過去となったモノ




  【3】



 自分の体の時間は止まっても、世間の時間は進んでいる。今はまだ、傍にいる人々もやがては皆、いなくなってしまうのだ。それは十分理解していた筈だったが、なんだが急に実感してしまってシーグルは胸を手で押さえた。

「シーグル、どうした?」

 だがそこでセイネリアからそう呼びかけられた事で、反射的に振り向いてしまってからシーグルの顔からさぁっと血の気が引いた。その直後、セイネリアを睨みつけた。

「おいっ、お前っ」

 ここで名前を呼んでいい筈がない。
 セイネリアがそれを忘れて普段通りに呼んでしまった、なんて事は信じられなかったが、それでも彼にどうするんだと目で訴える。けれど彼は平然としていて、そこからさらに予想外の事態となる。

「あら、貴方の名前も前領主様から頂いたのね」

 ころころと楽しそうに笑う女性の方をそうっと向いて、それでやっとシーグルも状況を理解した。そうだ、確か前にも、今のリシェではシーグルの名前を子供に付ける親が多いと聞いた。流石に王から賜った『アルスオード』の方は恐れ多いから、幼名である『シーグル』をつけるのだと。
 ふとセイネリアを見てみれば彼は口端をゆるく上げていて、全部分かっていてわざと『シーグル』と呼んだのだと理解する。

「ならこの店に来ていたのも、もしかしたらアノ席に座るためかしら?」

 だが、そこで手をぽんと叩いて彼女が言った言葉の意味をシーグルはすぐに分からなかった。

「あの席、というと?」

 だからそう聞き返したのはセイネリアだ。

「このお店はね、前領主様がまだ領主になる前の冒険者時代、シーグル様だったころにね、こっそりたまにいらしていたって事でちょっと有名なのよ。母はあの方がいらっしゃると他の客と顔を合わせなくて済むように毎回テラス席に案内していて、だからその席はシーグル様の席として今でも残してあるの。それでね、よくシーグル様から名前を頂いた同じ名前の方がその席に座りに来るのよ。貴方もそれで母にあの席に案内して貰っていたんじゃない?」

 自分の知らない間にそんな事になっていたとは……勿論シーグルは知らなかった。店には自分の正体がバレているとは思っていたが、それが有名になっているなんて思う訳がない。
 シーグルが驚いたまま黙っていると、今度は店の女性が心配そうに聞き返してきた。

「もしかして違った? 年齢的にもてっきりシーグル様から名前を取った方だと思ったし……でも服装からして遠くからいらしたのかしら? リシェの方ではないの?」

 かつてシーグルは、兄と和解した直後首都からリシェに帰る馬車で『シーグル』と名前を呼ばれて、リシェ住の老女から『次期領主様から頂いた名か?』と聞かれた事があった。その時は年齢的に違うとすぐ老女は納得してくれたが、今は確かに……アルスオード・シルバスピナである『シーグル』の名が皆の口に出る頃生まれた年齢に今の自分は見えるのだろう。
 だからシーグルは顔がハッキリ見えないようにはしながら口元に笑みを作って、店の女性に返した。

「いえ、父がリシェの人間だったので、名前は前領主様から頂いたそうです。そして貴女のお母上には以前リシェにいた時に、名を聞いてその席に通してもらっていました」

 彼女が思っていた通りの返事が返ってきたのもあって、その顔が安堵の笑みを浮かべる。

「暫く遠くへ行っていたのですが、久しぶりにこの町に立ち寄ってなつかしさに歩いていたらこの店があったので、思わず嬉しくなって入ってしまったんです。まだあの席があるのでしたら通してもらえますか?」

 丁寧にお辞儀をして言えば、彼女は喜んでシーグルをその席へと案内してくれた。






 店の2階、窓の外にあるテラス席は1つのテーブルと2つの椅子があるだけの席だった。前の時は椅子は1つしかなかったから、あとで1つ追加したのだろう。しかもここへ案内してくれた時に聞いた話だと、どうやらもとはここに席はなく、ただテラスに出て外を眺められるだけだったらしい。ところがシーグルが入って来たのをみた老夫婦は、急いで旦那がテーブルと椅子を外に置き、その間奥方がのんびり案内をして時間を稼いだのだという。

『シーグル様が気にせずゆっくり過ごせるようにと、あとはここの眺めを見てもらいたかったって言ってたわ。その後時々来て下さるようになったから、気に入ってもらえたんだって大喜びだったそうよ。だから……あの方が亡くなられた時は本当に両親とも落ち込んで、でもそのご子息が王様になられてからはまた元気になって、この席を宣伝したらお店はいつもたくさんの人が来るようになったのよ』

 実を言うとその時はあまりにもその席に座りたがる人がいたから、却って誰もその席に座らせず見せるだけだったらしい。ただくる人間の数が落ち着いてきてから、『シーグル』という名の人物だけにはその席に案内するようになったとの事だ。

「この店を開いた老夫婦は、なかなかリシェの住人らしく商魂たくましい人間だったようだな」

 現在の店主だという女性がいなくなってから、セイネリアが楽しそうにそう言ってきた。

「別にいいさ。俺はここで実際いい時間を過ごさせてもらったんだ。その礼代わりとして俺の名で儲けてくれたのならそれでいい」

 実際自分の名前を使って宣伝していたとしても、シーグルとしては腹は立たなかった。それくらい、一人で人目を気にせず街を眺められるここでの時間がシーグルは大好きだったのだから。街中では隠れるようにしていなくてはならなかったシーグルにとって、ほっと一息ついてゆっくり出来る場所だった。
 おそらくは、店主夫婦以外にもシーグルに気づいた人間はいただろうが、それも老夫婦が止めていてくれたのかもしれない。

「……しかし、いきなり『シーグル』と呼ばれた時は驚いたぞ。確かに今では珍しい名前ではないと思い出したが……まさかお前がうっかりそんなミスをするとは思えないし、最初は訳が分からなくて焦った」
「当たり前だ。というか今日はあくまでおしのびだからな、『レイリース』と呼ぶ訳にはいかないだろ。なら、わざわざ面倒な偽名をまた考えるより、自然な名前で呼んだ方が間違いがない」
「それはそうだが……」
「もっと経てば、その内顔も隠さなくてよくなるぞ」

 それには一瞬、シーグルは言葉を返せず止まった。
 確かに……今は一応、まだシーグルの顔を知っている人間がいるかもしれないから顔は隠しているが、そのうちそれも必要はなくなるのだろう。肖像画は一般人が見れはしないし、銅像からは顔までハッキリ分からない。実際に見た人間がいなくなれば、確かに顔を隠す必要はなくなる。

「ま、お前の場合、それでも面倒ごとに巻き込まれないように普段から顔は隠した方がいいがな。なにせお前の顔は目立ちすぎるんだ、しーちゃん」

 にやり、と笑みを浮かべてそう言われればシーグルも顔が引きつる。まぁ確かに、普通にシルバスピナを名乗っていた頃も、顔を出して歩いているといろいろ面倒ごとが多かったためずっと兜を被っていた訳だが。

「ただし、無暗に顔を晒さないようにするだけで、要所要所でこっそり見せればいろいろ便利に使えもする。まず女ならお前の顔で頼み事をされたら大抵はどうにかしてくれるだろうからな」

 シーグルの顔は更に引きつった。

「そういうのは……相手をだましているようで……」
「気にするな、向こうにとってはお前の笑顔付きのお礼一つで十分釣りがくる。女というのはな、嘘か誠かより、その女にとって幸せだと感じられかどうかの方が重要だ。だましていても最後まで信じさせて女が幸福感を感じられるなら文句はない。それこそ、真実を告げて幻滅させるより、嘘を通して本人を最後まで満足させたままにしておく方がいいんだ」
「そう……なのか」

 シーグルとしては納得がいかないが、男女の話でセイネリアに反論しようという気はまったく起きない。

「お前の場合、真実を告げて幻滅はされないがオオゴトになるからな。真実を言えない事情は悪意からじゃなく、仕方ない事だろ。いわゆる嘘も方便の内だ」
「それは……そう、だが。相手のためを思っての嘘はともかく、自分が便宜を図ってもらうための嘘は好きじゃない」
「相手のためだろ。お前に頼まれごとをされて、お前の役に立てたというだけで女は幸せになれる」
「……なんだそれは」
「そういうモノだ、よく覚えておけ、色男」

 からかわれているのだとは思うが、どういう意味のからかわれ方なのか。というか、ここでどう返せばいいのかシーグルには分からない。

「まぁ、悪い意味にばかり考えるな。女にとってお前の役に立って礼を言われるのは幸せで、お前も得をする。互いに益があるのだから問題ない、という話だ」

 自分が何も返せない段階で、互いに益がある、というのはよく分からないのだが――ただセイネリアはこれだけ勝手で強引な性格だが、誠実な相手に対しては決して一方的に利用して自分だけ益を得ようとはしない……というのをシーグルは知っている。だから彼が『互いに益がある』というのならそうなのだとは思うのだが……どうにも微妙に気にはなる。
 と、考え込むシーグルだったが、そこで人の気配を感じてそちらを見た。

「あの、良ければ試作品の焼き菓子があるのでどうぞ。よければお茶のおかわりも」

 店主の女性がにこにことやたら笑顔でティーワゴンを引いてきた。
 ちらとシーグルがセイネリアを見ると、彼は口元に笑みを引いてからこちらに目で合図してから彼女の方へ視線を向ける。その意図を察したシーグルは、出来るだけ嬉しそうな声になるようにして礼を言った。

「ありがとうございます」
「いえいえー、今は人がいませんので、どうぞゆっくりしていって下さいね♪」

 そうして彼女は、浮かれるくらいの足取りで去って行った。

「あれは……どういう事だ?」

 思わずセイネリアにそう聞いてしまえば、彼は澄まして茶を飲んで言った。

「あれだけ近くで話していたんだ、フードをおろしていてもお前の顔が見えたんだろ。……つまり、さっき言った通りの事だ。向こうの好意だから遠慮なく受けておけ」
「顔を見られて大丈夫だったろうか」
「大丈夫だろ、あの女は本物のお前の顔を見た事がないようだし。本人だと思ってたなら、緊張でギチギチの顔をしてるぞ」
「……確かに」

 この恰好をした時点で、最初から多少顔を見られてもいいかとは思っていた。フードを完全に取らないとどうせハッキリは見えないし、それにそもそも素顔を晒していた時から10年以上過ぎていれば、見られても身内以外で絶対本人だと自信をもって言える人間などまずいない。もし本人だと言い張っても、貴族院の議会に掛けられた時のように年齢的におかしいで済む話だという事で今回の恰好となったのだ。
 そこでセイネリアが明らかに呆れた顔でこちらを見て来た。

「で、どうだ? あの女は嬉しそうだったろ?」
「あ……あぁ」

 確かにやたら嬉しそうには見えた。

「だから、そういう事だ。礼一つで向こうを幸せに出来るのも、お前のもって生まれた才能の一つだとでも思っておけ」

 まだ納得できるというところまで来ていないが、それでも事実は事実として、シーグルはそれ以上の反論をやめたのだった。




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 一応今回の番外編のメインネタはここの話。
 



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