全国唯一 越県合併があった廃校廃村
追補
全国唯一 越県合併があった廃校廃村
群馬県桐生市入飛駒今倉
廃村 入飛駒今倉(いりひこまいまぐら)が水没している辺りのダム湖(梅田湖)です。
2009/7/25 桐生市(旧栃木県田沼町)入飛駒今倉
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# 追- 1
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関東の「廃校廃村」は17か所ということで,平成19年9月の群馬県上野村本谷でめぐり終わったつもりでいました。
しかし,平成21年4月に立ち上がった「村影弥太郎の集落紀行」Web(管理者 村影弥太郎さん)の群馬県のページに,今倉(Imagura)という耳なじみのない集落に学校の所在があることに気付きました。「所在は桐生市梅田町5丁目だが,かつては栃木県田沼町飛駒にあり,学校は入飛駒(Irihikoma)小学校」とのこと。
桐生市梅田町を流れる桐生川にはダム(桐生川ダム)があるので,「学校跡はないか」と群馬県の小学校のリストは照会していたのですが,桐生川ダムに栃木県田沼町から越県合併された地区(入飛駒地区)があるとは思いもよらずでした。栃木県の小学校のリストには入飛駒小学校の名がありました。
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# 追- 2
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調べてみると,入飛駒地区には今倉,落合(Ochiai),皆沢(Kaizawa)などの小集落があり,田沼町から桐生市へ編入されたのは昭和43年4月。桐生川ダムの竣工は昭和57年,水没した今倉などからの移転は昭和55年に行われたとのこと。どうも入飛駒地区今倉は,廃校廃村に違いなさそうです。
平成21年7月25日(土)の朝,梅雨が長引き悪天候が続く中,珍しく良い天気になったので,思い付きでバイクを走らせて入飛駒へと向かいました。
午前10時半に南浦和を出発し,東北道を浦和ICから佐野藤岡ICまで走り,まずは合併により佐野市となった旧田沼町の中心部に足を運びました。休憩のため訪ねた東武鉄道佐野線の田沼駅は,昔ながらの静かな駅で,電車は1時間に1〜2本です。田沼駅から入飛駒(梅田大橋)までは,23kmあります。
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# 追- 3
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主要地方道 桐生田沼線を走っていくと,下彦間,飛駒という地名があり,流れる川の名前は彦間川です。この辺りには,二通りの「ひこま」が混在しているようで,古い分県地図の入飛駒地区には「入彦間」という地名が記されています。また,飛駒も昔は「上彦間」と呼ばれていたということです。
飛駒のゴルフ場を過ぎると,峠(老越路峠)越えの狭い道となり,この辺りが現在の県境です。道が広くなって,着いた皆沢には,わずかな家屋しか見られません。気になるのは「125cc以上400cc以下の二輪車は,土日休日通行止」という看板です。道路工事の方が居たので尋ねると,「皆沢から梅田大橋までこの規制がある」とのこと。しかし,桐生川ダムに向かう道は他になく,「暴走するわけではないので,大丈夫でしょう」と道を進みました。
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# 追- 4
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皆沢から3kmほどで,無事ダム湖(梅田湖)にかかる梅田大橋に到着。昔の県境は桐生川にあり,橋の左岸あたりには落合集落が水没しているようです。時間は昼12時半ということで,橋を渡ったところにある食事処「雪ノ屋」でうどんを食べてひと休み。少々暑いけれども山の日差しは爽快です。
学校跡がある今倉には,「雪ノ屋」から再び梅田大橋を渡って,湖の左岸を走って行きました。橋から狭い道を2kmほど進むと,「村影弥太郎の集落紀行」Webにも載っている,古い学校跡の石柱に「水没跡地」と刻まれた石碑が立て掛けられていました。石柱には消えそうな文字で「飛駒尋常小学校…」「大正15年…」と,石碑にははっきりとした文字で「昭和58年7月 桐生市長小山利雄」と刻まれていました。
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# 追- 5
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入飛駒小学校は,へき地等級1級,児童数82名(S.34),明治41年開校,昭和43年閉校。学校は桐生市への編入の直前,「田沼町立入飛駒小学校」として閉校しています。このことを重視して,「廃村千選」では入飛駒今倉(入飛駒地区の今倉)は栃木県として扱おうと思います。「廃村千選」の全国1000か所の廃校廃村の中で,越県合併にかかわる廃村は,入飛駒今倉が唯一です。
碑の近く,山側には数基のお墓がありましたが,他に往時を偲ぶものは見当たりませんでした。碑の手前には山に入っていくダートがあり,「もしや」と思ったのですが,登り詰めたところに植林された若いスギ林と動物を捕獲するオリがひとつあるだけでした。
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# 追- 6
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学校があった頃の地形図(桐生及足利,S.42)には今倉という地名はなく,落合の先に学校,お寺,神社が記されています。越県合併があった後の地形図(S.47)には落合という地名はなく,今倉にお寺,神社が記されています。ダムができた後の地形図(S.62)には,今倉も落合も記されていません。
お寺(碧雲寺)は,昭和55年に桐生市梅田町1丁目に移転し,神社(根本山神宮)も碧雲寺の近くに移転した様子です。他の家屋も多くは桐生市内に移転されたとのこと。入飛駒(梅田大橋)から桐生市街までは約11km。何かにつけて,桐生のほうが田沼よりも結びつきが強いことは間違いありません。
碑より少し先には湧き水があり,整えられた水汲み場になっていたので,「土産に」とペットボトルに詰めました。
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# 追- 7
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水場からは,梅田湖の北端にかかる橋(小倉橋)を渡り,バスの終点にある「梅田ふるさとセンター」へ足を運びました。バス道沿いの梅田湖,ふるさとセンター辺りは,桐生市街からほど近い山間ということで,観光の方の姿も多くあるようです。
私はここが梅田北小学校跡(昭和42年閉校)かと思ったのですが,跡地は約2km北側にあり,平成5年まで「梅北山の家」として使われていたとのこと。
バス道沿いは観光の匂いが強かったので離れて,「どこか神社を見たい」と思い向かったのは皆沢八幡宮です。再び二輪車通行止の道を進み,戻り着いた皆沢の八幡宮は意外に大きく,横には集会所が建っていました。しかし,人の気配はなく,鳥居の脇では錆びた遊具が寂しさを醸し出していました。
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# 追- 8
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三たび二輪車通行止の道を進み,梅田大橋を出発したのは午後2時50分。パトカーが来ることもあるそうで,悪い出会いがなかったことに感謝です。
桐生市にはもう一か所越県合併があった地区(菱地区)があります。群馬県桐生市と栃木県菱村(昭和34年1月編入)のように,自治体全体の越県合併がなされた例は,大阪府高槻市と京都府樫田村(昭和33年4月編入),岐阜県中津川市と長野県山口村(平成17年2月合併)の3例しかありません(分割の越県合併は,他に数例あり)。入飛駒地区を調べることから,記録が県をまたがる調べ物の難しさ,都道府県の境界の重みが感じられました。
帰路は伊勢崎,深谷,熊谷などを下道で結び,南浦和には夕方6時頃帰り着きました。入飛駒今倉が加わり,関東の「廃校廃村」は18か所になりました。
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