五島のへき村の天主堂を訪ねる

五島のへき村の天主堂を訪ねる 長崎県福江市折紙,五輪,細石流,
________________________奈留町江上,小田


久賀島の椿屋旅館前で見かけた,石垣と同化したネコです。後の山にへき村 五輪に向かう鉄塔が見えます。



2003/3/21〜23 福江市(久賀島)折紙,五輪,細石流,奈留町江上,小田

# 18-1
私は春のお彼岸生まれで,春の訪れの頃,飛行機(バースデー割引)を使った遠出の旅をするのが楽しみとして定着しました。
昨年の山口県に続いて,今年の目標も西日本,「廃村と過疎の風景」ではすっかり馴染みの長崎県の島巡りとなりました。行く計画を立てた島は五島列島の福江島,久賀島(Hisaka-jima),西彼杵の高島,池島,蛎浦島(Kakinoura-shima)の五つです。
このうち久賀島は,面積38.4kuに対して人口はわずか700人弱。すごく不便そうな様子と,へき村 五輪(Gorin)の古い教会,細石流(Zazare)の教会跡,可愛い名前の折紙(Orikami),さらに外輪(Sotowa),野首(Nokubi)という廃村が旅心をくすぐりました。

# 18-2
出発は3月20日(41歳の誕生日)の木曜日。くしくも米英軍によるイラク戦争の開始日。午前中は仕事をこなして,午後の飛行機で羽田から北九州へ。門司港で軍艦島が縁の長崎ゆかりさんと待ち合わせ,小倉の沖縄居酒屋「シーサー屋」でひとときを楽しんだ後,博多港から福江行フェリー「太古」に乗り込んだのは午後11時半頃。明日から三連休ということで「太古」は毛布が足りなくなるほど満員でした。
明けて21日金曜日(旅2日目),海を見ながらぼんやり過ごしていると,午前9時に福江港に到着。福江は「遠いけど,意外に大きな町」が第一印象。魚市場近くの「磯っ子食堂」で(魚天ぷら)すり身定食を食べて,観光協会で教わった「定方自転車店」を目指しました。

# 18-3
久賀島は大きいわりに公共の交通手段がないため,福江で自転車(マウンテンバイク)を借りて,これを足として使う作戦を立てました。まず足馴らしに,市街から8kmほどの海沿いにある堂崎教会まで走りました。寒い日が続く東京の気候が嘘のような暖かな晴天です。
堂崎教会は五島に50ほどある教会の中でも観光では代表格。明治41年建立の赤レンガ造の外観は野崎島の野首教会跡を思い出させます。
福江市街に戻り,午後のフェリーで福江港から久賀島の田ノ浦港へ。ツバキの花が描かれたピンク色のフェリーの所要は30分ほど。空は曇り空。人気がほとんどない港から学校跡の建物を見に行くと,港のほうからパトカーがゆっくりと走ってきました。

# 18-4
「どちらからですか?」と問われたので,「東京からです」と答えて「廃村と過疎の風景」の冊子をお見せして,へき村を目指して来たことを説明しました。イラク戦争の関連で警備に気を使っているとのことでしたが,観光客が来ない島なんだなと実感できる出来事でした。
田ノ浦から島の中心の久賀までは約4km。途中の浜脇教会は昭和6年建立の尖った鐘塔が印象的な鉄筋コンクリート造。教会を過ぎてからは自転車ではなかなかきつい峠。坂を下って着いた久賀は農業が中心の集落。「椿屋旅館」は裏道に入り込んでいて,見付けるのに苦労しました。旅館は釣り舟を持っていて,お客の大半は太公望とのことで,玄関には俳優の梅宮辰夫さんの年賀状が飾られていました。

# 18-5
天気は崩れて小雨だったのですが,旅館に留まっていてもしかたがないので,まずは久賀から約8kmのへき村 折紙を訪ねました。
「五島・久賀島年代記」(内海紀雄さん著)によると,明治7年の折紙の人口は47人(戸数11戸)。同年の久賀島の人口は2009人で,うち異教徒は666人とのこと。折紙は島の北端の傾斜地にあり,過疎の進行により,現在は本村一義さん一家が暮らすのみです。
「牢屋の窄」というキリシタン弾圧(明治元年)の歴史を伝える史跡に足を運んでから,起伏が続く険しい道を走って30分。車道が途切れたところに自転車を止めて,草に周りを囲われた下り坂の地道を10分ほど歩くと,ようやく折紙に到着しました。

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# 18-6
折紙で迎えてくれたのは2軒の廃屋。うち1軒は戸が大破しており,横で咲くモモの花とはすごいコントラストです。脇にある石垣で囲われた棚田には水が張られていて,なぜか干からびたヒトデがたくさん沈んでいました。
本村さん宅はやや奥まったところにあり,ご挨拶をすると一義さんと奥さんが迎えてくれました。大福をご馳走になりながらお話を伺ったところ,モモの花の廃屋は5年前に越されたお兄さんの家だったとのこと。明日は船で奈留島に行かれるとのことで,お会いできたのはラッキーでした。「静かやし,港もあるし,ここは良かとこやよ」という奥さんの言葉はとても印象的でした。

# 18-7
「椿屋旅館」は建物としては味がある古い木造二階建て。しかし,ひとりポツンと泊まるにはかなりの寂しさで,旅館のお母さんも謎の旅人の応対に困っている様子です。外は強い雨,夜に開いているお店は一軒もなく,避難をしているような感じです。
夜の食事が終わった後,考えた末,連泊の予定を変更して隣りの奈留島のなじみがある「民宿豊陽」に予約の電話を入れました。
22日土曜日(旅3日目)の朝は雨上がりの曇り空。素早く朝食を摂って,午前8時頃「椿屋旅館」出発。目指すは島東部のへき村 五輪です。地図には点線で山を越える道が描かれているのですが,宿のご主人に伺ったところ,藪と化していけないとのこと。



# 18-8
「五島・久賀島年代記」によると,明治7年の外幸泊(五輪・外輪・福見・蕨小島)の人口は136人(戸数29戸)。五輪には教会が,福見はお寺(栄健寺)があります。また,蕨小島は全国最小規模(面積0.03ku)の有人島で,外輪は現在廃村です。
久賀から五輪まではおよそ11km。小中学校がある蕨を過ぎて,奈留瀬戸沿いの道に入るとローカルな匂いが深まってきました。たまに走るクルマは土木工事のトラックだけです。五輪に近づいてきたところで道路工事があり,抜けると車道は途絶えました。
ここに自転車を置いて地道を下って海岸沿いを10分ほど歩き,午前10時20分頃,港を囲むような小さな五輪の集落に到着しました。


# 18-9
五輪にある家屋は新旧の教会を含めて7戸ほどで,福江市役所に尋ねた平成15年1月の人口は11人(戸数4戸)。旧五輪教会は明治14年に浜脇に建てられたとても古い木造の建物(昭和6年に五輪に移築)。昭和60年に新たな教会が建てられて,しばらくは朽ちるばかりでした,しかし,解体を検討し始めた頃,その重要性が認められてそのままの姿で保存され,平成11年に国の重要文化財に指定されました。
住民の方に声をかけて鍵をお借りして,外観は和風,中はゴシック様式という旧教会を見学。その折お話を伺ったところ,五輪は漁業を生業とするキリシタンの集落。交通手段はほとんどが船で,観光客は海上タクシー,小学生はスクールボートを使うとのこと。

# 18-10
五輪と奈留島の中心の浦までは海上5km弱。奈留島とのつながりが強そうです。外輪についても尋ねたところ,五輪から少し南寄りの海岸沿いにあったそうですが,地形図に心当たりの場所は見当たらず,時間がないこともあって探索はあっさりあきらめとなりました。
もうひとつのへき村 細石流は久賀湾が切れ込んでいるため,一度久賀に戻って,逆Nの字状に走らなければ行くことができません(五輪−細石流の距離はおよそ19km)。「船が対岸まで渡してくれたらいいのになあ・・・」と思いながらも,頑張って起伏だらけの道を自転車をこいで,久賀で昼飯がわりのカンコロ餅(サツマイモが原料の餅)を食べて,細石流には午後12時50分頃到着しました。

# 18-11
「五島・久賀島年代記」によると,明治7年の細石流(野首を含む)の人口は132人(戸数33戸)。海岸沿いに仏教徒が,山手にキリシタンが暮らしていたそうですが,キリシタンの方は昭和46年に福岡県に集団移住されて,細石流教会(木造,大正10年建立)は無人となりました。その後教会は20年ぐらいは傷みながらも建っていたそうですが,台風によって誰に知られることもなく崩壊してしまったとのことです。
平成15年1月の細石流の人口は19人(戸数7戸)。野首は現在無人の廃村。昭和59年に休校になった細石流分校跡(鉄筋コンクリート,平屋建て)を見ていると,グランドの隅でサッカーボールを蹴っている小学生らしき2人組と目が合ったので,「こんにちわ!」とご挨拶。


# 18-12
2人組はすぐ隣の家に住む兄弟で,畑田マサカズくん(小学3年)とタカヒロくん(小学1年)。サッカーの輪に加わりながら話をすると,マサカズくんは小学3年とは思えないほどしっかり応えてくれました。学校はスクールバスで久賀まで通っているそうです。お昼ごはんは終わっているとのことだったので,「教会跡まで案内してほしい」と頼むと,快く引き受けてくれました。
山へ向かう道ではマサカズくんは食べることができる野草を摘んでくれました。ツワという野草の名前は,このとき初めて知りました。道はなかなか険しく,複雑に分岐していたので,案内なしでは教会にたどり着くことはできなかったように思います。

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# 18-13
学校跡から40分ほどでたどり着いた教会跡は,石垣の上にあり,石段が残っていました。建物の跡も瓦などではっきりと見当を付けることができ,感激です。マサカズくん,タカヒロくんは「はて?」という顔をしていましたが,記念写真に付き合ってもらいました。
野首の話をすると,「細石流の反対側に野首という景色が良い場所がある」とのことで,心当たりの道を案内してもらったのですが,途中で行止まりになりました。野首も外輪と同じく,跡をたどるのは至難なことのようです。
マサカズくん,タカヒロくんと過ごした時間は1時間半ほどでしたが,とても楽しく思い出深いひとときでした。どうもありがとう!

# 18-14
細石流から久賀経由,田ノ浦までは12km。寄り道なしで頑張って走ると,出航10分前に港に到着しました。このとき乗ったフェリーが到着したのは,福江港ではなく堂崎教会に近い奥浦港でした(所要は20分)。
奥浦からは昨日と同じ道を走って「定方自転車店」へ。ご主人と10分ほどお話をしてから,急ぎ足で福江港へ。福江港から奈留港までの所要は45分。奈留島着は午後6時ちょうどで,島と「民宿豊陽」は平成12年8月以来 2年半ぶり2度目。初めての島・宿も良いけれど,気に入った島・宿ならば,再訪の味わいはまた格別です。この夜の食事はどれも美味しく,特にナマコはとても美味でした。

# 18-15
23日日曜日(旅4日目)の起床は昨日と同じく午前7時半。奈留島東部には袋部(Fukurobe)という廃村があるのですが,急に決めた再訪で,足も宿の自転車だけなので,前回も足を運んだ教会がある江上(Egami)と海辺の廃村 小田(Oda)を訪ねることになりました。
民宿のある浦(Ura)から江上まではおよそ7km。途中遠命寺トンネルの前後以外に起伏はほとんどなく,その穏やかな地勢は久賀島とは好対照です。旧江上小学校(平成10年閉校)の裏手の江上教会は大正7年建立。2年半前はエメラルドグリーンだった窓枠が,水色に塗り替えられていました。今回は五輪と同じく,集落の方に声をかけて鍵をお借りして,内部も見学させていただきました。

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# 18-16
江上から小田までは起伏のない海岸沿いの道でおよそ1.5km。バス停跡の看板はなくなっていて,土台と柱だけになっていました。バス停跡の近くにはクルマが2台停まっていて,うち1台はツワを取りに来られたグループでした。意外な人気に驚きながら廃屋群を見ていると,廃屋と思われた一軒の家の軒に洗濯物が干されていてさらにびっくり。「廃村ではなかったのかな?」とかなり冷や汗。
訪ねてみると,私の両親ぐらいの年配のご夫婦(北川さんご夫婦)が迎えてくれました。お話を伺ったところ,北川さんは昭和60年頃に小田から町に近い相ノ浦に越されて,今回は3泊で畑仕事をしに小田に泊まっているとのことでした。


# 18-17
小田に住まれていた方は,北川さんと同じぐらいの時期にそれぞれバラバラに越されて,今はお墓も残っていないとのこと。「人が居れば違ったやろうなー」というお母さんの言葉が印象的でした。改めて「廃村とは人がいなくなる現象なんだな・・・」と思いました。
奈留島発は12時50分。フェリーで3時間40分の長崎市街の大波止港では,軍艦島が縁のdoutokuさん夫妻が迎えていただきました。夜はJR長崎駅にほど近い居酒屋で,やはり軍艦島つながりの美津丸の船長さんなどと一緒に2年4か月ぶりの再会を祝して乾杯! その後船長さん宅で見たNHKのビデオには,行ったばかりの江上教会,細石流教会跡が登場して,またまたびっくりしました。



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