【5】 首都から離れたアッシセグでは、夜になれば多少は街灯があるもののその数は少なく、首都よりも明らかに暗くなる。とはいえ街の外れの岬にある灯台の明かりは街と海を照らし、暗闇の中で家々のシルエットを浮かび上がらせていた。 漁師が多いアッシセグの民は早起きで、その分この街の夜はいつも静かで波音に支配される。漁に出れない時や祭では夜通し飲む事がある彼らも、普段の夜は早く寝るから首都やリシェと違って街は静寂の世界になる。 そんな中、人影が一人、また一人と誰もいない筈の道に現れる。それは決して大人数などではなかったが、誰もない寝静まった街中にぽつり、ぽつりと、動く影を見つければその異様さに驚くだろう。 彼らが目指すのは、最近街にやってきた医者の家。 大して大きくもないその建物の中に、少し多すぎるのではないかと思う人数が次々に入っていく。とはいえ、その医者の家からは騒がしい音などは聞こえてこない。 更に近づいてよく見れば、人々は入口前にいる人間に自分の腕や足、肩や腹を見せてからその家の中へと入っていくようだった。 彼らが見せていた箇所、そこに門番らしき者が手を触れれば、もれなく皆、同じ模様が浮かび上がっていた。 頭の中で声がする。 『何か、おかしい。気を付けた方がいい』 それが魔剣の魔法使いだと分かったから、ふと思い出してシーグルは聞いてみた。 ――貴方は、ノーディラン? それはウィアが言っていた魔剣の魔法使いの名の筈だった。 途端、微かだった声が急にはっきりと聞こえてくる。 『あぁ、そうだ。いいかい、この屋敷の中にどこかの魔法使いと繋がっている者がいる。だから、気をつけるんだ』 それはどういう事――その疑問を投げかけると同時にシーグルは目が覚めた。暫くはベッドの中でぼうっとして、それから起き上がってベッドに座ってから目覚める直前の事を考えた。 「今は満月でも、満月に近い訳でもない……のにな」 セイネリアからも離れている、だから彼と話せる筈はない。ならもしかしてただの夢だったのだろうかとも思ったが、内容が内容だけに夢だと無視する気にもなれなくて、なんだかもやもやした気分を抱えながらシーグルはベッドから降りた。 ――まぁ、この部屋にいる限りは安全だと思うが。 昨夜、この部屋の隣の部屋で行われた宴会は、唐突に深夜、女性陣の乱入があってお開きとなった。 『もーいつまで飲んでる気? どーせこの部屋の主は飲んでないんだから、これ以上飲みたいなら自分達の部屋帰って飲みなさいよ。貴方もっ、酔っ払い共なんかキリないんだからさっさと追い出して寝る事っ、美容に良くないわよっ』 アリエラの勢いに押されてへたに何も言えなかったシーグルだったが、彼女(達)はその時最後まで残っていたエルとネデを部屋から追い出し、それからシーグルに割り当てられたこの部屋に結界を張ってくれていったのだ。彼女曰く、結界の鍵は部屋の扉のノックで、ノックをされてシーグルが『入っていい』と言わない限りはこの部屋には誰も入れないらしい。結界であるから窓からも当然入れないという事で、風は通すが少なくとも生物は入ってこれないという事だ。 ネデがシーグルに割り当ててくれた部屋は窓からの眺めもよく、風もよく入り、彼の言う通り夏の過ごしやすさでは最高の部屋だった。基本的にシーグルは部屋からは出ないという事になっている所為か広さも申し分なく、一番いい部屋を自分に割り当ててくれたのだろうとシーグルは思った。 『ま、いいんじゃね、たまにはゆっくりのんびり過ごしてもさ。部屋に篭るにしてもこの街の解放的な空気吸ってりゃ少しは気分もほぐれるってもんだろ』 部屋に案内された時、エルはそう言った後で『どうしても体動かしたい時は言えば相手してやるからさ』とも言っていた。詳しく聞けば中庭に結界をひいて手合せくらいは出来るという事で、ただしそれは夕方以降だとすかさずアリエラにつっこみを入れられた。どうやら女性陣は今日はこの街の散策にいくらしく、その後にしてくれという事だ。 『あの、でも何かありましたらすぐきますのでっ。街中でしたらこの屋敷まではすぐ来る事が出来ますからっ』 ソフィアが心配そうにそう言っていたのも思い出してしまえば、シーグルも思い出し笑いをせずにいられない。若い彼女が自分を助けようと使命感に緊張している姿を見ているのはいつも申し訳なくて、女友達と遊びにいくのならそれはぜひ楽しんできて欲しいと思う。 「あぁ、本当にいい風だ……」 窓を開ければ白い景色と青い海が爽やかな風と共に目に飛び込んできて、シーグルは思わず大きく空気を吸った。 結界の中にいる自分の姿は外からは見えないから、素顔で堂々と外を眺める事が出来る。この部屋には許可なく誰も入ってこれないし、ネデも屋敷の使用人を一切入らせないと言っていたから、シーグルは兜は勿論鎧もここでは身に付ける必要がなく、そもそも持って来ていなかった。 「そういえば、素顔のまま、鎧さえ着ていない状態で昼間の風に思い切り当たるというのは随分久しぶりだ」 身体一杯に風を感じてその心地よさに目を閉じれば、確かに心さえ解放的になって軽く感じる。シーグルの部屋は西館の個人の部屋の中では大きい方だが、それでもこの部屋はその3倍以上の広さはあるだろう。更にはそもそも部屋のつくりからして解放的で、大きい窓や高い天井、部屋と部屋の仕切りが広く空いていたりと余計に広く感じられる。そこで風に吹かれて体を伸ばしていれば困った事にいくらでも寝れそうだった。 だが、そこで。 ふとシーグルは何かの気配を感じて目を開けると辺りに意識を向けた。気付いたと悟られないようにへたにあちこちを見る事もなく、ただ気配を探る。……魔法使い程ではないが、最近ではシーグルも魔力を見るまでいかなくても感じる事は出来るようになってきていた。相手が魔法を使うものであるなら特に、その気配の場所くらいは分かるハズだった。 けれども、どれだけ集中して感覚を探ってみても、先程感じた何か嫌な気配――いや視線か――をシーグルは感じ取れなかった。 「気の所為、か……」 呟いたのはわざとだ。それで向うが油断して尻尾を出さないかと思ってみたのだが、やっぱり何も感じられない事は変わらなかった。本当に気の所為だったらいいのだがと思っても、魔剣の魔法使いの声の件もある分無視も出来ない。 ――おそらく、怪しい者がいたとして見られているだけだとは思うが。 結界に問題がない事を考えれば、手は出せない筈だとは思う。 ただ、のんびりした気分が吹き飛んでしまった。これだけ解放的な気分になれたのは久しぶりだったからそこは少し残念ではあった。 シーグルは立ち上がって朝の支度を始める。その前にまず、何かあった時の準備を確認してからだが。剣はすぐ取れるように壁に掛けてあるから問題ない、最悪魔剣を呼ぶという手もある。ソフィアを呼ぶ為の呼び石もすぐ使えるようにテーブルの上に置いて、念のためにエルとキールの石も用意しておく。 「レイリース様、入ってもいいでしょうか?」 そこで聞こえた声がラダーの声だったことから、シーグルは一瞬だけ聞こえてきたドアを見つめてそれからすぐ答えた。 「あぁ、入って来ていい」 それで鍵は開く筈……とじっと見つめていれば扉は開いて、ラダー本人が立っているのに少し安堵してから、シーグルは気まずそうに窓の外に顔を向けた。 「朝食を持ってきました。どうです? これなら多少は食べられるものがあるんじゃないですか?」 テーブルの前に置かれたものを見て、シーグルは少し呆れる。 「なんだこの量は……」 「全部食べて下さい、という訳じゃないですよ。ここの領主さま曰く『これだけあれば食えるモンもあるだろ』って事で、食べられそうなものだけとって食べろという事かと。勿論全部食べられるなら食べてくれていいそうですが」 最後の言葉には思わずじとりと彼を睨んで、無理に決まっている、と視線で抗議してしまう。 「ネデは俺があまり食えない事を知っている筈だが」 「はい、知ってたようですよ。でもせっかくならアッシセグならではのものを食べて欲しいという事で、試してみてくれないかと言ってました」 「成程」 よく見ればラダーが持って来たトレイの上は半分程が果物で占められていて、首都だとあまり見ない色とりどりの南国の果物達がごろごろと詰み上がっていた。そのほかには飲み物とスープか、と思ったシーグルはその中身を見て首を傾げた。 「これはなんだ?」 赤っぽいものが煮込まれてどろどろになっている……ような気がする。 「あぁ、それは冷粥というそうです。このへんだとよく食べられていて、特に飲んだ次の日の定番とか。えーと、確か少量の野菜と、豆、赤米をミルクで煮ている、とか言ってました。冷たくてほんのり甘くて美味かったですよ」 見た目はかなり違うがようは昔母が良く作ってくれたミルク煮込みに似ているモノではないだろうか。そう思えば思わず手が伸びて、手に持ってしまってからシーグルはしまったと思った。 「少し、量が多いな……」 「なら残せば良いじゃないですか」 「残したら残りは捨てなくてはならなくなるだろ」 するとラン程ではないが体が大きな男は嬉しそうに笑う。 「本当に貴方は考え方が貴族らしくないんですね。俺は孤児だったんでいつでも食べられるだけで幸せだったから……だから食べ物を捨てたくないという貴方の言葉はなんか嬉しいです。貴族様でもマトモな人もいるのだなと……ならそうですね、もし構わなければ貴方が残したら俺が食べるという事でどうでしょう?」 「良いのか?」 「はい、俺は全然構わないんですが……マスターがここにいたら怒るかも、ですね」 それでセイネリアを思い出したシーグルは、確かにな、と呟きながら少し笑って……それから黙った。 ――俺は、あいつを置いてこんなところにいていいのだろうか。 開放的で明るいアッシセグ。確かに気持ちが少し楽になりはしたが、彼の事を思い出せば自分は何をしているんだという思いに支配される。どうやっても救いがない、救いようのない彼の事を考えれば、いつまで自分は彼から逃げているのだろうと考えてしまう。 そう、多分自分は逃げているのだ、とシーグルは思う。 彼を救う術がないから彼を助けたいという自分の思考から逃げている。彼を見ると自分の無力さを思い知るだけだから彼から逃げている。 「……貴方は、俺がセイネリアのために出来る事は、傍にいる事だけだと思うか?」 聞いてしまってから何をいっているんだと思ったシーグルは、思わず口を押えてラダーに、すまない、と謝ってしまった。大きな体であっても柔和な顔つきの男はそれににこりと柔らかく笑った。 「まさか。マスターのすることに意見してあの人を諌められるのは貴方だけじゃないですか。あの人をあの人自身の意志以外で動かす事も、止める事も、貴方しか出来ないじゃないですか。俺は思うんですけどね、いくら完璧な人間だって間違いはする、ミスもある。マスターはあまりにも何でも出来過ぎるから俺達の意見なんて参考程度ですけど、貴方のいう事だったら立ち止まって聞いてくれるじゃないですか」 それは、自分が彼にとっての特別だから……唯一の存在だから――考えればその重さに息が止まりそうに苦しくなってシーグルは目を閉じた。 --------------------------------------------- ラダーさん、実は地味に本編にも出てる、傭兵団におけるシーグル運び役。 |