたはずの神社跡は,故郷を偲ぶ公園の構想のためか,綺麗に草刈りされていました。
橋の近くに親子連れの方がいて,私もひととき子供達に混じって川遊びです。遊びの後に「HEYANEKOさん」と声をかけられて,お父さんが「廃村コミュ」仲間,「北海道旅情報」Webの管理者 きたたびさんとわかり,びっくり。コミュの記事を見て,来てくれたのですね。
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# 11-15
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門入の5戸ほどの山小屋(作業小屋)は,すべて古い住宅地の外側に建っています。そのうちの一戸,真新しい泉さんの山小屋をばばしんさんと一緒に訪ねて,お話を伺うと,泉さんは山林の管理のため,無雪期には週に一度は本巣市の自宅から門入へ来られるとのこと。また,ダムができたら門入へ通じる陸路がなくなるため,国道沿いの船着場と戸入の間はフェリーが運行される見込みということ。
このお話を聞いて,戸入の船着場は遊覧船の類ではなく,ダム管理のフェリー用ということがわかりました。ダムが完成し,運用されるまで,どうなるかは見当がつかないことですが,フェリーが航行できるダム湖というのは,徳山ダムのスケールをよく表しています。
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# 11-16
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「廃村コミュ」で,「門入では蜂蜜が買える」と話題になった養蜂場は,泉さんの山小屋の近くにありました。百花蜜(複数の花々より採取した蜜)とトチ蜜(トチの花の蜜で,薄い色)があったので,私は百花蜜を買いました。
もうひとつ気になっていたのが門入大橋の手前,昔の住宅地に一軒残っていた家屋です。探索の終わりに6人で見に行きましたが,春に取り壊されたとのことで,コンクリートの土台と廃材になっていました。土台のそばに奉られているお地蔵さんのよだれかけは白く,時折お参りに来る方がいる様子です。ばばしんさんの提案で野に咲く花が供えられたお地蔵さんに,メンバーはまちまちに手を合わせました。
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# 11-17
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お昼を過ぎたので,分校跡でおやつを食べて,門入を出発したのは午後1時頃。泊まりを含めて24時間徳山村を堪能したメンバーの足取りは軽く,戸入,徳山本郷,藤橋城と通過して,ばばしんさんお勧めの谷汲温泉でお風呂と昼食,そしてひととき休憩。
樽見鉄道谷汲口駅で廃猫さんを見送り,「もうひとがんばり」と5人で訪ねた本巣市民俗資料館に移築された戸入の古民家(神足家)は,日曜休館のため外観しか見ることができませんでした。「あともうひとがんばり」と最後に訪ねた,徳山村からの集団移転団地がある本巣市文殊の徳山神社では,偶然にも夏まつりの奉納提灯が飾られていました。祭りの開始は夕方5時。「門入祭り」ならぬ「徳山祭り」の始まりです。
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# 11-18
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神主さん,烏帽子をかぶった祭りの衣装の方々,地域の方々に混じって,私たちも茅の輪くぐり(疫病や罪が祓われるという夏まつりの神事)に参加しました。この神事について知らなかった私は,祭りが終わるまで「あの輪にはいつ火を点けるのだろう」と思っていました。
お堂にも入って,徳山村に縁がある方々に囲まれながら,お参りから提灯を作った子供達の表彰式まで,しっかりと参加しました。
祭りは6時過ぎに終わって,徳山村フィールドワークのチームもここで解散です。ばばしんさんに岐阜羽島駅まで送っていただき,新幹線に乗ると,午後10時過ぎには東京駅に到着していました。これほど濃い廃村探索ができたのは,「廃村コミュ」の横のつながりのおかげです。
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(注) 記事のまとめにあたっては,水上みなみさんのブログ「愛知在住非県民2」の「1泊2日徳山村の旅」を参照しました。徳山ダムの堤体の画像はzinzinさんに,戸入の夜空の画像は水上さんにお借りしました。
(追記1) 岐阜市郊外にある岐阜ファミリーパークには,増山たづ子さんの萱葺き屋根の家(徳山の家)が移築されています。私は秋(11月4日(日))に足を運びましたが,ひととき昔ながらの徳山村を味わうことができました。
(追記2) 山手,戸入,門入へ向かう町道は,9月1日以降通行禁止となりました。そして9月25日,徳山ダムの試験潅水が始まり,12月末頃,徳山小学校跡の建物は水没しました(画像は11月4日の徳山本郷集落跡)。
(追記3) 徳山ダムは平成18年3月、竣工しました。ダム湖は徳山湖と名付けられました。
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