【12】 セイネリアを愛している。それは確かだと思うものの、彼がいないとほっとするのも確かだった。それは何故かと考えれば――恐らく、彼といる事に自分はある種の重圧を感じているのだろう、とシーグルは思う。 セイネリアは今、中央天幕での会議中だった。本来ならシーグルは付いていく立場なのだが、今はまだ怪我の治療中という事で今回はカリンがついていっている。 ふぅ、と天幕の天井を見つめて息をついたシーグルは、それから思い立って起き上がる。もう普通に歩けるのだが、キリシ神官が暫く安静にと言った所為で、セイネリアから出発までこの天幕から出ないで静かに寝ていろと命令されてしまっていた。剣を振る事さえ出来なくて相当にストレスが溜まっているのだが、こればかりは命令なのだからしかたない。せめて体が鈍り過ぎないように、座ったままでも可能な運動でもと考えて……ふと、気づいた視線に、シーグルは表情をやわらげた。 「そこにいるんだろ? 出てきてくれないか」 壁代わりの布一枚向うで、相手が動揺したのが分かる。というかこちらの方が暗い為、シルエットではっきりと向うの姿は見えてしまっていた。 「隠れないでくれ、君とは一度、ちゃんと話をしたいと思っていたんだ」 動揺してうろうろしている小柄な影に、シーグルはくすりと笑みを漏らした。それから少し待てば、見知った少女――と呼ぶのはもう失礼だろう、若い女性が姿を現した。 「ずっと見張りをしていたのだろうか。セイネリアの命令で?」 「あぁはいっ、そのっすみませんっ……そうです」 最初に会った時からは見違えるくらい大きくなった彼女――ソフィアは酷く緊張しているようで、シーグルは出来るだけ優しい顔で話しかける。 「謝る事はない、命令なら君の所為じゃないだろ」 「あのそのっ……でも、私の仕事は……シーグル様も……」 申し訳なさそうに下を向いた彼女のその理由も大体は察しがついている為、シーグルは笑って出来るだけ軽い口調になるように言ってやる。 「見張りというのが外に対してと俺に対しての両方だというのも承知してるさ。どうせあいつの事だ、この周辺の見張りと俺がヘタな事をしないかのどっちも見張っておけと言ったんだろ?」 「はい……そうです」 とても申し訳なさそうに、それでも正直にそう言った彼女に、シーグルは苦笑するしかなかった。なにせ彼女がクーア神官で千里眼が使えるという段階で、セイネリアの性格的にそう命令するだろうというのが分り過ぎる。というか、彼女の見張りは今回だけでないというのもシーグルは分かっていた。 「だから君がそんなすまなそうにする事はないんだ。……君はクーア神官だ、多分、今だけでなく、戦場でもずっと見ていたんだろ?」 「はい……すみませんっ」 「いや、だから謝らないでくれ。君の力を使って、俺に何かないかずっと見ていろとセイネリアに言われてたんじゃないのか?」 「はい、そうですが……」 「なら謝る事は何もない。それにそもそもそんな畏まらないでくれないか。今の俺は君たちと同じこの団の仲間で、貴族の地位もなければ騎士の称号さえないんだ。様も必要はない」 何故かやけに緊張している彼女にそう言えば、ソフィアはぶんぶんと激しく顔を左右に振る。 「いえっ、シーグル様はシーグル様です。私は貴方に命を助けて頂きましたっ」 あぁそうか、彼女はまだそれをずっと気にしているのかと、シーグルは理解して苦笑する。 「そのくらいの事なら、君はもうとっくに俺に恩は返してくれているじゃないか。……俺はノウムネズの戦いで、アウグの指揮官に発見されて彼に助けて貰ったんだ。でも彼が俺を見つけたのは林だと言っていて、俺はまったく覚えがなくて不思議に思っていた。だがそれは帰って来て部下に聞いて分かったんだ、君が戦場から俺を飛ばしてくれたんだろ?」 そうすればソフィアは大きな目を更に大きく見開いて、そこからぽろぽろと涙をこぼしだした。 「いや、これは君を責めてるんじゃなくて……」 シーグルとしては完全に予想外の反応をされて、困るどころか焦るしかない。 「すみません、私が悪いんです。あの時、私が余計な事をしなければ、シーグル様がアウグに連れて行かれる事なんてなかったのに。それに今回も……見ていたのに、私は何も出来なくてっ」 「いや違うんだ、どうして君はそこで謝るんだ、俺は君にその時の礼を言いたかっただけなんだが……それに今回は見ていても間に合う訳がない、君の落ち度ではないだろう。ともかく、俺は君に礼を言いたかったんだっ」 そう言えばやっと彼女の瞳からは涙が止まって、彼女は何故というように首を傾げた。シーグルはその場で彼女に頭を下げた。 「ありがとう、ノウムネズの戦いでは、君がいたから俺は助かったし、部下達もあそこで誰も死ななくて済んだ」 「いいえっ、あの後すぐ助けがきて、だから皆さん助かったんです。私の所為じゃありません。私がいなければ、シーグル様も皆さんと一緒に国に帰る事が出来たんですっ、それにっ……」 尚もすごい勢いで否定しようとする彼女の言葉を、シーグルは強い声で遮った。 「いや、違う。君がいなければ助けが来るまで持たなかったと部下達は言っていた。もし俺は助かったとしても、少なくとも確実に数人の部下を失う事になったろう。そうしたら俺はきっと俺が許せなかった。だからありがとう、ずっとそれが言いたかった」 一度泣き止んでいた彼女の瞳から、またぽろぽろと涙が零れだす。シーグルはそれにまた焦って、困って、彼女の涙をぬぐえるものがないかと考えたが、今の状況ではハンカチなど持っていないし、いやそもそもここで立ち上がってまで彼女の傍に行ったらまた彼女が謝り出すのではないかとぐるぐる考えて……考えて、結局、その場で動けないまま正直に言葉で尋ねる事しか出来なかった。 「その……本当に困っているんだ、君には礼を言いたいんであって泣かせたい訳ではなく……すまない、どう、すればいいだろうか?」 そうすれば彼女は涙を流してはいるもののどうにか笑みに見える表情を浮かべてくれて、今度はゆっくりと首を振った。 「私、悲しくて泣いているのではありません、嬉しいんです。ですからシーグル様は困らないで下さい」 「そう、なのか?」 「はい」 それでやっと安堵したシーグルが息をつけば、彼女は胸の前で手を組んで何かを呟いた。それはシーグルにはよく聞き取れなかったもののどうやらクーアの祈りの言葉のようで、それが終わると彼女は顔を上げてシーグルに向けて言葉を続けた。 「貴方に、クーアの導きを。良き道がひらけますように」 そういえばその言葉はクーア神殿の転送を使った時に聞いた事があると思い出して、シーグルは彼女に礼を言う。 「ありがとう。君にも良き道がひらけるように。そして、リパの愛が君にも届くように」 クリュースの三十月神教では、他神殿の祈りを受け取ったらそれに自分の神の祈りを添えて返すのが礼儀である。だが、ふと今自分で言ったその言葉を考えて、シーグルは思わずぽつりとつぶやいた。 「良き道といっても……今の俺はあいつの後を追うだけしか出来ないがな」 今のシーグルは、シルバスピナ家当主として、自分で自分と関わる人々の未来を選ぶ立場ではない。今のシーグルはセイネリア・クロッセスの部下であり、彼の切り開く道についていくしかない。 「でも、マスターがひらく道はきっとシーグル様にとって良きものの筈です」 「そうだな……」 確かに、彼が今ひらこうとしている道は自分の為……自分を救う為のものだ。それを理解して、彼を信頼しているからこそ、彼に従っていられるのだ。 「そして、マスターを導けるのはシーグル様だけです」 そこで、自分が恐れて言葉に出来なかった事を言われて、シーグルは笑みのまま口元だけを皮肉げに歪めた。ソフィアが見ているのに構わず、圧し掛かってきた現実に思わず顔を手で覆って下を向く。 「……それを言われると……正直、きついな」 「シーグル様?」 心配そうなソフィアの声に、こんな姿を見せてはいけないと思うものの、それでもここで虚勢を張るだけの気持ちにもシーグルはなれなかった。特に、アッシセグを出発してからここに至るまで……セイネリアがどれだけの力を持っていて、そして自分の為ならどこまでするのかを現実として見てしまった今、自分という存在の意味と行動が引き起こし得る事態の重さに気が重くなる。 「あいつの持つ力は人の手には余り過ぎるものだ。あいつが今まで抑えていたそれを……俺の為なら迷いなく使うだろうそれが、俺は怖い」 この戦いでたくさんの人間が死んだ。それでもまだ、結果的にはこの国を良き方向に向かわせる事が出来る筈だと考えれば前を向いて立っている事が出来た。けれど、これだけの大それた計画を、自分の為にあっさり投げ捨てる事も厭わないセイネリアの行動を見て、シーグルは改めて怖くなってしまったのだ。 もし自分に何かあった場合、セイネリアはどうするのだろうと。 もし本当に自分が死んだ場合、何が起こるのだろうと。 「シーグル様?」 考えれば考える程、みっともなく震える手を見て、シーグルは自嘲の笑みを浮かべるのが精いっぱいだった。顔を上げて彼女を見る事さえ出来なくて、シーグルは唇を噛みしめる。 「シーグル様っ」 今度は大きな声で呼ばれて、反射的にシーグルは顔を上げた。 こちらを必死な顔で見つめてくるソフィアと目があって、それに驚けば、彼女はにこりとそこで満面の笑みを浮かべる。 「大丈夫です、シーグル様ならそれでも投げ出さないでマスターと向き合えます。それに、もし何かに迷ったり辛い事があったら、エルさんもカリンさんも……私にも何でも吐き出して下さい。私たちはマスターに直接何も出来ない分、シーグル様を支える為に何でもしますからっ」 必死に訴えてくる彼女の顔を見て、シーグルは苦笑して大きく息を吐く。 ――昔は、何でも一人でどうにかしなくてはならないと思っていたのに、気付けば俺はいつでも多くの人に助けられて立っている。 確かに、今の自分は一人ではないとその言葉を噛みしめて、同じ事を言ってくれたエルの事も思い出して、シーグルは一度目を閉じた。それから、今度はちゃんとした笑みを浮かべて彼女に言った。 「ありがとう、何かあれば頼らせて貰う」 「はいっ」 ぐっと握りしめた手からは、もう震えが消えていた。 現在、エフランの東に広がる反現王軍のキャンプの中で、傭兵団の関係者以外の重要人物の天幕は主に中央付近に集まっていた。その中の一つ、入口に黒い僧衣の人物がいる天幕にセイネリアが入れば、中にいた人物が口元だけでにこりと笑い掛けてくる。 「……全ては貴方の計画通り、ですね」 「そうでもない、想定外もあったさ」 言いながら座ったセイネリアは、一見不気味にも見える黒と灰色の僧衣にフードで顔を隠した人物を見つめる。アルワナの大神官であるその人物はヴネービクデのアルワナ神殿の司祭長で、偶然、首都のアルワナ神殿の司祭長と双子だったことで今回の計画が立てられた。 「それはシーグル・シルバスピナ……いえ、今はレイリース・リッパーでしたか。貴方の大切な人に関する事ですか?」 「ふん、やはり分かるか」 「私は特に死者との対話が得意ですから。彼の傍にはシルバスピナに繋がる者や、様々な人物の魂が集っています、それらに聞けばすぐに彼の正体なんてわかりますよ」 それにはまた、ふん、と鼻を鳴らすと、セイネリアは胡坐を崩して片膝を上げ、座り直した。 「でも逆に貴方の周りには何もいません、死者さえも恐れて貴方には近づこうとはしません。だから私には貴方の事は何も分らない、ただ、大きすぎる力があるのが分るだけです」 立てた片膝に腕を置いて、セイネリアは皮肉げに口を歪める。 「死者も生者も関係ない、俺はあいつだけがいればいい。……お前も、そうなのだろう?」 聞けば、眠りの神の神官はにこりと笑って明るい声で返してきた。 「えぇ、そうです。生まれた時から互いしかいない、たった一人の存在が私にはいますから」 アルワナの神殿を守る司祭長は双子である――その秘密を既に知っているセイネリアにこの神官自らがヴネービクデで話があるとこの計画を持って来たのだ。 「だから貴方には感謝しています。おかげでやっと彼に会える」 神官の望みは首都にいる双子の弟に会う事。自分の神殿を出て、首都にいくだけの理由を手に入れる事。それを叶えてくれるならこちらに協力すると言ってきたのだ。 かつてこの神官と同じ立場だったろうレストとラストは、それぞれ別の神殿の司祭長になる為に引き離されようとした為神殿から逃げ出し、セイネリアと契約した。 『僕達は生まれた時から二人で一人なんだよ、だから離れるなんて出来る訳ない』 泣いて訴えた彼らの言葉は、その時のセイネリアには理解出来なかった。だが、離れたくない、というその気持ちだけは今ならば理解出来る。だからアルワナの大神官なんて胡散臭い者の話に乗ったのだ。 「でも……貴方にとっては彼だけでも彼にとってはそうではない、貴方の場合はそれが辛いですね」 言われたそれに皮肉げに口元を歪め、だが抑揚のない声でセイネリアは神官に返す。 「確かにな……だが、たくさんの人間を必要とし、必要とされる……だからこそ今のあいつがあるというならそれを否定は出来ない」 だがそこまで言えば、急に低く変わった神官の声が聞いてくる。 「否定は出来なくてもそれを厭う。自分だけのモノでいて欲しいと願う事は止められない……違いますか?」 声は不気味に低いのに口元にある笑みを見て、セイネリアもまた笑って答える。 「その通りだ、理性と感情の判断は相容れない。あいつが他人と関わる事が必要だと理性で理解していても、あいつが俺だけのものであればいいと感情は願う」 そうすればまた纏う空気を一変させて、今度は柔らかい声でアルワナの大神官である青年はにこりと屈託のなさそうな笑みを浮かべた。 「貴方の中のその相容れない感情を乗せた天秤が、これ以上大きく揺れない事を願っています」 それにセイネリアはわざと顔から表情を消して、努めて感情のない声で答えた。 「あぁ、俺もそう願っている」 END. >>>> 次のエピソードへ。 --------------------------------------------- そんな訳で長かったこの章も終わり、これで内乱編は終了です。 |