自治体規模で消えた村(1) その3
自治体規模で消えた村(1) その3
岐阜県旧徳山村戸入,門入
門入の集落跡です。枯れススキの中に咲くスイセンが印象的でした。
2000/5/2 旧徳山村戸入,門入
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# 6-22
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本郷で枝分かれする西谷川に沿った道は今回が初めて。機会があるたび行きたかったので,今回の徳山村行きのハイライトともいえます。
本郷から6kmさかのぼった戸入(Tonyu)は,「徳山村写真全記録」(影書房刊)などで,往時の徳山村の様子の語り部をなされている増山たづ子さんが生まれ育った集落です。「徳山村写真全記録」によると,増山さんは1917年(大正6年)生まれで,「61歳を迎えたときに,ダム建設の話が再燃本格化し,ピッカリコニカを手に猛然と村の人々,暮らし,行事,自然を撮りだし,撮影枚数7万枚余に及ぶ」とあります。
あと,移転補償の頃(1980年頃)に映画「ふるさと」の舞台になったなど,話題にはこと欠かない集落跡です。
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# 6-23
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戸入の集落跡で往時を偲べるものは,石垣と,川にかかる吊り橋だけでした。この吊り橋は「徳山村写真全記録」の中でも効果的に出てきています。新しい建物としては,「徳山ダム戸入地区事業用地管理棟」というプレハブで畳敷きの小屋がありました。ここには公衆電話が備え付けてあって,小休止には好都合です。
管理棟がある広場の隅に,おばさんが座り込んでいたので,お昼時ということで声をおかけして食事時となりました。おばさんは戸入出身の友人と一緒に山菜取りに来ていて,友人は山に入っているとのこと。戸入のお話が聞けることを期待していたので,少し残念。
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# 6-24
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戸入から,さらに山深い門入(Kadonyu)に向かう道を走ると,少し上方の山の中腹には赤と白の看板が見えます。どうも看板は標高403mで測量されたもので,ダムが完成したら看板の位置まで水が蓄えられるようです。それにあわせて迂回路の工事もなされていました。
戸入−門入の距離は9kmもあるのですが,たどりついた門入は,意外なほど広々として明るい集落跡でした。山奥ほど暗く険しい場所になると思う方は多いかと思いますが,経験的には,あまり当てはまらないようです。
なお,戸入,門入という癖のある地名は,丹生(Nyu)という水銀が産出することを示す名前と関連して付けられたとのこと。
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# 6-25
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標高が約450mあるため,門入だけはダムができても水没を免れます。そんな事情からか,門入には,今回私が訪れた徳山村の八つの集落跡ではいちばん穏やかな雰囲気があり,母屋の跡や,別荘と思われる新しい家や,太陽電池のパネルなどもありました。ただ,集団移転が補償金支払いの前提条件になっていたそうで,移転を余儀なくされたのは,他の集落と同じです。
門入にも「事業用地管理棟」があり,中に入って管理ノートを見てみると,財団法人「ふじはし」の職員の方が毎日点検に来ているようでした。12月上旬から4月中旬まで記録が途絶えていたので,その頃,門入は雪に閉ざされているのでしょう。
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# 6-26
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門入では,「経験を重ねて鼻が利くようになったなあ・・・」と思える場面にいくつか遭遇できました。
基本は石垣やコンクリートの土台の跡でしょうか。次に学校跡。門構え(サクラの木があると雰囲気がよい)とある程度の広さの平面,それに敷地を囲う金網が残っていると,特定できます。門入の分校跡は,集落の上流寄り,川の左岸にありました。あと,台所の流し,風呂,トイレなど,水回り関係はしっかりと作られるからか,残っている確率が高いようです。
ススキに埋もれた流し台の跡のすぐ手前にスイセンの群生には,穏やかな昼の陽射しの中,見とれてしまいました。
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