古典的廃村への雪中トレッキング

古典的廃村への雪中トレッキング 京都府京都市左京区広河原菅原


過疎集落 広河原菅原から廃村八丁(ダンノ峠)に向かう途中にあった雪に埋もれた祠です。



2005/1/10 京都市左京区広河原菅原

# 37-1
年が明けて平成17年1月,この季節になるとカンジキを持って雪が降る廃村・過疎集落へと行きたくなります。
振り返ると,平成13年2月に岐阜県根尾村の冬季無人集落 黒津,平成14年2月に秋田県大館市の冬季分校跡がある廃村 合津,平成15年1月に北海道美唄市の円形校舎跡があるゴーストタウン 東美唄,上富良野町の開拓集落跡 静修開拓,平成16年1月には現役冬季分校がある山形県最上町野頭,新庄市二枚橋,へき地5級校がある青森県佐井村牛滝などへと足を運んだのですが,どれも印象深い旅ができています。
そんな旅も今年が5年目,「どこに行こうか」と考えた末,ターゲットになったのは,京都府京北町の古典的廃村 八丁(Hacchou)です。

# 37-2
私が廃村 八丁を知ったのは小学生の頃,父の書棚にあった「日本の過疎地帯」(今井幸彦さん著,岩波新書刊)に取り上げられていた記事からでした。その記事は,今井さんが昭和41年11月に京都市広河原から八丁を訪ねた様子を記したもので,子供心に強いインパクトを残しました。萱葺き屋根の廃屋の写真や,ダンノ峠,四郎五郎峠,卒塔婆峠といった峠の名称は,頭に刻み込まれました。
大学生になって新潟県巻町の廃村 角海浜に偶然足を運び,社会人になって福井県大野市の自治体規模の廃村 旧西谷村へやはり偶然足を運び,廃村に深い興味を持つようになってからも,不思議に八丁には足が向きませんでした。そしていよいよ八丁をめざす時が来ました。

# 37-3
京都 北山の深い山中にポツンとあった5戸ほどの小集落八丁は,昭和9年の大雪で孤立し,昭和11年には全戸が離村したとのこと。戦前からの京都市内に近い廃村ということで,それほど廃村が生じていなかった昭和40年頃,すでに「廃村八丁」として有名だった様子です。
今は関西のハイカーを中心に,静かな山歩きができるコース「廃村八丁」として親しまれており,多くのホームページにレポートが掲載されています。そんな中,「自転車・峠おやじ」Web(管理者 名和博さん)では,昭和49年5月に自転車で八丁を訪ねた様子が記されており,当時八丁のシンボルだったという銀座のビルとビキニ姿の女性の絵が描かれた白い土蔵(今は崩壊)を見ることができます。

# 37-4
計画を立てるにあたって,国会図書館で「日本の過疎地帯」を30数年ぶりに読みました。書籍の刊行は昭和43年,高度成長期の真っ只中で,廃村が全国あちこちに生じ始めた頃です。この書籍では過疎を「日本のゆがんだ社会の縮図」として,廃村八丁を「過疎の終末」として取り上げています。また,「過疎」という言葉が官公庁の書類で使われ始めたのは昭和41年頃とのことです。
地形図にも八丁の地名はあり,標高は590mで,広河原からダンノ峠・四郎五郎峠越えのルートの距離は約5km。コースタイムは往復約6時間という「奈良山友会のホームページ」の「廃村八丁ハイキング」の記録(平成16年11月)を参考にしました。

# 37-5
旅の出発は1月7日(金曜日),仕事をこなした後,keikoさんと一緒の新大阪行き新幹線。大阪では初日が岸和田のkeikoさんの実家泊,2日目からが堺の私の実家泊。互いの実家の両親,11月13日に行った結婚式の仲人夫妻,いとこ,友人などと賑やかに過ごし,単独の八丁行きは4日目の10日(月曜日)となりました。
雪に備えてカンジキと長靴を用意したのですが,京都北山の雪の様子はいま一つピンと来ません。しかし,大晦日に全国的に降った雪は大阪市内でも積もったとのことで,少なからず影響がありそうです。

# 37-6
堺 新金岡の実家出発は午前5時50分。京都 京阪出町柳駅前から広河原行きの京都バスが発車したのは午前7時50分。貴船口から雪の白が目立ち始め,鞍馬温泉を過ぎてすぐにバスはチェーン装着のため15分の停車となりました。京都市内の路線バスとは思えない展開です。
花脊峠の近くまで来ると,周囲はすっかり雪景色です。気温を示す掲示板は−4℃とあります。バスには山歩きの服装の方も居たのですが,花脊峠バス停で下車されて,花脊別所町から先の乗客は私ひとりになりました。
廃村八丁の入口の広河原菅原町のバス停到着は午前10時(定刻より20分遅れ)。2時間以上も乗って運賃はちょうど1000円でした。

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# 37-7
ダンノ峠に向かう道にはバス停の近くですでに20cmの積雪がありました。おそるおそるクルマの轍をたどって歩いて行くと,バス停からおよそ15分(700mほど),最後の一軒家がある場所で轍は途切れ,50cmは雪が積もった除雪のない山道となりました。
広河原菅原とダンノ峠の距離は2km少々。しかし,標高差は300m(広河原菅原が470mに対して,ダンノ峠は770m)あり,この様子だと八丁はおろかダンノ峠へ行くのも無理かもしれません。カンジキの足跡があったので,ここからは私もカンジキを履いて,足跡をたどって先を進むことになりました。しばらく行くと渡渉箇所があり,雪山の雰囲気満点です。

# 37-8
ダンノ峠への道は途中で沢道と尾根道に分かれるのですが,足跡は尾根道に続いていました。私も尾根道を選ぶしかありません。かなりの勾配の道を潅木をかき分けながら進むと,雪の高さが膝上まで達したあたりで足跡は途切れていました。
時間はまだ11時半。「とりあえずダンノ峠までは行こう」と足跡のない雪の中を股の近くまで雪に浸かりながら進むと,行く先に「ダンノ峠 廃村八丁」と記された小さな看板が見出されました。傾斜は緩やかになり,見晴らしもよくなったのですが,道がはっきりしなくなりました。「道に迷うのは最悪」ということで,看板を過ぎて300mほどで撤退を決めました。5年目にして初の雪中行 中途撤退です。

# 37-9
そそくさと山を下って,渡渉箇所の近くの雪原で立ったまま昼食を食べて,一軒家まで戻ったのは午後1時20分。屋根の雪降ろしをするおじさんの姿があったので,ご挨拶をして,雪について尋ねると,「大晦日までは積雪はなかった」とのこと。クリスマスの頃ならば,八丁まで到達できたのかもしれません。また,雪が少ない年ならば1月初旬でも大丈夫なのかもしれません。
そして,雪は例年3月末頃で消えるとのこと。「春になったらまた来ます」と返事をすると,おじさんは「ご苦労さん」と言葉を返してくれました。無駄足のような雪中トレッキングでしたが,いつか八丁にたどり着けた時には,その喜びは倍に増幅するに違いありません。


# 37-10
菅原バス停発出町柳行きバスの発車時間は午後2時33分。ほどよい時間の余裕なので,広河原バス停まで歩いて「広河原スキー場」横の喫茶店「庄兵衛」に入って濡れた靴下をストーブにかざしていると,お店の方は乾いた靴下を用意してくれました。
新金岡の実家で,両親とkeikoさんに迎えられたのは午後6時30分。予定通り八丁まで行った場合よりも3時間以上早い帰宅となりました。
翌11日火曜日は,新大阪発午前6時の始発ののぞみで東京 神楽坂のオフィスに出勤です(所要時間は3時間55分)。大阪府堺市新金岡から東京都新宿区神楽坂までの時間的な距離は,雪の京都市左京区広河原菅原まで(4時間10分)よりも近いことが判明しました。



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