決断と決別の涙




  【10】



 確かに医者の魔法使いが言った通り、彼が去った後にすぐ部屋にはエルがやってきて、相当怒っていた彼はセイネリアに対する愚痴をいいながら念入りにアッテラの術によるシーグルの治療をしてくれた。
 シーグルとしてはそこまで怒らなくてもと少し勢いに押されてしまったところもあったが、彼の愚痴を聞くことでセイネリアがあの後どんな状況だったのかをある程度知る事が出来た。
 我に返ったセイネリアは、動かないシーグルを見て急いでソフィアを呼んだらしい。それでとりあえずロスクァールのもとに転送させて、その治療中にドクターを呼び、最後にエルが呼ばれたそうだ。
 エルが部屋に来た時は既にロスクァールの治療は終った後で、サーフェスが様子を見ているところだったという。セイネリアはベッドの脇にじっと突っ立っていて眠っているシーグルの顔をじっと見ていた。状況をざっと聞いたエルはセイネリアに近付いていって彼を責めたが、彼は何を言われてもシーグルの顔を見ているだけだった。

『むかついて胸倉掴んでも黙って掴まれててこっちの顔さえ見ねぇ、だからこっちから顔覗き込んだら真っ青でさ、あいつの方が死にそうな顔してたからそれ以上どうこう言う気はなくなったけどな』

 その後サーフェスが診ている時も、エルがシーグルに同調して痛みを探っている時も、セイネリアはずっと同じ場所で立ってシーグルの顔を見ているだけだったという。ただ治療が終って部屋に帰った後は、彼は双子のアルワナ神官を呼んでシーグルを朝まで寝かせるように指示し、『後は頼む』とソフィアに言って部屋を出ていってしまったらしい。

「あいつは何を望んでるんだ……」

 多分、何か大きな原因があって彼が崩れたというより、いろいろな積み重ねの結果なのだろうとシーグルは考える。少しづつ彼の中に溜まっていたモノが彼に生じた理性の切れ目に溢れて、感情の暴走が起こった、というところだろうか。

 正直なところ、彼を怖くないといえばウソになる。
 けれど、そこで自分が逃げたら全てが終わりだとシーグルは思う。

 彼が自分を愛してくれているなら、自分が彼を愛しているなら、自分こそが彼を救わなければならない。
 だから、ちゃんと彼の事情を知って、その上で彼を受け止めなくてはならない。彼を理解しなくてはならない。
 彼の苦しみも恐れも今のシーグルにはよく分らない。何故そこまで苦しむのか、何故そこまで恐れるのか、シーグルには実感として理解出来ない。それは恐らくまだセイネリアが全てを自分に打ち明けてくれていないからで、だから彼からちゃんと聞かなくてはならない。彼を知らなくてはならない。

 だがその日の夜、いくら待ってもシーグルの部屋にセイネリアは現れなかった。いつもならどれだけ夜遅く帰ってきても必ずシーグルのベッドにやってきた男は、その夜は一度も姿を見せはしなかった。







 夜が明けて間もない早朝、傭兵団時代からすればどこもかしこも広くなった将軍府の建物の中、甲冑の音を響かせて歩く人物の姿があった。
 この時間に起きているのは見張りの任についている者くらいで、彼らは朝の一番だれる時間帯でもあってあくびなどしていたのだが、その人物が背を伸ばしてカツカツと歩く姿を見て驚いて姿勢を正し礼を取った。

「これはレイリース様、何かあったのでしょうか?」

 この時間に全身に甲冑をきっちりと着こんでいるのもそうだが、彼の足取りが明らかに急いでいるように見えた為、見張りの兵はそう尋ねる。

「何かあったという程ではない、将軍閣下は昨日の内にお帰りになられているだろうか」
「はい、その……筈ですが?」

 怪訝そうな顔をしてそう答えた兵士に、シーグルは礼を告げるとすぐにセイネリアの執務室を目指した。







 シーグルが部屋に入ると、セイネリアは椅子に座ったまま足を机に上げて下を向いていた。その姿に思わずシーグルは声を荒くして言う。

「将軍閣下、まさか昨夜はお休みになられなかったのですか。そんなに急ぎの仕事がおありだったのでしたら、呼んでくださればお手伝い致しましたのに」

 わざと馬鹿丁寧にお辞儀までして言えば、ピクリとも動かないのに彼の声だけが返ってくる。

「単にベッドに入る気分じゃなかっただけだ、寝てない訳じゃない」

 それで彼が起きているのが確認出来たシーグルは、ため息をつくと口調を変えて改めて彼に尋ねた。

「一体何をしているんだお前は。昨日の内に帰っているなら、何故俺の部屋にこなかった」

 そこで初めてセイネリアは僅かに顔を上げた。
 わざと表情を消した無機質な顔が自分を見あげてきて、シーグルの顔が反射的に強張る。けれども目を逸らさず彼を見つめ返せば、やがて彼は机の上に上げていた足を下ろしながらシーグルの顔も見ずに言ってきた。

「もう、今後お前の部屋にはいく事はない」
「な……」

 驚いて声を出したまま、シーグルは口を開いて彼を更に見つめ直す。そうすればセイネリアは完全に顔を上げて、完璧に表情を消した表情のままで再び口を開いた。

「お前と寝る事もない。今後はあくまでお前は俺の側近としての仕事だけをすればいい」

 言葉の意味をようやく理解して、理解すると同時に無性に腹が立ってきて、シーグルは思わず怒鳴った。

「何を言っているんだお前はっ、お前が俺を望んだから俺はここにいるんじゃないか。俺を手に入れる為にお前はこんな馬鹿げたくらい大それた事をしたんだろ、それを唐突にどういうつもりだっ」
「唐突ではない、ちゃんと理由はある。俺にとって一番大切な事はお前が無事で俺の傍にいることだ。お前に害を与える者を排除し、お前を守るのが最優先だ」
「……つまり、お前がまた暴走して俺を害するかもしれないから、今度はお前自身を俺から排除するという事か?」
「そうだ」

 半分は皮肉で言った言葉をあっさり肯定されて、シーグルは呆れたのと怒りで暫く放心した。けれどすぐに怒りが全ての感情を越えて競りあがり、シーグルは彼の机に手をつくと彼をじっと睨みつけた。

「お前はそれでいいのか? あれだけ暇さえあれば俺に触れてきたがっていたのに、あんなに俺が欲しくて仕方ないという態度をとっていたのに……あんなに俺を抱いて満足そうにしていたくせに、それでいいのか?」

 セイネリアの表情はそれでも変わらない。顔に無表情を取り繕って、声も冷静なまま彼は答えた。

「最優先はお前の存在ソレ自身だ、俺の感情よりそれは優先すべき事だ」

――お前は馬鹿か?

 そう、再び怒鳴りそうになって、シーグルは開き掛けた口を一度ぎっと噛みしめた。それからやはり彼の顔を見つめて、感情的になりそうな声をどうにか抑えて言う。

「なぁセイネリア、お前は今酷く馬鹿馬鹿しい事を言っていると思わないか? お前はお前の感情を満足させる為に俺を手に入れたかったんじゃないのか? 俺を感じて、それに喜びを感じたかったんじゃないのか? ……それならお前の取る選択肢は違うだろっ、何があっても自分を抑えると言えばいいじゃないか」

 無表情を保っていた彼の顔が、そこで初めて崩れた。
 眉を寄せて、琥珀の瞳に怒りと不安を浮かべて、彼が怒鳴る。

「あぁ、抑える、抑えられるつもりだった。だがそれが出来なかったんだ、なら俺はお前に触れるべきではないだろっ」

 らしくなく激高した彼の声が吐き出される。
 それから怒りを纏ったままゆっくりと彼が立ちあがった事で、身長差的に今度はシーグルが彼を見上げる事になるのは当然だった。普段から彼と話している時はその状態なのだから、それは普通の事の筈だった。
 なのに、シーグルは反射的に自分の身体が竦むのが分ってしまった。無機質な琥珀の瞳に見下ろされた事で、昨夜の恐怖が心よりも身体に現れる、だめだと思ってもシーグルは自分の身体が震えるのを止められなかった。

「シーグル」

 それに恐らく気づいてしまったセイネリアは目を細めて悲しそうに苦笑すると、手を伸ばしてシーグルの頬に触れてこようとした。だがその瞬間、びくり、と膨れ上がる恐怖に耐えきれず身体が反応してしまった事で、彼の手はそのまま触れずに離れていく。
 悲しそうに自分を見ていたセイネリアの顔の中、自嘲を含んだ彼の唇の笑みは一度大きく歪む。けれどすぐにその顔から一切の表情を消すと、彼は目を閉じて椅子に座った。

「お前の身体は分かっている、俺が危険だとな」
「それはっ……まだ、直後だからだ、暫くすれば普通に……」
「無理をしなくていい、恐怖というのは自分自身からの警告だ、生存本能が生きる為に問題があるから回避しろと言っているのさ。だからお前は分かっている、次にまた同じ事が起きれば死ぬ可能性があると」
「だがっ、お前が……俺を殺す筈はない、お前ならその前に踏みとどまれる筈だっ」

 それはシーグルの正直な気持ちだった。セイネリアに今、恐怖を感じる。けれども彼はきっと何があっても自分を殺す前に踏みとどまれる筈だと、セイネリア・クロッセスは魔剣になど負けないと、それをシーグルは信じていた。

「シーグル……お前が俺を信じてくれても、俺が俺を信じられない」

 それはシーグルにとって、彼から一番聞きたくなかった台詞だった。誰よりも強く、いつも自信に満ちていた彼の姿がシーグルにとって憧れの対象だった。それが勝手な幻想だと分かっても、彼は自分の信念を貫き通す強さがあると思っていた。彼が自分を諦めて、意志を曲げる姿はみたくなかった。
 それが、全て自分の為だと思えば尚更に。



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 セイネリアさんの意図は? ってことで次回に続く。



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