福井 奥越・災害に消えた旧行政村 平成16年秋

福井 奥越・災害に消えた旧行政村 平成16年秋 福井県大野市旧西谷村


廃村 旧西谷村上笹又,国道157号線,「ゆっくり走ろう西谷路」の看板。脇にはお地蔵さんと湧き水。



2004/10/11 大野市旧西谷村


 私は平成16年10月11日(月曜日),九頭竜川支流上流部(福井県)の旧行政村の廃村を訪れた。4年半ぶり四回目のことであるが,新しい発見が多数あり,とても印象深いひとときを過ごすことができた。ここでは,その旧行政村,大野市旧西谷村についてまとめる。


 ●旧西谷村の概略

 福井県大野郡旧西谷村は,県南東部(奥越),九頭竜川支流(真名川)の川筋にあり,下笹又,上笹又,中島,黒当戸(以上中心部),本戸,小沢,下秋生,上秋生(以上笹生川筋),巣原,熊河,温見(以上雲川筋)の十一集落からなる。中心集落は中島で,標高は500m,最奥は温見で標高は660mである。主産業は製炭をはじめとする林業,焼畑,紙すき,養蚕,黄蓮(薬草)作りであった。
 村の南部は両白山地(能郷白山)があり,岐阜県旧根尾村,旧徳山村と境を接する。また,北は大野市,西は今立郡池田町,東は大野郡和泉村(旧上穴馬村,旧下穴馬村)と接する。
 歴史に西谷村の名前が登場するのは,江戸末期の水戸天狗党の事件である。京都の朝廷に尊王攘夷を訴えるため,武田耕雲斎を総大将とした水戸天狗党の烈士千名超は,元治元年(1864年)11月,十数門の大砲と,多くの鉄砲を備えて水戸を出発。鵜沼までは大きな戦いもなく中山道付近を西へと進んだが,幕府の追討軍との対決を避けるため,岐阜近郊で北に進路を変え迂回し,根尾村から豪雪の蠅帽子峠(現在は廃道)を苦労の末越えて,西谷村の上秋生へ入った。大野藩は,宿泊や食糧調達ができないよう,中島,上笹又をはじめとする道筋に当たる集落を焼き払ったという。天狗党は,上秋生・下秋生に宿泊,中島に野営後,笹又峠(現在は廃道)から西谷村を出て,雪の越前路を新保(敦賀市)まで進んだところで力尽きて投降した。戦いに至らなかったのは,西谷路の厳しさが列士達の体力・気力を消耗したことによるものが大きい。耕雲斎を含め353名もの兵が処刑されたこの事件は,幕末の悲劇として名高いが,西谷の村人にとっても悲劇であった。
 行政村 西谷村は明治22年の町村制施行時に成立。「西谷」の名称は九頭竜川本流(和泉村方面)を東谷としたときの相対的な名称である。大正14年の村の規模は,523戸,2655人であった。
 山深くではあるものの大野市街と村役場が置かれた中心集落の中島の距離は24kmであり,昭和30年頃までは平穏な山村であったと思われる。昭和30年の村の規模は,585戸,3436人であった。
 西谷村が大野市に編入されて無住の地になったのは昭和45年7月のことである。まず,昭和31年の笹生川ダム建設のため笹生川筋の四集落が離村。その後全国規模で製炭業,養蚕業の衰滅があったが,村を無住の地にした理由は二つの災害,昭和38年1月の豪雪(三八豪雪)と昭和40年9月の集中豪雨(四〇・九奥越集中豪雨)である。特に奥越集中豪雨では中心部の中島,上笹又,下笹又の家屋の九割強が流出,土砂埋没の被害を受け,行政村としての機能は止まった。昭和40年9月の村の規模は,269戸,1162人であった。
 村人のほとんどが大野市内の仮設住宅へ避難した後も,再建構想が画策されたが,翌昭和41年7月の真名川ダム建設決定により行政村としての離村が決められた。現在,旧西谷村民の多くは,大野市を中心とした福井県に住まれており,大野市西里には西谷神社が建てられている。また,同篠座には西谷村所縁の篠座神社がある。


 ●中島,青少年旅行村と廃村経緯の看板

 私が初めて旧西谷村を訪ねたのは,昭和62年9月のことだった。飛騨古川からオンロードバイクで敦賀まで走ったとき,国道158号線を九頭竜湖畔の箱ヶ瀬橋から外れて県道に入り,伊勢峠を越えて笹生川ダムを過ぎて国道157号線との交点である中島に着いた。地図上では平凡な山村に見えた中島には人家はなく,代わりに「麻那姫湖青少年旅行村」という大規模なキャンプ場と,古びた廃村経緯の看板があった。
 「旧西谷村 福井県大野郡西谷村は何千年という往古より続いてきた平和な山村でしたが昭和三十一年の県の総合開発事業の一環として建設された笹生川雲川の両ダムによってまず上秋生下秋生小沢本戸の四部落が水没離村しついで昭和三十八年に襲った豪雪が因となって温見熊河の両部落を失いました そしてまた昭和四十年九月十四日の未曾有の集中豪雨によって壊滅的災害を受けこれが再建の道も防災目的のための真名川ダム建設によってうちくだかれ平和郷再建の夢を捨てて全村民離村のやむなきにいたりました」。看板を読んで,中島は廃村で,その後青少年旅行村ができたことはすぐにわかった。予期しない場所に広がっていたこの廃村の風景は忘れることができない。
 平成16年10月,四度目の旧西谷村は,初めてクルマを使い,大野市街から国道157号線を山に向かう形で妻と二人で訪ねた。廃村経緯の看板を見た後,足を運んだ青少年旅行村では,平成16年7月の福井集中豪雨により公園内の雲川にかかる橋の地盤が削られ,橋は通行不能になっていた。災害は離村から三十余年経った今も,地域を悩ませ続けている。


 ●各集落跡に残る離村記念碑

 旧西谷村の各集落跡には,「ふるさとの碑」,「萬霊之碑」などと刻まれた離村記念碑が建てられている。私はそのうち下笹又,上笹又,中島,黒当戸,下秋生,上秋生,巣原,熊河,温見の計九つの離村記念碑を確認した。
 離村から三十余年を経て,水没地域はもちろん,水没を免れた集落跡でも,離村時に植えられたスギは大きく茂り,そこが集落跡であることは,石垣跡などを注意深く確認しなければわからない。そんな中で,間違いなくここに集落があったことを示す離村記念碑が果たす役割は大きい。
 ところで,旧西谷村の東隣りの東谷・旧上穴馬村も昭和39年の九頭竜ダム完成にあわせて全集落(十六集落)が離村した旧行政村の廃村であるが,旧上穴馬村の各集落跡の離村記念碑は九頭竜湖沿いに建っているのに対し,旧西谷村の各集落跡の離村記念碑は山側に建っている。旧上穴馬村から油坂峠を越えて岐阜県旧白鳥町に抜ける国道158号線は,冬季も通行できる主要道であり,旧上穴馬村民の多くは,福井県ではなく,愛知県や岐阜県に越されている。この離村記念碑の違いは,西谷と東谷の地域性の違いを示しているようで興味深い。


 ●奥池田,平家落人の伝説がある廃村群

 国道157号線は中島から両白山地を温見峠で越えて岐阜県旧根尾村に向かうが,山深くを通るため,冬季は中島の手前の大野市下若生子から旧根尾村能郷までの間で通行止となる。なお,大野市上若生子,下若生子も奥越集中豪雨で甚大な被害を受け廃村となり,下若生子には金色の麻那姫像がそびえる真名川ダムのダムサイトがある。この国道は冬季以外でも,土砂崩れ等により通行止となることが多く,主要道としては機能していない。
 昭和62年9月,中島から先の道として,私は雲川筋の温見峠を越える道を選んだ。地図に記された巣原,熊河,温見という集落の跡をこの目で確かめたかったからである。このとき見つけることができたのは,温見の白山神社跡だけだったが,無人の集落跡に残る崩れかかった木製の鳥居には,忘れ得ぬ凄みを感じた。私がその後,廃村に強く関心を示すことになったのは,このとき箱ヶ瀬橋から旧根尾村能郷までの75kmの道程で見た風景のインパクトの強さからにほかならない。
 雲川筋(巣原,熊河,温見)の三集落は,歴史的には熊河峠もしくは巣原峠(ともに現在は廃道)を越えた池田町とのつながりが深く「奥池田」と称される。最奥の温見には平将門の落人伝説があり,戦国期から江戸初期にはまた金山で栄えた歴史がある。離村時期は三八豪雪の翌年(昭和39年)である。集落跡は国道沿いにあるので,離村記念碑とその奥の神社跡の祠は簡単に見出すことができる。平成12年5月上旬,三度目の訪問時には,祠の手前の石段の真ん中に育ったスギと,傍らに残る雪が印象的であった。また,村出身の方の作業小屋があり,西谷の集落の中では最も往時の雰囲気が色濃く残る。また,熊河の離村時期も昭和39年である。集落跡は国道沿いだが,神社跡は奥まったところにあり,平成12年5月の三度目の訪問で初めて見つけることができた。熊河の離村記念碑は,神社跡の石段を登り詰めた場所にあり,祠と仲良く並んでいた。
 奥池田最大の集落は巣原で,往時は中島とともに小中学校の本校があった(温見,熊河には巣原校の分校があった)。巣原には平家平と呼ばれる山があり,平家の落人が隠れ住んだと伝えられる洞穴がある。これに由来する平家踊りは県の無形民俗文化財に指定されており,今も大野市篠座にある保存会で伝承されている。巣原の離村時期は,奥越集中豪雨の翌年(昭和41年)である。巣原の集落跡は国道から急な坂道を上がって1kmの位置にあり,平成12年5月,初めて訪ねた巣原で目に止まったのは,学校跡の門柱と,校庭に立てられた離村記念碑,それと赤い屋根の大野市森林組合作業員宿舎であった。


 ●上笹又,お地蔵さんと写真の掲示板

 私の旧西谷村の調べは,大野市街で料理店「魚吉」を営まれる吉田吉次さんとの交流なしには語れない。吉田さんは昭和8年9月21日,旧西谷村上笹又生まれの71歳。出会ったきっかけは,「西谷の紙すきを再現へ道具を復元 大野市の吉田さん」という中日新聞の記事(平成10年4月)をインターネットの検索により見つけたことである。その後,平成12年2月,往時の村のことを教えていただくため大野市のお店を訪ねたとき初めてお会いして,今回は吉田さんを訪ねるのも四回目。
 西谷から大野市街に越されて三十余年。吉田さんに今の西谷について尋ねると「上笹又にお地蔵さんをまつり,美味しい山の湧き水を引いた」「ダムのほとりにサクラの苗木を植えた」というお返事をいただいた。
 翌日,旧西谷村をクルマで訪ね,中島からの大野市街までの帰り道,上笹又の離村記念碑のあたりを注意深く見渡すと,四年半前にも見た記憶がある「ゆっくり走ろう西谷路」という看板の脇に,お地蔵さんと湧き水を見出すことができた。よく見ると看板も吉田さん手製のようである。さらにサクラの苗木を探しにダム側を見渡すと,細い苗木があり,そのそばには往時の上笹又と中島の様子を撮った四つの大きな写真と昭和34年の上笹又集落の当番表が貼られた掲示板があった。このような形で飾られた写真を廃村現地で見たのは初めてであり,吉田さんの故郷への想いを垣間見ることができた。


 私がインターネット上で「廃村と過疎の風景」という廃村・過疎集落の探訪記を立ち上げたのは平成10年2月。その後の調べで把握できた戦後の行政村の廃村は,東京都(八丈小島)の旧宇津木村,旧鳥打村,福井県旧西谷村,旧上穴馬村,岐阜県旧徳山村,滋賀県旧脇ヶ畑村,愛媛県旧石鎚村の七村である。七つの行政村の廃村には,平成16年9月に八丈小島の両村跡を訪ねたことですべて足を運ぶことができたが,最初に訪ねて強いインパクトを受け,人の縁にも恵まれた旧西谷村には,強い愛着を感じている。
 しかし,平成16年は災害の当たり年だった。十回にも及ぶ台風の上陸に加えて,私が旧西谷村を訪ねてからまもなくの10月23日(土曜日),新潟県中越地震が起こり,古志郡山古志村は行政村としての全村民の避難を余儀なくされた。「当時の新聞は,どのぐらい西谷村の被害状況を伝える記事を載せていたのだろう」と昭和40年9月の毎日新聞を調べると,写真が掲載される大きな記事はあったが,15日から17日までの三日間載っていただけであった。記事の中でいちばん印象深かったのは,17日の新聞に載っていた「これで西谷村の歴史は終わった。ただ命が助かったことを神仏に感謝するだけだ」という山本満村長(当時40歳)の言葉である。
 新聞で中越地震関連の記事を見るたび,その39年前,高度成長期の頃に起こった災害のため消えていった旧行政村 福井県旧西谷村のことが頭に浮かぶ。

(注1) このページは,滋賀民俗学会の月刊誌「民俗文化」(菅沼晃次郎さん主宰)への投稿用にまとめたものです(「民俗文化」は平成17年5月,通巻500号となりました)。投稿文は画像データを差し換えて減らし,地図等のアナログデータを加えて作成しました。

(注2) 麻那姫青少年旅行村の遠景の写真は昭和63年11月に,雪が残る温見の神社跡の祠の写真は平成12年5月に撮影したものです(他は平成17年10月撮影)。

(注3) 戦後の七つの行政村の廃村のうち,合併・編入と同時に廃村となったのは,旧西谷村と旧徳山村(昭和62年4月 藤橋村(現揖斐川町)に編入)の二村だけです。他の五村は「昭和の大合併」によって行政村としては事前に消滅しています(旧鳥打村=昭和29年10月 合併で八丈村に。旧宇津木村=昭和30年4月 編入・昇格で八丈町に。旧上穴馬村=昭和31年9月 合併で和泉村(現大野市)に。旧脇ヶ畑村=昭和30年4月 合併で多賀町に。旧石鎚村=昭和30年4月 合併で小松町(現西条市)に)。

(注4) その後の調べで,戦後の行政村の廃村は,石川県旧新丸村(昭和31年9月 編入で小松市に),岡山県旧久田村(昭和30年3月 合併で苫田村(現鏡野町)に)が加わり,九つになりました。



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