鈴鹿山地北部の旧行政村の廃村 平成13年夏 滋賀県多賀町旧脇ヶ畑村,
__________________霊仙今畑,後谷,屏風
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冬季無人集落 保月に残る江戸期からの萱葺き屋根の家です。



6/30〜7/1/2001 多賀町旧脇ヶ畑村,霊仙今畑,後谷,屏風

# 4-1
およそ1年ぶりの脇ヶ畑村への再訪は,「民俗文化」への投稿内容の確認が主目的です。坂口慶治先生の論文を読んだり,「多賀町史」を調べたりして,投稿内容は9割堅完成していて,詰めのために多賀町役場の方や多賀郵便局の方に連絡を取ったりしたので,研究のために行くような雰囲気になりました。5月末から始まった妻の入院のこともあり,ノリがよいとは言えません。
出発は6月30日(土曜日),朝早くの米原停車の新幹線に乗ろうと南浦和の自宅を5時30分に出たのですが,寝過ごして気が付けば浜松町。このことでだいぶ時間をロスしてしまい,米原到着は9時30分になってしまいました。新幹線の中でも居眠り続きで,ばてていました。


# 4-2
米原は傘がいらない程度の小雨。新幹線を降り,JRの駅の裏手の近江鉄道の駅に出て,近江鉄道で多賀大社を目指すことになりました。人気のない古い駅でぼんやりしていると,旅の空気に包まれたことを感じました。
多賀大社前到着は10時30分。「レンタサイクルがあればよいな」と思ったのですが,そんな都合のよいものはなく,絵馬通りという表参道を歩き,ずっと素通りだった多賀大社にも立ち寄ってお参りしてきました。さらに少し山側に歩いて,「あけぼのパーク」という多賀町立の博物館と図書館からなる施設で,事前に調べておいた「脇ヶ畑史話」の冊子を購入しました。

# 4-3
「あけぼのパーク」の職員の方に,「保月の筒井さんは昔の話に詳しい」と伺ったので,保月を目指して歩くことになりました。時間は11時30分。「これから歩いて保月に向かう」というと,職員の方は驚いていました。
幸い天気は,道は濡れているものの傘はいらない程度で持っています。
大岡,八重練と山の麓の集落を過ぎて,杉坂の旧道をたどったのですが,急な山道になって10分ほどで轍がわからなくなり,あえなく引き返すことになりました。結局そのまま山すその地道を栗栖まで歩いて,栗栖の萱葺き屋根の古い商店で,食料を調達しました。

# 4-4
調宮神社を横目に脇ヶ畑村への道に入ると,入ってすぐから急なつづらおりの道。この道(県道上石津多賀線)が舗装されたのは,平成4年とのこと。それでも通るクルマはなく気持ちよく登ることができました。しかしたっぷり時間はかかります。
御神木のある杉坂峠(標高590m)を越えて杉に着いたのは午後1時50分(栗栖から4km,1時間10分)。最初に出てくる廃屋の姿には,やはりドキッとします。光明寺跡で休んでから覗いてみた廃屋は,静寂に包まれていました。床に落ちた時計は,朽ちることで時の流れを表しているかのようです。前回は気が付かなかった神社(春日神社)の祠は,光明寺跡から県道を挟んだ反対側の高台にありました。


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# 4-5
保月までの道のりは,バイクでは感じなかった起伏があり,なかなか厳しいものでした。その代わり,道の脇に「いぼみづ」という湧き水を見つけることができました。地蔵峠(薩摩杉があるところ),寒坂峠という地図には載っていない小さな峠を越えると,空が広がって保月に着いたのは午後3時40分(杉から4km,1時間)。やはり旧村役場兼郵便局跡の建物は取り壊されていました。
平成13年現在,保月に春から秋にかけて常住しているのは3世帯5人。紹介をいただいた筒井庄次さんの家は県道の裏手の高台にあり,ご挨拶に伺うといろいろなお話を聞かせていただきました。筒井さんは89歳にして,クルマの運転もできる元気なおじいさんです。



# 4-6
一日一便の郵便屋さんに届けられる新聞,6月末にしてストーブが心地よい気候は,ここが別天地であることを感じさせます。
驚いたのは,「隣りの家屋は,蚕を飼うために新しく作った」というお話が出たことです。「蚕って,戦前の話ですよね・・・」と応えたら,「そうだ,この母屋は明治より前から建っているだ」とのお返事。昔の木造家屋とは,意外に丈夫なもののようです。
母屋には,五右衛門風呂,玉音放送が聞こえてきそうなラジオ,電気が通じる前(昭和25年以前)に使われていた石油ランプなどがあり,やはり住んでいる人が居る家はよいと思うことしきりです。


# 4-7
話は尽きず,保月を出たのは午後6時30分。歩きでの帰り道はとても遠く感じられます。茜色の空のもとの廃村 杉や,杉坂峠を越えたあたりで見下ろした夕暮れの近江平野はとても綺麗でしたが,くしくも日が暮れきったところで保月に忘れ物をしたことに気が付いてしまいました。さすがにこれから戻ることはできません。ここで多賀か彦根に宿を取って,明日も探索を続けることが決定しました。
栗栖までの下りの夜道は真っ暗で,足が宙に浮いた感じでしたが,おかげで何年かぶりにホタルを見ることができました。栗栖到着は8時20分。地元の方のクルマに便乗させていただき,「保月まで歩いた」と話すと,「ヒルには会わなかったかい」との返事がありました。

# 4-8
カルスト台地は生息地としての条件がよいのか,旧脇ヶ畑村近辺の山にはヒルが多いという記事をいくつか目にしています。
宿は多賀町内では見つからず,中山道の宿場町の高宮でも心当たりはなし。無難な線ということで,彦根市街のビジネスホテルに泊まることとなりました。多賀大社駅発は午後9時35分,高宮乗換で彦根着は10時5分,やはり街(多賀・彦根)と脇ヶ畑村の距離は長かったです。それでもほぼ歩きで往復でき,肌で距離を感じることができたことで,彦根市街のラーメン屋では,安堵感に包まれていました。
「彦根ステーションホテル」は,ひとりで気紛れに泊まるには丁度よく,「脇ヶ畑史話」を読みながら飲むビールはとても美味かったです。

# 4-9
翌 7月1日(日曜日)の朝は天気も上々で,だいぶ調子がよくなってきました。この日は彦根でレンタカー(スバルの軽四)を借りての廃村へのアプローチです。彦根発8時50分,30分で杉に,45分(9時35分)で保月に到着ということで,前日の距離感は覆りそうです。
筒井さんとは忘れ物をいただいた後,1時間少し喋っていました。時折遠くから来る方ともお話をされるそうで,話題も増える様子です。
保月から五僧はクルマだと15分(4.5km)。到着は11時15分。昨年は工事中だった権現谷から五僧までの林道も完成していて,集落跡の手前は駐車スペースが作られていました。廃村から30年近く経って,ついにクルマの乗入れが可能になったわけです。


# 4-10
五僧は,県境でもある峠(五僧峠,標高500m)の場所にも屋敷の跡があるという,珍しい立地の廃村です。林道からだいぶ奥に入った場所にある美奈戸神社は,論文に載っていた地図がなければたどり着くことはできなかったことでしょう。今でも年に二回(4月と9月)の例祭のときには村人達がここで集っていると思うと,とても神聖な空間のように感じられました。
背の高い雑草から浮き出ている屋敷の壁の跡があり,草をかき分けて様子を見に行き,その足で林道に戻ると,靴下に真っ赤なでっかいヤマビルがくっついていました。すぐさまはたき倒したのですが,これまでの廃村探索でいちばん恐い動物との遭遇を実感しました。

# 4-11
ヒルとの遭遇はあったものの,脇ヶ畑村の三集落の探索が終わったのはちょうどお昼頃。まだ日は長いということで,引き続き昨年行き損ねた芹川沿い(旧芹谷村)の廃村・過疎集落の霊仙今畑(Ryouzen-Imahata),後谷(Ushirodani),屏風(Byoubu)に足を運びました。
霊仙今畑には,手前の集落(山女原)からは2kmほどですが,今も通じる車道はありません。霊仙落合の少し手前の霊仙山の登山道を10分弱登り,到着は12時50分。集落の入口には湧き水があり,山登りの方が一服するにはもってこいの場所です。
山の西斜面の集落には,6戸ほどの健在な家屋と2戸の大破した家屋がありました。

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# 4-12
霊仙今畑は標高420m,最大戸数は17戸,廃村の時期は昭和54年。宗金寺という寺は閉ざされているものの綺麗に整備されており,寺を背にして大きな萱葺き屋根の家を見る空間は,今回いちばんのお気に入りのポイントです。まるでたくさんの村人が居たときの風景がそのまま残されているようです。また,寺の奥手には,道場かと思えるような大きな閉ざされた家屋がありました。
帰り際に,湧き水のところで山の作業をされている村の方に会えたので,お話を伺うと,二つの大きな家屋は江戸期からのものとのこと。 今回は,木造家屋の意外な生命力に驚かされる探索となりました。

# 4-13
満たされた気分で霊仙今畑を後にして,次に訪ねた後谷は,栗栖から5kmほどの山間の行止り,標高420m,最大戸数が30戸の冬季無人集落です。ちなみに芹川沿いにあった往時の芹谷村役場の所在は後谷でした(多賀村,久徳村と芹谷村の合併町制は昭和16年)。
たどり着いたのは午後3時30分。驚いたことにおじさんが道の真ん中で転がっています。「やばそうだなあ・・・」と,静かに横を通ってクルマを止めて様子を伺うと,ログハウスの向こうのほうから「キサマトオレートーワー」という軍歌を歌う声。月の最初の日曜日の昼下がりということで,村の方が集って宴会をされているようです。よく見ればおじさんの頭には枕があり,確信犯です。


# 4-14
「これは,探索どころではない・・・」と,珍しく弱気となり,いそいそと道を戻り屏風への道をたどると,その入口は鎖で閉ざされていました。昨年訪ねた甲頭倉に続いての出来事ですが,「とりあえず,様子見だけでも・・・」と入らせていただきました。
屏風は,栗栖の距離が5kmほど,標高400m,最大戸数が12戸の冬季無人集落。たどり着いたのは3時45分。集落の駐車場は整然としており,近くには草を間引いているおばさんがいました。おっかなびっくり階段を上がって集落を探索したところで出会ったのは,畑の中に突き刺さっているマネキンの顔でした。後谷に続いて意外な展開に驚かされてしまいました。


# 4-15
屏風もそそくさと引き上げ,最後に足を運んだのが多賀小学校芹谷分校跡です(所在は屏風)。
分校の閉校は平成5年,戦前は1000人を超えた芹谷村の人口も,今は200人を切ります。栗栖と河内の真ん中の川沿いにポツンと建った二階建ての校舎にたどり着いたのは4時5分。目立つところにあるためか,中の壁は落書きでいっぱいになっていました。それでも,今も音がなるオルガンがあり,廃止となったバス(芹谷線)の時刻表や,二階からのまぶしい景色を見ると,なつかしさを感じることができました。
運動場には昨年はなかった盛土があり,この校舎も近々工事で取り壊されることでしょう。

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# 4-16
彦根市街に戻ったのは4時45分。ちょうど9時から5時まで仕事をしたのと同じぐらいの時間に,驚くほどたくさんの印象深い風景に出会うことができました。ひととき現実から離れるにはちょうどよいレンタカーの短い旅の予算は食事をあわせて6000円ほどでした。
5時ちょうど発の大阪方面行き新快速で彦根を後にした私は,昨日の朝と比べると驚くぐらい元気になっていました。
ただ,五僧で遭遇したヒルの被害は意外に大きく,新快速の中ではジーンズに三つも大きな血のシミができていることに気付きました。
このときできたカサブタは,7月末頃まですねのあたりに貼りついていました。

(注) 多賀小学校芹谷分校の校舎は,平成16年3月に解体されました。



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