六甲山系に潜む廃墟ホテル
六甲山系に潜む廃墟ホテル
兵庫県神戸市灘区畑原(摩耶山)
廃墟 摩耶観光ホテルの3階入口です。倉庫に眠っていた往時の水がめに登場してもらいました。
2001/2/26 神戸市灘区畑原(摩耶山)
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# 2-1
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雪の黒津を訪れた翌日 2月26日(月曜日)は,神戸に出て摩耶山の中腹にある「摩耶観光ホテル」の廃墟(通称マヤカン)に行きました。
私がこの廃墟ホテルを知ったのは,「萬 臨時増刊号−廃墟の魔力−」(DANぼ刊)という冊子の記事からです。冊子は平成12年6月に東京・渋谷のパルコで開かれた展覧会「廃墟の博物學」で購入したもので,この時に「萬」の編集の田端宏章さんや写真家の大沼ショージさんなどとの面識ができ,その後,何度か行われているオフミート(廃墟フリークOFF)により,多くの仲間と知り合うことができました。
「廃村と過疎の風景」の一連の取組みにあたって,廃墟フリークOFFの仲間からは,いろいろな影響を受けたと思います。
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# 2-2
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廃墟というテーマには色々な切り口があって,それが重要な廃墟の魅力だと思うのですが,私の興味の強さの順は,まず廃村,次に廃校,続いて鉱山跡,廃線で,廃ホテルや病院跡,遊園地の跡などには興味が湧きません。
「往時の生活の匂い」が廃村への興味の強さの原点なのですが,廃ホテルに生活の匂いがないのかというと,何ともいえません。廃村をメインテーマにするため,他の廃墟には封印をしていたという意識もあります。
この辺りの意識のわだかまりを解消することが,廃ホテルとしては別格の魅力があるといわれるマヤカンに行く最大の目的です。
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# 2-3
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マヤカンを取り上げている廃墟系Webは数多くあるのですが,そのはっきりした沿革を教えてくれるのは山登りを趣味とするKoji MuraokaさんのWeb「Eureka!」の六甲山のページに含まれる「摩耶観光ホテルの謎に迫る」です。
このWebの情報をまとめると,摩耶山中腹には天上寺という古寺(西国33ヶ所霊場の一つ)があり,大正15年(1925年)に参詣者を対象とした摩耶ケーブルが開業し,摩耶観光ホテルの歴史が始まったとのこと。当初は木造ホテルだったそうです。
現在の鉄筋コンクリートのアールヌーボー風の建物が「摩耶観光ホテル」として営業を始めたのは昭和7年(1932年)とのこと。
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# 2-4
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当初は上流階級向けの高級ホテルで,客室は13室。周囲には遊園地も開設され,今で言うリゾートとして活況を呈したとのこと。
しかし,昭和19年,戦争激化に伴いケーブルの運転が停止され,マヤカンも営業停止となってしまいます。
終戦後,再開されたのは16年も経過した昭和36年のこと。豪華客船から調度品を取り揃えて内装に取り入れた高級ホテルだったそうです。
しかし,それに先だったケーブルカーの再開と摩耶山上へのロープウェイの新設,また山上への自動車道(奥摩耶ドライブウェイ)の開通などにより,すでに摩耶山の賑わいは中腹から山上へとシフトしていたそうです。
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# 2-5
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戦前のような賑わいは戻らないまま,台風による被害をきっかけとして昭和42年,マヤカンは再び閉鎖の憂き目を見ます。
その後,昭和45年に常駐の管理人が入り,学生のサークルの合宿,企業研修,パーティーなどのために「摩耶学生センター」として営業を開始したものの,食事の提供はなくなっており,平成6年にはその営業も途絶え,現在に至るとのこと。
つまり,高級ホテルとしての営業は戦前12年・戦後6年のわずか18年だけだったようです。昭和60年に公開された映画「You Get a Chance」(吉川晃司さん主演)のロケのときは,すでに廃ホテルという趣になっていた様子です。
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# 2-6
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マヤカンへの最寄りは阪急の王子公園駅で,ここから1km少々のところに摩耶ケーブルの山下駅があります。摩耶山上(星の駅)には,マヤカンがあるケーブル山腹駅(虹の駅)で,ロープウェイに乗り換えます。
このケーブルカーは大震災(平成7年1月)以来運行休止となっていましたが,平成14年3月に復旧しました。「復旧するとマヤカンには簡単に行けるようになるが,この不便さが魅力を大きくしている」というのが,当時の廃墟フリークの一致する意見でした。
私は王子公園から摩耶山下駅まではタクシーを飛ばし,復旧間近の山下駅を横目に上野道と呼ばれる登山道を歩きました。
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# 2-7
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途中,3組ほどのハイカーさんと挨拶を交わしながら,山下駅を出て40分,急な坂に汗を流しながら山中の尾根にたどり着きました。ここには「摩耶花壇」という休憩所の廃墟があり,マヤカンの前段階としての雰囲気に一役買っています。
マヤカン周辺には休憩所や食堂,バンガローの廃墟がありますが,これらは昭和51年に天上寺が火災によって全焼し,その再建に際して寺が摩耶山上に移転したため,あおりで閉鎖されたもののようです。ほどなく山腹駅に到着し,駅の反対側を覗くとマヤカンの屋上が目に入りました。前日に訪れた雪の黒津ほどではないものの,到達した喜びを感じました。
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# 2-8
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マヤカンに通じる車道はなく,「山中に潜んでいる」という表現がよく当てはまります。建設時のたいへんさが偲ばれます。
新しい駅からも付けられているマヤカンへの歩道には柵一つなく,木をかき分けるとあっさり正面玄関(三階)までたどり着きました。
当日の天候はうす曇。標高は460mで黒津よりも高く,玄関前に居ると澄んだ空気が気持ち良いものの,どんどん寒くなってきます。
まずは玄関右側を回り込むと,大きな舞台がある大ホール。反対側から二階に降りるとレリーフがある特別室やロビー,食堂跡がありました。高級ホテルだけあって全体に作りが大きく広々とできており,明るい感じがするというのが第一印象です。
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# 2-9
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地形の関係からか,一階の床面積は二階以上よりも小さくなっていて,いくつかの客室がありましたがいくぶん薄暗くなっていました。
館内では,廃村を探索する要領で部屋の配置図をメモしながらウロウロしたのですが,トイレとタイル張りの風呂が多数あって,ちょっとした生活の匂いを感じることができました。廃村でも,トイレと風呂の跡は目立つものなのです。
また,荒れ方はそれほどではないと思ったのですが,これは軍艦島に行ったときと共通します。やはりコンクリートの建造物は木造に比べると格段に頑丈のように思えるところです。ゴミは,館外の下方斜面には多くありましたが,館内にはそれほどありませんでした。
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# 2-10
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倉庫にしまわれていた水がめはおそらく昭和40年代のもので,あちこちの廃村で見かけたものと同じ大きさと重みがありました。よほど全国で多数使われていたのでしょう。私には良い相棒という感じがしたので,玄関と大ホールでの写真に登場してもらいました。
ホテル内は,作りが複雑なことと閉ざされた箇所が数ヶ所あることからなかなか動きにくく,全体の探索には1時間少しかかりました。澄んだ山の空気の中,屋上から見る神戸の市街地や大阪湾はとても綺麗で,気持ちよかったのですが,季節柄寒いのが難点でした。月曜日ということもあって,探索中に他の人に会うことはなく,館内に響く音は自分の足音のみでした。
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# 2-11
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小学生の頃,実家(大阪府堺市)の近くに進駐軍が使っていたのではないかと思われる施設跡の廃墟があり,これを探索するのが好きだったということもあって,マヤカンの探索は十分に楽しむことができました。しかし,廃村探索のような味わいはありませんでした。
何が違うのか考えると,やはり集落を作って生活していた人の姿がないという点です。あと,「神戸市灘区畑原」という地名を記したときの味わいのなさです。やはり小学生の頃,分県地図にかじりつき,見知らぬ遠くの地名になじみを感じてきた私には,地名から感じるその土地への魅力が不可欠なようです。ちなみに畑原(Hatahara;通称ノタ山)はこの辺りの古い地名のようで,麓とには畑原通という町名があります。
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# 2-12
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「摩耶観光ホテルの謎に迫る」では,摩耶ケーブルの運営会社だった六甲摩耶鉄道に勤務されていた方や,往時のマヤカンに宿泊された方からの投書が掲載されており,中には摩耶学生センターでの合宿での出会いがきっかけで結婚されたという方からの投書もありました。
その所在地の特異性や,高級な作り,たどった歴史のはかなさを考えると,いろいろな出来事や思い入れが生じやすい場所ということを実感することができました。車道もない山中にポツリと残された廃ホテルには,風景の美しさという強い魅力も兼ね備わっています。大阪や神戸から気軽に行けるという適度な地の利もあり,廃墟フリークの中でマヤカンが別格とされるのもわかる気がしました。
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# 2-13
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帰りのマヤカンから山下駅までの所要時間は30分でした。食料,飲み物は用意しなかったのですが,特に問題はありませんでした。
帰途,坂の多い市街地を歩きながら摩耶山を見上げると,ケーブル駅の右側にマヤカンをはっきりと見ることができました。
「これから阪急やJRで摩耶山の近くを通過するときは,マヤカンの存在を気にすることになりそうだな」と思いながら,阪急王子公園からあずき色の普通電車に揺られて,なじみの三宮へと向かいました。
摩耶ケーブルが再開され,時は流れても,マヤカンはさりげなく廃墟フリーク達に語りかけ続けることでしょう。
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