秩父・関東の廃校廃村巡礼 これにて打ち止め

奥秩父・関東の廃校廃村巡礼 これにて打ち止め 埼玉県秩父市小倉沢,
_________________群馬県上野村本谷


廃村 小倉沢(おぐらさわ)の鉱員用共同浴場跡です。



2007/9/28〜29 秩父市(旧大滝村)小倉沢,上野村本谷

# 22-1
関東の「廃校廃村」17か所(当時)で,過去に訪問したけれど「廃村と過疎の風景(3)」の旅で訪ねていないのが埼玉県旧大滝村の鉱山集落の廃村 小倉沢(Ogurasawa)です。また,すでに訪ねたけれども,山の神と分校跡の確認のため再訪すべきなのが群馬県上野村の営林集落の廃村 本谷(Hontani)です。
小倉沢(秩父鉱山)は平成15年7月「雀の社会科見学帖」Webの夜雀さんと一緒に訪ね,探索したのですが,レポートはまとめずにいました。
秩父鉱山(ニッチツ秩父事業所)は,関東一の規模を誇る鉱山で,かつては金や鉄などの金属鉱石も産出していたが,現在の産出物は石灰石とケイ砂とのこと。平均標高900mの山中,最盛期(昭和40年頃)には人口2000名強の鉱山街が形成されていましたが,現在,鉱員の方はすべて通いとなりました。

# 22-2
事前に事業所の方に問い合わせたところ,平成18年9月に9名の方が寮から出て,以来小倉沢に住まれるのは元社員の方1名のみ。自治区としての小倉沢もなくなったとのこと。また「申し出をすれば見学ができる」と期待していた学校跡は,「理由のいかんに問わず見学はできない」のことでした。
旅の出発は9月28日(金)。keikoとの1泊2日ツーリングで,宿は前回の本谷行き(平成17年11月)と同じ上野村の野栗沢温泉「すりばち荘」です。
南浦和発は朝8時半頃。高麗 巾着田のヒガンバナを見て,三峰口駅前のそば屋で昼食をとって,R.140を離れてからは人気がない県道を走って,小倉沢入口の秩父鉱山簡易郵便局に到着したのは午後2時頃。ローカルな風情の郵便局の扉には,10月からの民営化を控えての目隠しがなされていました。



# 22-3
Web上で小倉沢の神社の写真を見たことがなかったことと,持参した地形図に鳥居マークが記されていなかったことから,神社の探索をいちばんの目標にしようとなりました。郵便局の方に神社のことを伺うと「山神社は,鉱山集落の奥,保育所跡から山に入って5分ほどの所にある」とのこと。
小倉沢の鉱山集落は,郵便局から保育所跡まで約1kmほど,金山沢沿いに細長く続いています。郵便局の隣は事業所の建物。その続きに元社員の方が住まれている住宅。沢を隔てた山の斜面には大きな鉱山の施設(選鉱場)がありますが,稼働中ということで,橋の手前から見上げるだけとしました。
バイクを集落中心部の供給所(マーケット)跡前に置いて,県道を歩いて下って,目指したのは木造二階建ての小倉沢小中学校跡の校舎です。


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# 22-4
小倉沢小学校は,へき地等級2級,児童数274名(S.34),昭和60年閉校。児童数は昭和47年から50年にかけて激減しており(S.47:160名,S.48:85名,S.49:46名,S.50:25名),鉱山集落が寂れたのはこの頃ということが推測されます。最終年度(S.59)の児童数は7名でした。
錆びた鉄橋を渡って金網越しに見た校舎は,とても遠くに感じられました。「関東の廃校廃村巡礼」の打ち止めに是非探索したいと思っていただけに,残念なところです。何かクルーズの船から軍艦島を目前にして上陸できないで悔しがっている,廃墟フリークのような気分です。
道の山側の高台には鉱員住宅跡の廃墟も見られましたが,谷側の河原の真っ白な鉱石のほうに興味が起こり,鉱石を拾いに河原に降りました。


# 22-5
県道を上り,橋を渡ったところにあるのが鉱員用共同浴場跡です。「従業員並びにその家族の浴場に付き 部外者の入浴はご遠慮下さい」という往時からの看板とともに,真新しい封鎖用の木がバッテン印を作っていました。「立入禁止 当社敷地内への立入を禁じます」という新しい看板も目立ちます。
前回訪ねたときには人気があった比較的新しい鉱員住宅も無人化し,そこに「立入禁止」の看板が加わり,殺伐とした雰囲気が強くなりました。道の奥にある古くて大きな二階建て木造住宅は,前回は内部の探索も行ったのですが,今回は遠くから見るだけとしました。
「いつ頃までやっていたんだろう」と気になる供給所跡の建物にも,共同浴場跡と同じく封鎖用の木がバッテン印状に打ちつけられていました。



# 22-6
「ちょっと一服しましょうか」とkeikoと意見が一致し,バイクに乗って自動販売機がある郵便局の前まで戻ると,バイクに乗った三十代ぐらいの男性から「HEYANEKOさんですよね」と声をかけられてびっくり。話をすると,彼(鶴ヶ島のハスラーさん)は私の廃村のレポートの読者で,記事をもとに秩父・浦山の廃村を訪ねられたこともあるとのこと。廃村めぐりも長い間続けていると,意外な形の出会いができてくるものです。
郵便局から公民館風の二階建ての建物(丹岫寮;たんしゅうりょう)の前までバイクを走らせると,テントを張っているハスラーさんと再会。ハスラーさんは「明日は赤岩尾根へ登る」とのこと。赤岩尾根は,丹岫寮の背にある岩肌が露出した山で,快晴のこの日ははっきりと見ることができました。

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# 22-7
いよいよ山神社へ向かって出発です。丹岫寮を背にして歩き始めると,前回訪ねたときは前に自動販売機が置かれていた給食センターも閉ざされ,雑草に覆われ始めていました。山の際には往時の看板が残る平屋建ての保育園跡(大滝村立鉱山保育所)。前回はここで折り返しています。
保育園正面の細い橋を渡って緩い上りの山道を歩くと,ほどなく山神社の鳥居が見えてきました。三つの祠が奉られた山神社の境内は広々としており,今も手入れがなされている様子です。郵便局の方によると,毎年4月,関係の方が集う例祭が行われているとのこと。
後でkeikoに「強く印象に残ったことは何か」と尋ねると,「山深くにそれほど古くない無人の家がたくさんあったこと」とのことでした。


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# 22-8
丹岫寮前に戻って三たびハスラーさんと話をすると,ニッチツのパトロールカーに「ここで泊まるのですか」と声をかけられたとのこと。都心から日帰りで行ける場所にある大規模な鉱山街跡の維持管理は,相当にたいへんそうです。これから建物は,少しずつ取り壊されていくのかもしれません。
小倉沢の探索は2時間弱。野栗沢に向かう金山志賀坂林道の入口には「通行止」の看板がありました。「まあ,バイクなら大丈夫だろう」と走り始めた林道は予想外に荒れていて,八丁トンネルを越えて,志賀坂トンネル手前のR.299との合流まであと4kmほどの地点で,道は崩落していました。「こりゃだめだ」と進むのをあきらめ,八丁トンネル,小倉沢,三峰口と来た道を戻り,70kmほど迂回して志賀坂トンネルまで着いたのは夜7時少し前でした。

# 22-9
この日の走行距離は209km。迂回した道の長さから考えると意外なほどの短さですが,同時に埼玉県,特に秩父の奥の深さが感じられた次第です。
翌29日(土)の朝は雨。「ハスラーさん,たいへんだろうなあ…」と思いながら宿でだらだら過ごしていると,幸い雨は上がってくれました。
本谷を目指して「すりばち荘」を出発したのは午前10時半頃。目標は前回特定できなかった集落跡(山の神,分校跡)です。三岐の「しおじの湯」を通過して,御巣鷹の尾根に向かう車道を走って本谷三号橋のゲートをくぐり,車道の終点(駐車場;昇魂の碑への山道入口)まで来ても気配がわかりません。少々焦りましたが,戻り路,周りを慎重に観察すると,本谷一号橋より三岐寄りの山方向の枝道を上がると,山の神を見つけることができました。


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# 22-10
上野西小学校本谷分校は,へき地等級5級,児童数14名(S.34),昭和38年閉校。最終年度(S.37)の児童数は11名。バイクを山の神の近くに停めて,歩いて神流川方向の枝道を下ると,道が広くなっている場所に分校跡を示す森林鉄道の線路を,川のそばに往時の石垣を見つけることができました。
今回の小倉沢と本谷行きで,栃木県鹿沼市梶又から始まった約2年間の「関東の廃校廃村巡礼」,めでたく「これにて打ち止め」となりました。
上野村からは,小鹿野町,皆野町,寄居町を経由して,高速は使わずに南浦和を目指しました。帰り着いたのは夜8時頃,走行距離は180km(2日間で399km)でした。帰り道,志賀坂トンネルで金山志賀坂林道の入口の様子を伺うと,「通行不能」という看板が立てられていました。

(追記) その後の調べで,東京都御蔵島村の南郷が「廃校廃村」の条件(学校の所在は昭和34年4月以降)に対してグレーゾーンにあることがわかりました(御蔵島小学校南郷分校は,昭和27年より休校,昭和41年閉校)。検討の結果,休校時期を優先して,南郷はリストに加えないことにしました。



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