「廃村と過疎の風景(2)」まとめ(中篇)
「廃村と過疎の風景(2)」まとめ(中篇)
貯炭場に石炭がある池島の港です(平成12年11月26日(日))。
まとめの旅 長崎篇は,平成17年3月中旬,3泊4日で出かけました。山形・秋田篇と同じくkeikoさんとのふたり旅です。
当初,旅の目玉としていた野崎島には,荒天のため行くことができず,小値賀島から長崎空港への8人乗りセスナ機にも乗ることができませんでした。代わりに,予定にはなかった池島へ行くこととなり,小値賀島−佐世保のフェリー,佐世保−池島の高速艇,池島−大瀬戸のフェリーと,予定外の船に3つも乗ることになりました。
天候が良いときの旅では気付かない,島の暮らしの厳しさ,臨機応変に対応できる機転の大切さを感じた旅でした。
その3 長崎県小値賀町野崎島 (2005/3/12)
野首天主堂跡と野首集落跡の石垣です(平成12年11月27日(月))。
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「小さな島が好きだ」…私の旅好きは,小学校低学年のとき,父から与えられたオフィスで使わなくなったという人文社の分県地図(昭和45年版)から来ています。記憶に強く残ったのは,北海道の礼文島・利尻島,沖縄の与那国島・波照間島といった最果ての離島でした。
島にはそれぞれに際立った個性があります。簡単に行けないところも,到達できた時の喜びを高める要素となります。
「廃過疎(2)」でも,東京都(伊豆諸島)の八丈小島行き(平成16年9月)は,旅のハイライトとなりました。まとめの旅では,「廃過疎(1)」のハイライトだった長崎県の野崎島・端島への再訪を試みました。
野崎島は,元々の住民の方は岩坪元成さんが平成13年11月に島を出られてゼロとなりましたが,その後は,学校跡を利用した宿泊施設(自然学塾村)の管理者さん(西本五十六さん)が通年で島を管理されています。今回の旅では,改めて島の3つの廃村(野崎・野首・舟森)を訪ねて,自然学塾村で一泊して西本さんとお会いして,あわせて今は長崎市内に住まれる岩坪さんともお会いするという計画を立てました。
「長崎への旅」は,3泊4日ながら,年休の消化は1日だけの慌しい旅です。keikoさんは九州に行くのも初めてとのこと。
旅のはじまりは金曜日(3月11日)の夜。仕事を終えてからまっすぐ羽田空港に向かいkeikoさんと合流。天気予報の「福岡・長崎の週末は雪」という嬉しくない知らせに,ふたりともコートを着て出かけました。
福岡空港からは,地下鉄・タクシーを乗り継ぎ,市街地は素通りで博多港へ。フェリーは2年前にも乗ったなじみの「太古」。出航は土曜日(12日)になってすぐの0時1分。楽しいはずの船旅は,冬型の気圧配置による北西の風で海が大時化となったため,出航から30分ほどで地獄模様となりました。乗り慣れた地元の方でも「これはひどい」というほどの揺れに,私は船酔いに襲われ一睡もできませんでした。
午前5時10分,何とか小値賀島に着き待合室に入ると,「歓迎 埼玉県浅原様」というプレートが迎えてくれました。食料の買い出しに出かけていると,野崎島行きの船の欠航を伝える防災無線がかかりました。無情な話ですが,確かにこの時化ではしかたがありません。
待合所まで来ていただいた自然学塾村のスタッフの方(高砂さん)は,「海上タクシーを使うと行けるかもしれない」と提案してくれましたが,島にたどり着いても戻って来れないかもしれません。荒天はしばらく続く様子で,日曜日に小値賀島からセスナ機が飛ばなければ長崎市街での予定も崩れてしまいます。keikoさんの「私は小値賀島に残る」という声もあり,苦渋の選択でしたが,野崎島上陸はあきらめて,朝7時45分発佐世保行きのフェリーで小値賀島を離れることになりました。高砂さんとは短い時間のやり取りでしたが,自然学塾村では野崎島を含めた小値賀町の活性化に大きな役割を果たしているようで,「野崎は無人島ではありません」との言葉が印象的でした。
フェリーが津和崎瀬戸を通るとき,甲板から野崎島の廃村 舟森の段々畑跡が手に取るように見えました。今回は「簡単に行けない」ことを実感することになりましたが,おそらくまたいつか旅の虫が騒ぎ出して,野崎行きの計画を立てる日が来ると思います。無事に自然学塾村に到達できたときは,西本さん,高砂さんと美味しいお酒で乾杯したいものです。
もうひとつの野崎島の縁,岩坪元成さんとは,日曜日(13日)の午後4時にJR浦上駅の待合室で4年半ぶりに再会できました。岩坪さんは「元気にしてますよ」と,イヌのチョコちゃんの写真を持ってきてくれました。
岩坪さんが野崎島を後にされたのは平成13年11月8日。神島神社の分社を小値賀島笛吹の六社神社内に作り,神主としての仕事を引き継いで島を出られたそうです。お子さんが住む長崎市内に越されてからは,野崎島に戻られる機会はないとのこと,島では農作物はすべてシカにやられるので作れなかったとのこと,新しい住宅を建てて年金生活者を島に呼ぶ構想があったが実らなかったとのことなど,およそ1時間,いろいろなお話をしていただきました。どうもありがとうございます。
人口が650人もあった島から最後の住民の方が越されるということは事件であり,ニュースになったと思っていたのですが,報道されることはなかったとのことでした。改めて廃村とは生活そのものの動きで,鉄道の廃線や炭鉱の閉山とは意味の異なるものだと思いました。
【keikoさんのコメント3 〜 小値賀島・野崎島】
・博多港から小値賀島へのフェリーの揺れはひどいものでした。タクシーの運転手さんは「今日は波浪警報が出ているのでフェリーは欠航かも」と言っていたのですが,出航手続きは行なわれていました。HEYANEKOさんは出航前に缶ビールを2本空けて寝入っていました。
・そして出航。係留されていたときから揺れがあったので覚悟はしていたのですが,上がったり下がったりの大揺れで,横になっているのもたいへんなぐらいです。でも島に着くまで5時間はこのままです。あきらめなければなりません。私は何とか持ちこたえることができましたが,HEYANEKOさんはボロボロになっていました。
・小値賀島の港に着き,私は睡眠不足でバテてしまいましたが,HEYANEKOさんは復活して食料の調達へ出かけていきました。そこに学塾村のスタッフの高砂さんが来てくれて,今日の野崎島行きの定期船は欠航というお知らせに,少し安心しました。
・高砂さんのお話では「チャーター船だったら船長がOKすれば,行けなくはない」とのことで,HEYANEKOさんは行きたそうでしたが,私は首を横に振って「小値賀島で宿を取ってくれたら,そこでゆっくりする」と答えました。
・HEYANEKOさんは野崎島行きはあきらめてくれたのですが,今度は「すぐに佐世保まで戻る」と言い出しました。私は再び文句を言ったのですが,フェリーターミナルの方から「3時間ほどのうち,揺れるのは1時間だけ」「フェリーの後部中央に乗って,すぐに横になること」などのアドバイスをいただき,佐世保まで頑張ることにしました。
・野崎島行きのキャンセルは,HEYANEKOさんにとってすごくくやしいものだったようですが,私はこの判断は間違えていなかったと思います。フェリーターミナルの方のやさしさは忘れることができません。
その4 長崎県長崎市(旧外海町)池島 (2005/3/13)
貯炭場から石炭がなくなった池島の港です。(平成15年3月25日(火))
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「炭鉱跡が好きだ」…操業開始とともに急に賑やかな街ができて,閉山とともに急に人口が流出する。炭鉱街には,ある種,都会と共通する匂いがあり,旅をすると街の命の鼓動を感じることができます。そして,炭鉱がなくなった後のわびしさは,北海道の夕張・美唄・羽幌や長崎の池島・高島・端島など,山間部や離島において顕著です。
「廃過疎(2)」の旅で訪ねた炭鉱街は,雪の我路・東美唄(平成15年1月)と春の高島・池島(平成15年3月)でしたが,池島には「廃過疎(1)」のまとめの旅(平成12年11月)で炭鉱が稼動していた頃に訪ねており,特別に気になる存在です。
野崎島に行けないことが確定したことから急きょ浮上した池島行きですが,池島行きが思い浮かんだからあっさりと野崎島行きをあきらめることができたともいいます。フェリーの佐世保到着は午前10時20分(所要は2時間35分)。予想より揺れは少なく一休みできました。佐世保から池島の「福屋旅館」に電話をすると,お母さんは2年前の一見客を覚えてくれていました。
池島では,是非実現させたいことがありました。それは「やきとり江夏」に行って夏子さんと乾杯することです。あれから2年経ち,江夏はどうなっているのか,気になりましたが,「開いていてほしい」とだけ思い,連絡はしませんでした。
佐世保発の高速艇の池島到着は午後1時30分(所要は1時間15分)。長かった船旅もひとまずお休みです。港地区を歩いていくと共同浴場前の公営住宅がなくなっていました。郷地区に入り,注目の「やきとり江夏」の前に着くと,目印の赤い提灯は見当たりませんでした。
「福屋旅館」は郷地区の海沿いのいちばん奥。お母さんに江夏のことを尋ねると,少し前に体調を崩されて,それから休みが続いているとのこと。休業中なのか廃業になったのかはわかりませんが,「開いていない」ことは間違いないようです。
旅館でしばし休んでから,ふたりでスナック街の坂道を登り,鉱業所地区へ向かうと,新天街のお店はすべてシャッターが下り,4階建ての社宅も,多くは入口が閉ざされていました。池島ストアの売場もさらに縮小されていました。
「今日開いているのはここ」と,お母さんに教えていただいた港地区の共同浴場に4年半ぶりに入ると,全体的に妙な広さを感じました。そういえば小中学校も生徒数30名ほどとは思えない大きさです。施設に対する人の減り方が顕著なわけです。
keikoさんよりも早く風呂から上がって,近くの人の出入りがある棟を覗くと,商店と酒屋が営業していました。商店のお姉さんに食事ができるお店を尋ねると,「ないからカップめんでも買っていきなよ」との返事。「それはちょっと・・・」とお茶を濁していると,6時で閉店とのことで,あっという間にシャッターが閉ざされました。
しかたがないので,夜の帳が下り始めた郷地区への道をたどり,福屋旅館に戻って,野崎島で使う予定だったパックライスを出して,お母さんに「開いているお店がなかったので,ごはんを温めてください」と頼むと,卵焼きや漬物などを用意していただきました。この夕食は,記憶に残る美味しさでした。
池島炭鉱の閉山は平成13年11月29日。当時約2700人だった池島の人口は現在およそ500人。平成14年4月から始まった国の事業の炭鉱技術移転5ヶ年計画はちょうど丸3年。順調に進んでいるとはいえ,2年後には新たな決断のときが控えています。
一方で,平成15年10月より,旧炭鉱施設への修学旅行生の受入れが開始されています。平成17年1月,平成の大合併より新たに池島の所轄自治体となった長崎市は,端島(軍艦島)とともに池島の炭鉱遺構を観光に活用することに積極的といいます。
10年後の池島がどのような状況にあるかは,長崎市の行政の力に委ねられるところが大きいと思われます。
夕食の後は,ひとりで発泡酒を買いに池島ストアまで出かけました。スナック街の坂道には,2年前に行った「マキ」を含めて4軒のスナックの明かりがありました。真冬並の冷たい風が吹きすさぶ窓に明かりのない社宅群は,夢の中のような現実味のない世界でしたが,集会所らしい明かりの中に4人ほどのパソコンを使う子供達の姿を見たときは,心が温まりました。
【keikoさんのコメント4 〜 池島】
・池島の港では,人なつっこいネコが迎えてくれたのですが,一緒に船に乗ってきた若い方とご挨拶がてらお話すると「今は人よりネコのほうが数が多いんよ」と笑わせてくれました。
・旅館でひと休みしてから,HEYANEKOさんに高台の団地がたくさんある地区に連れていってもらいました。団地には人は確かにいるのですがとても静かで,ほとんどの店が閉まっていました。一見閉まっていると思ったスーパーから人が出てきたときはホッとしました。
・団地の間に張り巡らされていた見なれないパイプが気になっていたのですが,「炭鉱の施設で生じた廃熱を共同浴場で使うためのもの」と,後に高島で柿田さんから教わりました。
・共同浴場では,帰るときにみんなが「おやすみ」と言いあっていたのが印象的でした。私には工場勤務の経験があるのですが,ロッカー室で先輩達が冗談半分で「おやすみ」と言いあって帰っていたのを思い出しました。
・翌朝,旅館の二階の部屋の窓からは,横向きに舞う雪と波の高い鉛色の海が見えて,真冬のようでした。HEYANEKOさんは「3月の九州は暖かい」ことを期待していたようですが,思うようにはいかない大変な天気でした。
その5 長崎県長崎市(旧高島町)高島 (2005/3/14)
高島の港にて。keikoさん,私,柿田清英さんと三人で記念写真を撮りました。
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「人との出会いが好きだ」…旅の醍醐味は人との出会いであり,20代の頃,長期間のツーリングをしていた頃は,旅先でたくさんの旅人と知り合い,今も付き合いが続く友人も多くいます。廃村の旅でも,良い出会いがあるほど実りを実感することができます。
「廃過疎(2)」の旅の特徴は,地域の方との出会いは多いのに対して,旅人との出会いは皆無に近いことです。秋田の佐藤晃之輔さん,「ゆきの小舎」の佐藤さん夫妻,福井の吉田吉次さん,山口の長崎ゆかりさん,安渓さん夫妻,長崎の岩坪さん,doutokuさん・・・ 何度か重ねて足を運んでいる場所には,再会したいと思う地域の方の顔があります。
今回の旅では,長崎市街で岩坪さん,doutokuさん夫妻と再会しました。そして,高島でネット上のやりとりで知り合った柿田清英さんと初めてお会いしました。高島在住の柿田さんは「軍艦島写真集 崩れ行く記憶」(葦書房刊)を出されているカメラマンであり,また,高島炭鉱,池島炭鉱で働かれたという元炭鉱マンでもあります。
高島では,「うりずん」という民宿に泊まる予定がありました。うりずんは初夏(若夏)を表す沖縄言葉で,前回訪ねたとき「なぜ高島にうりずん?」と印象に残りました。今回は三線を抱えた旅でもあり,迷わず予約を取りました。
日曜日(13日),朝目覚めて窓の外を見ると横なぐりの雪が降っていて,池島の荒れた東シナ海は冬の日本海のようです。幸いにも定時に運行された池島発のフェリーの大瀬戸着は午前9時45分(所要は30分)。短い時間でしたが,相当な揺れでした。大瀬戸からローカルバスを乗り継いで長崎市街の大波止に着いたのはちょうどお昼頃。長崎市街では,出島,中華街,平和公園,原爆資料館,岩坪さんとの再会,一本足の鳥居(山王神社),doutokuさん夫妻との再会と,大忙しの行程となりました。しかし,夜7時頃,「うりずん」の方から電話があり,最終便(大波止発9時5分)は時化のため欠航とのこと。「うりずん」まで悪天のためキャンセルとなってしまいました。結局,大波止発の高速艇が高島に着いたのは,月曜日(14日)の午前10時51分(所要は36分)となりました。
高島の港で待っていてくれたのは,高島で酒屋を営む野崎祐一さん。前日doutokuさんから紹介をいただいた「軍艦島を世界遺産にする会」つながりです。高島で過ごせる時間は4時間弱。まず軍艦島クルーズを午後1時半に決定し,柿田さん宅を訪ねることになりました。
高島の人口は現在およそ800人。炭鉱の島としての最盛期(昭和43年)には18,019人もの人口がありました(端島を含めた自治体 高島町としての最大人口は昭和38年の21,965人)。
高島炭鉱の閉山は昭和61年11月27日。高島町は「石炭を魚にかえて島おこし」のコピーに代表されるように,自治体として閉山後の島の振興に尽力しました。磯釣り公園,いやしの湯など,真新しい施設をみると,旅人の目には高島の観光業への転換は軌道に乗っているように見えます。町としては日本最小規模だった高島町が長崎市に編入されたのは平成17年1月のこと。気になっていた自治体としての機能を失った高島のことを野崎さんに尋ねると,「今はまだ過渡期で,大きな変化は感じない」とのお返事でした。
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二度目の高島で目を見張ったのは,改装された石炭資料館と敷地に作られた大きな端島の模型,「いやしの湯」の横に立てられた岩崎弥太郎(財閥三菱の創始者)の像です。2年前の石炭資料館は古めかしいもので,いやしの湯はまだ開業直前,西浜には炭鉱の頃からの共同浴場がありました。高島も確実に変わりつつあります。
柿田さん宅を目指し,港を背に炭鉱時代からのコンクリートの階段を登ると,屋敷跡の更地や草にからまれた廃屋が目を引きました。そこには間違いなく「炭鉱があった」という歴史があり,どんなに高島が変わっても残り続けるもののように思えます。また,残すべきことのように思えます。
柿田さんとは初対面なのですが,すぐになじみになれました。柿田さん宅では,ていねいにファイルされた端島の写真,池島の写真を見せていただきました。訪ねたばかりということもあり,池島の炭鉱の様子を撮られた写真には強いインパクトを受けました。
【keikoさんのコメント5 〜 高島】
・高島へ行った月曜日は,炭鉱資料館はお休みで,資料を見ることができず残念でした。HEYANEKOさんは軍艦島の模型を見ながら上機嫌でした。
・柿田さん宅で,炭鉱が稼動している頃の池島の様子や,軍艦島の写真を見せていただき,炭鉱の島とはどんな様子だったのかがよくわかりました。今は寂しくなってしまった池島や,私の目にはただの廃墟にしか見えない軍艦島にも,多くの人が住んで,活気づいていたときがあったんだと実感することができました。
・高島も池島や軍艦島と同じく炭鉱で栄えた島だそうですが,その歴史をもって,これからを頑張っていこうという空気を感じることができました。
・いやしの湯は新しいきれいな建物で,軽食のコーナーで私はひらめ茶漬け,HEYANEKOさんはアロエそうめんを食べました。ひらめとアロエは高島の名物だそうです。帰りの船の待合所には大きな水槽があり,中を海の魚がたくさん泳いでいました。
その6 長崎県長崎市(旧高島町)端島 (2005/3/14)
軍艦島の代表的な風景,ビルの谷間の岩盤上に作られたコンクリートの階段(地獄段)です(平成12年11月25日(土))。
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「廃墟が好きだ」…記憶をひも解くと出てくるのが,堺市新金岡の実家の近く,近畿中央病院と金岡公園の間の広大な敷地に広がっていた廃墟群です。横文字の印が記された建物が多くあり,進駐軍が使っていた施設だったのかもしれません。
私が小学生の頃,ここは悪ガキ達の格好の遊び場でした。管理されていない自由さに魅力を感じていたように思えます。また,立ち入ってはいけないところをウロウロすること自体に楽しみを覚えていたように思えます。30数年経った今,そこはすべて更地になっていますが,更地のまま残されており,残された建物の土台などを見ると,そんな子供の頃の興味がよみがえります。
「廃過疎(2)」の旅で「廃墟」を訪ねた感が強いのは,神戸の摩耶観光ホテル(平成13年2月)と下関の六連島信号所(平成15年11月)ですが,振り返ればそこには子供の頃の興味がそのままありました。今回の長崎の旅では,「軍艦島を世界遺産とする会」の坂本道徳さん(doutokuさん)とお会いして,観光スポットとして注目されはじめた端島の軍艦島クルーズを体験することになりました。
doutokuさん夫妻との待合わせは,日曜日(13日)午後6時頃,JR長崎駅の改札です。2年ぶりの再会を祝して4人で居酒屋で乾杯しました。
4年半前(平成12年11月),端島に上陸しての1泊のキャンプは,doutokuさんをリーダーとする軍艦チームに参加してのことでした。その後,三菱マテリアルから高島町への無償譲渡(平成13年11月),NPO法人「軍艦島を世界遺産にする会」の発足(平成15年3月),長崎港からの定期軍艦島クルーズの開始(平成16年6月)と,端島をめぐる動きは急展開しました。この間,会の理事長として,行政の方,研究者,観光業者,マスコミの方などを相手に,動きの牽引役をされたdoutokuさんの端島への情熱には,改めて感服するところです。
一連の動きの中でいちばん印象的だったのは,この2月より軍艦島をメインとするパックツアーができたことです。阿蘇 草千里,杖立温泉,水郷 柳川,軍艦島クルーズ,長崎市街観光というプランが乗ったパンフレットには,時代の流れを強く感じました。
高島に渡れなかったことから,成り行きで泊めていただくなど,doutokuさん夫妻にはたいへんお世話になりました。
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当初,軍艦島クルーズは,なじみ深い香焼の「美津丸」にお願いする予定でした。しかし,ちょうどこの頃2週間,船のドック入りのため美津丸の香焼−高島航路自体が欠航ということで,この予定も流れてしまいました。
今回,クルーズで使ったのは,高島を母港とする田平運輸の「マリンフラワー」です。柿田清英さんにもお付き合いいただき,3人での出発となりました。天気は上々なのですが北西の風が強く,しぶきのため船の走行中は船室から出ることができませんでした。船は10分弱で端島の学校沖へ到着。時計と反対回りに島を一周したのですが,外海側(住宅側)の波は高く,大揺れでした。船が動きを止めて,デッキでゆっくりと田平船長のお話を伺えたのは,内海側(鉱業所側)のドルフィン桟橋沖でした。
沖合いから見る軍艦島は,他に類するもののない迫力はあるのですが,4年半前に上陸したときと比べると「物足りない」感じは否めません。もっとも,今回は「物足りなさ」を味わうつもりだったので,島に釣りの方の姿が見えても悔しく思うことはありませんでした。
軍艦島クルーズでも,将来的には島への上陸の構想があるそうです。それは,予算取りなどで,行政の力を借りると実現可能なことなのかもしれません。公式に上陸が許可される頃には,整備がなされ,危険な部分は取り壊されて,「廃墟」から「産業遺産」に変化を遂げていることでしょう。その頃には本当に,軍艦島は世界遺産になっているかもしれません。
高島への帰路,振り返って船の後方から見た小学校跡が真ん中に来るアングルの端島は,4年半前とまったく同じく,力強いものでした。無人島と化してから36年,端島はこれから先も「日本に炭鉱が栄えた時代があった」ことを伝え続けることでしょう。
クルーズは往復45分で4000円。短く感じられたことからすると,価値のあるひとときでした。午後2時35分,柿田さんに見送られながら高島の港を後にし,いろいろなことがあった3泊4日の旅の予定は終了しました。「これからさらにどのように変わって行くのか・・・」。池島,高島,端島,3つの西海の小さな島(旧産炭地)からは,これからも目が離せません。
【keikoさんのコメント6 〜 軍艦島】
・doutokuさん夫妻は二人三脚で「軍艦島を世界遺産にする会」の活動をされていました。doutokuさんの奥さんのバックアップは,私の目にはすごくかっこよく写りました。
・軍艦島クルーズは,高島から小さな船で出発しました。「波が高いけど大丈夫かな?」とちょっと心配だったのですが,やっぱりすごく揺れました。どこかにつかまっていないとイスにも座っていられないような揺れです。「短時間で終わってよかったな」と思いました。
・軍艦島は,単に見ただけでは本当に無気味な廃墟です。だけど,ここに日本で最古の鉄筋コンクリート造のアパートが今も建っていること,にぎわった時期には東京よりもはるかに人が密集して暮らしていたことなどを,写真や資料で知った上で見ると,そこに住まれていた人の生活がだぶって見えてくるようになります。ちょうどダムの底に沈んだ村と同じく,軍艦島で再び暮らすことはできません。それでも,住まれていた人達にとっては大切なふるさとなんだと気付くことができました。
・軍艦島がはやく世界遺産になりますように。世界遺産になって,安心して行くことができるようになったら,是非一度上陸してみたいと思います。
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