沖縄・八重山Tour Again その14
廃村・網取の今日
5/1/1998 廃村・網取の今日
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網取(Amitori)は,西表西部に1971年まであった集落の名前で,人口の減少による小学校の廃校にあわせて廃村となったと,ひるぎ社・おきなわ文庫「わが故郷アントゥリ」(山田武男さん著)には載っています。「しげた丸」では,「マラリアのため廃村になった」というアナウンスがあったけれど,西表島のマラリアは1960年頃に絶滅しているはずなので,このアナウンスは問題ありと思うところです。
私は97の八重山ツアーの帰りに,那覇空港で同じおきなわ文庫で「崎山節のふるさと」(川平永美さん述)を見つけて,西表西部に崎山(Sakiyama),鹿川(Kanokawa),網取という村があったということを知って,その民俗的な面白さから,これらの村がどんなところだったのか行けたら行きたいと思っていたのでした。
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旅に出るまでに調べたところでは,網取に関しては,村の跡地が東海大学の海洋研究所になっていて,定期船が週に2回白浜から舟浮を経由して運行されているということがわかり,崎山,鹿川に関しては国土地理院の地図にも湾の名前として残っているのみになっていたので,行けるとしたら網取だけだなとは思っていました。
それが,観光ツアーで網取まで行けてしまうのですから,意外なものです。
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サバ崎沖のシュノーケリングが終わって,「しげた丸」が港について,上陸した網取の様子は,ほとんど舟浮と同じ雰囲気で,違うのは建物が東海大学関係のものしかないことと,地元の人がいないこと。
あと,網取のほうが外海に面している関係でかなり明るい感じがすることといったところでしょうか。たまたま網取に居た間,ずっとよい天気だったからかもしれませんが・・・
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港からすぐ右手には,「あんとぅり」と書かれた立派な記念碑があって,山田武男さんが
「せめて記念碑を残したい」と書いてあったのが具体化したんだなあと感慨を感じました(山田さんは,本の完成とほぼ同時期の1986年に亡くなられています)。
「うるち会」という網取・崎山出身者の会があって,その活動が順調に進んでいる証拠ともいえるでしょう。
碑の後ろにはたくさんの名前が刻まれていました。
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海岸では「いるもて荘」の4人でサザン(海というとサザンなのか?(^_^;))を聴きながらの昼食。海岸から小道を入ったら,網取が集落だった頃からあると思われるフクギの並木に石垣のサンゴをひいたらしい道。
建物の跡はありませんでしたが,なかなかよい雰囲気です。このような形で残る集落跡というのは,出身のかたとしても納得がいくのではと思う次第でした。
わが故郷アントゥリ'98年若夏に進む
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