関門海峡を見守る灯台と信号所の廃墟
関門海峡を見守る灯台と信号所の廃墟
山口県下関市六連島
六連島の灯台近くにある明治天皇行幸碑です。
2003/11/25 下関市六連島
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# 24-1
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テーマを持った廃村・過疎集落への旅に対して,自由気ままな旅。平成15年秋の関門(下関・門司)への旅は後者だったのですが,ちょうど神戸市の摩耶観光ホテルのような,日常生活のすぐ隣りに存在する非日常に,偶然出会ってしまいました。
場所は関門海峡の日本海(響灘)側にある六連島(Mutsure-jima)。下関市街からの距離の近さと,特に何もなさそうなところに興味を覚え,出かける直前にネットで基礎情報を調べたところ,下関駅西口から徒歩10分の竹崎桟橋から市営の渡船に乗り,20分ほどで到着とのこと。島には明治4年完成の古い灯台(六連島灯台)があり,翌年には明治天皇が西郷隆盛らを従えて行幸された歴史があるそうです。
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# 24-2
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11月21日金曜日は,仕事の後,着替えが邪魔くさかったので,スーツのまま沖縄三線片手に東京駅へ。翌日からは土・日・祝日ということで,東海道新幹線は超満員。1週間前に取った指定席は三人がけの真ん中でした。
その後3泊は大阪で過ごし,24日月曜日は「ここはひとつ小旅行でも・・・」と,新大阪駅から山陽新幹線に乗りました。
めざす下関・門司は,平成4年4月に初めて探索して以来,何度か訪れているので,なじみができています。下関駅到着は薄暮の午後5時15分頃。新幹線が通る以前の匂いを色濃く残す長いホームは,いつ降りても旅心をかき立ててくれます。
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# 24-3
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シーモールで買い物をして,大歳神社前で軍艦島以来の縁の長崎ゆかりさんと待ち合わせて川棚温泉の元祖瓦そば「たかせ」へ。ドライブを楽しんでから,夜遅くに足を運んだ豊前田町の居酒屋「鶏心」の大将とはすっかりなじみになりました。
明けて25日火曜日の天気予報は晴れ。一日どう過ごすかはまったく自由。「あちこち行き歩くよりものんびり過ごすのがよい」となり,何もなさそうでほど近い六連島へ,黒いスーツに三線というミスマッチな格好で出かけることになりました。六連島到着は午前10時20分。意外に込んでいた渡船には,地元の方に混じって釣りの方が乗り込んでいました。
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# 24-4
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六連島は面積0.69ku,42世帯,159人(平成12年)の小さな島で,人口は減少傾向にあります。島に唯一の商店 漁協の売店のベンチに座って,缶コーヒーを飲みながら釣りの方が岸壁のほうに向かうのを見送ってから,まず漁港の近くを探索しました。
気になったのは,使われているクルマにナンバープレートが付いていないことです。島の道が道路交通法の道路にあたらないかららしいのですが,旅人の目には廃車が並んでいるようで無気味です。港近くの検疫所の施設(門司検疫所六連島連絡所)も,使われなくなって久しい様子です。残念ながら天気予報は見事に外れて,小雨がぱらつく曇り空になりました。
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# 24-5
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集落は港の左の方向,灯台は右の方向にあるのですが,先に灯台を目指しました。海べりから古くて急な石段を登ると,草が巻きついた門柱の向こうに,石造りの小さな灯台が見えました。予想通り,人気はまったくありません。
灯台の敷地に着いて驚いたのは,周囲が廃墟の匂いに囲まれていたことです。灯台の左手には三階建ての見晴らしの良さそうなRC造の建物があり,門柱の横の草の茂みには木造平屋建ての廃屋,少し離れた丘の上の二階建てのアパートも閉ざされていました。
灯台のすぐ近くで見つけた明治天皇行幸碑は,枯草混じりの雑草の中でしたが,周囲の草はしっかりと刈り取られていました。
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# 24-6
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六連島灯台の灯火は,石油灯からアセチレンガス灯,自家発電による電化と変化し,昭和38年より海底ケーブルによる本土からの電力供給が始まったとのこと。設備の近代化によって灯台が無人化したのは昭和44年。木造平屋建ての廃屋は,灯台に勤務された方の官舎ではないかと思われます。往時は全国あちこちにあった灯台守の暮らしも,今では忘却の彼方です。
雑草をかき分けて着いた三階建ての建物の一階は吹き抜け。建物近くの草は刈られてすっきりしています。階段を上がると,入口に「門司海上保安部 六連島信号所」という木製の看板がありました。探索したところ,二階が官舎,三階が信号所の施設の様子でした。
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# 24-7
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六連島信号所は明治33年設置。主に航行安全のために稼動し,昭和59年廃止。84年もの間,関門海峡を見守ってきたのですね。
三階の窓からは,海峡(響灘)を見渡すことができ,普段見なれない外国籍の大きな貨物船がゆっくりと航行していました。船がほとんどの外国との交易を占めていた時代は遠い昔ですが,信号所跡は,往時と同じようなゆったりした空気が流れていました。
少し寒い曇り空の下,灯台の敷地に戻ってからは,しばらく三線を弾いて過ごしました。廃墟の匂いの中で三線を弾くのはこのときが初めて。今や三線は,ツーリングのときのバイクのように,旅の空でも良き相棒です。
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# 24-8
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午後からは一度漁協の売店に戻って,12時半発の渡船を見送った後,集落の方向に足を運びました。しかし,高台にある六連八幡宮に着いたところで雨が本降りになり,身動きが取れなくなってしまいました。
しかたがないので,お宮さんの軒を借りて1時間ほど三線を弾き続けました。予定では,晴れた見晴らしの良い場所で弾くつもりだったのですが,なかなか思うようにはならないものです。でも三線が居てくれて良かったです。
幸い2時半頃に雨は上がり,青空が広がってくれたので,駆け足気味ながら,集落の探索も行うことができました。
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# 24-9
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学校跡はお寺さん(西教寺)の真下にあり,風格のある門構えからすぐにわかりました。本村小学校六連分校は,昭和45年閉校。坂の多い集落の中では驚くぐらいの広いグラウンドがありました。現在,六連島の小中学生は,下関市街の学校へ渡船通学しているそうです。
午後3時の渡船で後にした六連島への往復の船賃は570円。十分に非日常を楽しめたことを思うとお値打ちでした。
天気が良くなったので,大歳神社から日和山公園経由,金子みすゞ顕彰碑がある寿公園まで,「港がみえる丘の径」を約3km歩きました。旧秋田商会ビルを見学していると,近くに勤めているゆかりさんがカレンダーを持ってやって来てくれました。どうもありがとう。
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# 24-10
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陽は午後5時頃に暮れて,夜は「鶏心」の大将お勧めの大衆酒場「味覚」で刺身をあてに焼酎を飲んだ後,電車で海峡を渡って,ネットで見つけた門司港の沖縄居酒屋「ハイサイオジサンの店」でモズクをあてに泡盛を飲みました。ともに初めてのお店だったのですが,話題が尽きることはなく,お店で三線を弾かせていただくと,ひととき沖縄に迷い込んだような気分になりました。
旅の終わりは福岡空港。9時45分発の飛行機で東京に戻ると,午前1時頃には南浦和に帰っていました。1泊2日の気ままな旅は,飲み歩き,過疎の島の廃墟探索,三線,街歩き,沖縄居酒屋と,多くの趣味が入り混じった,とても濃厚なものになりました。
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(注) 六連島信号所の情報は,門司海上保安部 広報担当の方に提供していただきました。
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