列島横断 廃校廃村をめぐる旅(4)
列島横断 廃校廃村をめぐる旅(4)
長野県大鹿村桃の平,北川
廃村 北川(きたがわ)に残る往時のかまどです。
2008/6/1 大鹿村桃の平,北川
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# 29-1
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「列島横断 廃校廃村をめぐる旅」,第二陣の目標は,長野県飯田市から塩尻市までの間の廃村,大鹿村桃の平(Momonodaira)・北川(Kitagawa),箕輪町長岡新田,旧楢川村桑崎の4か所です。大阪から復路のバイクを走らせて,信州の廃村経由で埼玉に戻る行程です。途中,昨年5月に訪ねてなじみがある,旧高遠町荊口(Baraguchi)の「御宿分校館」に宿泊し,ここで埼玉発のkeikoと合流するという予定を立てました。
時期は5月下旬を考えていたのですが,今年の関東地方の5月は雨が多く,決断ができませんでした。しかし,梅雨に入ってのツーリングは何かとよくないので,「おそらく大丈夫だろう」と判断し,6月上旬に実行することになりました。宿泊予定は,高遠と中山道の奈良井宿(2泊3日)です。
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# 29-2
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旅の出発は平成20年6月1日(日),天気は晴。年休の取得は2日です。大阪・堺を朝7時30分に出発し,名阪道を走って三重県の御在所SAでひと息。御在所SAの前後にある新名神道,伊勢湾岸道は,開通してそれほど経たない高速道で,第一陣で大阪に向かう途中にその存在を知りました。よい機会なので,御在所SAからは伊勢湾岸道・愛知環状道を走り,土岐JCTから中央道に入って飯田ICまで走る経路を取りました。
高速道でも新たに走る区間は楽しいもので,気分は上々です。特に伊勢湾岸道は,東名道と名阪道を結ぶにはよいショートカットとなりそうです。飯田市街到着はちょうど12時頃。往路の行程との接点を意識して,赤い屋根のJR飯田駅に行き,駅前のベンチでくつろぎながらの昼食となりました。
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# 29-3
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飯田は大阪−埼玉間のほぼ中間点(大阪から約290km,埼玉から約270km)ですが,待ち合わせの高遠は60kmほど埼玉寄りです。私は廃村2か所を経由していくので,だいぶハンデがあります。keikoから「11時頃に浦和を出発しました」とメールが来たので,「のんびりと来てください」と返事をしました。
飯田から目指す2つの廃村がある大鹿村までは約50分(32km)。大鹿村の人口は1,273名(H.20)。ツーリングマップには「信号機,ゴルフ場,スキー場のない村」と記されています。のんびりした空気が心地よい地蔵峠方面のR.152を走り,最初の目標 桃の平(標高890m)に到着したのは午後1時30分。
2戸の人気がある家があり,50代ぐらいの女性(Mさん)と出会ったのでご挨拶をしてお話をすると,別宅として使われているとのこと。
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# 29-4
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分校についても尋ねてみたところ,「すぐ先の砂防ダム脇の,川を隔てた場所にあった」とのこと。Mさんが別宅を構えられて間もない頃,校舎と吊橋が取り壊されたとのことで,一緒に訪ねてみると,その痕跡はわずかな敷地と石垣が見られる程度しかありませんでした。
大河原小学校青木分校はへき地等級1級,児童数29名(S.34),昭和36年閉校。「谷の賦」(井原留吉著,谷の会刊)では「石積みの残骸に,その面影を残す学校」と紹介されています。Mさんも「谷の賦」のことをご存知で,「井原先生夫妻は,1週間前に訪ねてこられた」とのこと。
また,往時の桃の平は,川沿い(下の平)と山の中(上の平)に分かれていたのですが,上の平は今は無人で,今は川沿いからの道はないそうです。
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# 29-5
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上の平には,来た道を上青木まで戻り,林道に入るというルートで訪ねました。上の平の探索では,途中滝のほうに行く道を選んでしまい,ずいぶん時間をロスしましたが,ダートが走る林の中に神社と2戸の廃屋を見つけ出すことができました。
大鹿村役場前に戻ったのは午後3時40分。山間の村の日暮れは早く、6月にしてもう夕方の雰囲気で,雲が多くなってきました。やや急ぎ気味で走る分杭峠方面のR.152は,平成6年夏にも走ったことがあります。途中女高(Onataka)という過疎集落の道沿いに残るタバコ屋の廃屋は、14年前に走ったとき「こんなところにタバコ屋があったんだ」と印象深く,「その後どうなっているかな」と思いましたが,以前とほとんど変わらない雰囲気で残っていました。
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# 29-6
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2つ目の目標 北川(標高1200m)は,女高から4kmほど分杭峠の方向に進んだ廃村で、14年前に走ったときは,道の所々に「大鹿村北川」という看板が見られるのに,集落が見当たらないことを不思議に思ったものでした。
古い地形図を見ると,北川集落は道沿いに1km以上分散していた様子です。神社がある休憩所があったので,ここにバイクを停めてしばしの探索となりました。神社がある敷地の中には,井上先生頌徳碑,大きな石像(北川念力不動明王)がそろっており,お酒に囲まれた不動明王は,厳めしいながらも和やかな表情をしていました。碑の説明文には「北川郷友会」という名前があり,北川ゆかりの方々が手入れをされていることが推測されます。
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# 29-7
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鹿塩小学校北川分校はへき地等級2級,児童数29名(S.34),昭和37年閉校。「谷の賦」では「土石流に埋まり,消えた学校」と紹介されています。土石流は「伊那谷三六水害」で生じたもので,明治期にできた北川集落はこの水害を機に昭和38年に廃村となりました。北川の分校跡は,古い地形図には記されていないのですが,後に天龍村の服部さんに連絡して尋ねたところ,神社よりも少し手前にあって,今は河川敷となって何も残っていないとのこと。
すぐそばにある中央構造線北川露頭(地層がむき出しになっている場所)は14年前にも立ち寄ったのですが,露頭に着く手前に石垣や家屋の敷地跡が目に入ったので探索すると,かまどの跡を見出すことができました。その先の路傍には小さな庚申塔を含む4つの石碑が並んでいました。
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# 29-8
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この庚申塔は14年前にも見かけて,バイクを入れた写真を撮っているのですが,いま庚申塔が建つ場所は通過するバイクが走る雰囲気はありません。移設されたのか,私の思い違いなのか,その真相は謎のままです。
1時間ほどの北川集落跡の探索を終え,分杭峠を越えると宿は遠くではありません。荊口の「御宿分校館」到着は夕方5時40分,駐車場にはkeikoのバイク(SL 230)が停まっていました。keikoが到着したのは5時過ぎ頃,道中では「笹子トンネルが長くてでこぼこしていてこわかった」とのこと。
この日の走行距離は380km,ソロツーリングの後の旅先の宿で妻と二人で過ごす夜は,新鮮な味わいがありました。
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