希望と陰謀は災いの元




  【4】



 乱れた息を整えて、シーグルはゆっくり構えを取る。対峙するエルも構えを取って、そこから少し腰を落とす。一呼吸分、互いに間を取って、そこから同時に走り出す――だが。

「いい加減にしろっ」

 不機嫌一杯の怒鳴り声に、シーグルとエルは互いに武器を交える前に足を止めた。
 シーグルはそこから構えを解くとその声の主に向き直った。この将軍府の主である黒い騎士が怒ってこちらを見ている。ちらとエルの方を見れば苦笑して肩を竦めていて、シーグルは少し不機嫌そうに眉を寄せてため息をついた。

「確かに屋上で体を動かしたいというのは許可したが、やり過ぎるなと言った筈だな」

 ずかずかとこちらだけを見て近づいてくる男に、シーグルは少し不貞腐れながらも答えた。

「……悪かった、始めたら夢中になっていたんだ」
「まだ激しい運動はするなとロスクァールが言っていただろ」
「もう大丈夫だ、術の後遺症はない」
「それでもだ、もう少し様子を見ろと言われているんだから大人しくしておけ」
「お前がずっと部屋に閉じ込めてくれたおかげで体がなまってるんだ、早く戻したいだろっ」
「治療師の言う事くらい聞け、ガキかお前はっ」

 自分が悪いというのは分かっているのだが、なんだか彼にここまで頭ごなしに怒られると反発したくなってしまう。そもそも彼に閉じ込められていなかったらもう少し言う事を聞く余裕も出来た……なんて思ってしまえば、彼に文句を言いたくなる。

「エル、お前もだ。俺はお前に弟のいう事を聞くだけの兄になれとはいっていないぞ」

 セイネリアの後ろでそうっと離れていこうとしていたエルが、そこで足を止めた。

「あー……うん、分かってるんだけどさ、いや俺もちゃんとこいつの体を見てやって大丈夫だって思ったからさ……」
「エルは悪くない、俺が頼んだんだ」
「それは最初から分かってる」

 言うとセイネリアは予想通りこちらに手を伸ばしてきて、シーグルの腕を掴もうとする。それをすんでのところで躱したシーグルは、彼から一歩飛びのいて不機嫌そうな黒い騎士を睨み付けた。

「ちゃんと自分で歩けるし、もう止めて部屋に帰る」

 彼に捕まったらまた抱き上げられて強制で連れていかれると思ったシーグルはそう返した、のだが。躱された事でムキにでもなったのか、セイネリアの手が無言でまた伸びてきてシーグルはそれをまた躱す。そうすれば今度は本気で掴みかかってきたから、シーグルは彼の横をすり抜けて後ろへと逃げた。けれども流石にそうそう何度も逃がしてくれる相手ではなく、後ろへ回った途端彼がマントをわざと大きく翻したせいでシーグルは一度視界を奪われてしまった。だから一か八かで右へ逃げれば、直後に彼の足が襲ってきてシーグルはそれを腕で受けた。更には受けた反動を使って後ろへ下がる。

「あー、余計なお世話かもしれねーけどマスター、激しい運動するなって怒っててあんたが相手してりゃ世話ねーだろがよ」

 そうすればセイネリアもその場で構えを解く。シーグルはそのセイネリアの様子を伺いながらじりじり離れようとしていた……のだが、やってきたエルに手を捕まれてセイネリアの傍まで連れていかれ、しかも捕まれた手を無理矢理セイネリアの手の方にひっぱられて触らされた。

「ほら、レイリース、マスターの手を握っとけ」
「いやエル、なんで……」
「いいから黙ってマスターの手ェ握れ」

 そこまで言われれば仕方なくシーグルもセイネリアの手を握る。セイネリアもしっかりそれで握り返してきてしまったから逃げようがなくなって、シーグルは諦めのため息をついた。

「いいかレイリース、お前から触っていきゃマスターは機嫌直るんだからあんま逃げンな。でマスター、あんたが強引に抱き上げて連れていこうとするからレイリースも逃げンだぞ。だからこうして大人しく手ェつないで部屋帰りゃいいだろ、いっとくがキスもそれ以上も部屋まで我慢しろよ」

 シーグルはセイネリアと隣合わされて手を握らされて、なんだこの構図はと思ったもののそこで唐突にセイネリアが笑いだして……結局、部屋まで大人しく手を繋いで帰る事になってしまった。







――なんていうか、ありゃ完全にただの痴話喧嘩だろ。

 二人が去った後の屋上で、エルは思い出し笑いをしながら夜空に向かって背伸びをした。

「いやぁ、流石に付き合いが長いだけあるっスね、ボスの機嫌を直すのがうまいじゃないスか」

 直後、聞こえてきた声にエルは肩を竦める。この男が自分に話しかけてくるのは実は珍しい。ちなみにこの時間、いつもなら彼は部屋に帰っている筈で、それがここにいるのはセイネリアかシーグルか、あるいは両方の様子が気になって見に来たのだろう。

「今のマスターの機嫌を直すのなんざ簡単だろ、レイリースを傍に置いときゃいい」
「そンでもあの坊やがすんなりいう事を聞くのがあんたの強みでしょうね」
「まーそこはな、普段から優しくて頼りになるお兄ちゃんとして可愛がってやってるからな」

 それには返事の代わりにちょっと気まずい沈黙が返って、エルは軽く咳払いをする。それから一つ、大きく息を吐いてからエルは笑顔を消して言い換えた。

「そりゃ俺はあいつには身内認定されてっからな。基本無条件で信用してくれっし、触るにしても拒絶される事はねぇよ。あいつは本当に一度内に入れた人間に対しては甘いからなぁ」
「そうっスねぇ、おかげでこちらはいろいろ苦労させられましたから」
「だろうな、いやあいつの護衛なんてそら大変だとは思うわ」

 演技掛かった言い方でため息までついてみせた灰色の男に、エルは意地が悪そうに喉を揺らして笑う。
 立場も自分の存在の重要性も分かっているのに、反射的に人の為に自分が前に行ってしまう人間なんて、守る方からすれば神経をすり減らしまくるのは理解できる。それでもフユ以上に護衛任務に適した人間がいないのだから仕方ない。彼はいつも神経的にきつい仕事をしていて……いわゆる貧乏くじを引かされていると言ってもいいだろう。エルもセイネリアの暴れた尻ぬぐいが仕事だからそういう部分では共感出来て同情してしまう。

「しかし内に入れた人間は拒絶しないなら、なんでボスには反発するんスかね?」

 その疑問は当然といえば当然だがフユが分かっていないのは少し疑問に思って、エルは少し眉をしかめて彼を見る。いつも通り表情の読めない張り付けたような笑みの男は、エルと目が合うと僅かに首を傾げて見せた。どうやら本気で分かっていないらしい。

「そりゃ簡単だ、マスターはあいつにとって特別だからだろ」
「まぁそりゃそうでしょうスけど。考えればボスがただのオトモダチごっこをしていた時から、あの坊やはボスだけには他の人間に対するみたいにイイコじゃなかったなと」
「あぁそりゃな……」

 エルは笑う。ちょっと意地の悪い、でも苦笑と言える顔で。

「ありゃ甘えてたんだよ。なにせマスターはあいつにとっちゃ初めて自分が守る必要がない、頼ってもいい相手って思える身内だったろうしな。ンだからマスターの前でだけは最初から言動がガキっぽくなってたろ」
「そういやそうっスね」
「そンでも前の時はあいつもまだ心を許しきってなかったしマスターを尊敬してたからな、ある意味あいつにとっちゃ父親に向かう感情みたいなのがあったんじゃねぇか? で、今は尊敬がかなりなくなってその分は逆に……」
「逆に?」

 聞き返してきたフユに、エルはちょっと辺りをきょろきょろと見回してから手招きをする。それで察して耳を近づけて来た彼に向け、小声でエルは言った。

「まーこらマスターには内緒だが、『父親に対する尊敬』的な部分が逆転して今じゃ『馬鹿な子程可愛い』的な親気分になったんじゃねーかと」

 それを聞いたフユはまた無言で、表情も変わらなくて、正直エルはハズしたかとも思う。ただ別にウケを狙った冗談という訳でもないから言い換えるのにも悩んで、悩んで……悩んでいれば、突然フユが口に手を当ててらしくないクスクス笑いを始めた。

「いや成程、そうっスか。いやなんか分かるんスけど……そういやボスの言動が大分変わりましたからねぇ……」

 同意を貰ってほっとしたのもあるのか、エルはつい大声で返す。

「だろー、なんかあいつが帰ってきてからのマスターは浮かれてる所為もあんのかもしんねーけどやたらとガキっぽくなったっていうかさ……」
「ガキっぽい……はボスに言うっスよ」

 今度はぴたりとエルが無言になる。二人して黙って睨みあって、けれどフユはその真顔をまたいつもの笑みに変える。

「まぁ多分言っても怒らないと思うスけどね。後がちょっと怖い……可能性はあるかもしれないスけど」

 それで彼は手を振って背を向けるから、エルも顔をひきつらせつつ手を振り返す。別に嫌ってもいないし苦手という訳でもないが、エルでさえも彼の顔や考えは読みづらくて、正直話していると疲れるというのはある。

「まーでも……」

 そこでエルはふと気が付く。そういえばいつも作ったような笑顔でいるフユだが、彼が本気で楽しそうに笑っているのを見たのは初めてかもしれないと。

「もしかしたらあいつもちっと浮かれてンのかもしれねぇな」

 良くも悪くも、ここの人間の命運はすべてセイネリア・クロッセスに掛かっている。その彼があれだけ浮かれていてこちらも気分が悪い筈がない。少なくともこれでここの平和が約束されたものという訳だし、めでたい事に間違いない。

――勿論、俺も今はとンでもなく浮かれてる訳だがよ。

 エルは空を見上げる。もう大分高くまで登った月は、ここでシーグルの相手を始めた時間に比べて小さく見えた。

――レイリース、あいつがお前の代わりにお前の夢を叶えてくれたぞ。お前の名前に月の勇者と騎士の称号が付いちまった……喜んでくれるだろ?

 エルは端に置いておいた酒瓶のところにいくと、座って瓶を開け、騎士になるのが夢だった本当の弟を思い出して瓶から直接酒を飲んだ。実は最初からこっそり月見酒を洒落込むつもりで屋上にやってきたのだが、そこでシーグルが剣を振っていたのでつい相手をしようかと声を掛けてしまったのだ。

「なぁ、レイリース。お前が死んだ後で、こんなに美味い酒が飲める日がくるとは思わなかったぜ。……すまねぇな、お前の仇を取った時より俺は今、嬉しいんだ」

 胡坐をかいて月を見上げ、エルは笑顔で呟いた。



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 エルはまた株を上げた……かな?
 



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