【3】 南の港町アッシセグの海は、シーグルが見慣れたリシェの海と違って明るい青色をしている。少し緑かかった透明感のある青色と白い町並みのコントラストは美しくて、思わずセイネリアの部屋から見えるその風景にシーグルは見入ってしまう。 冬が近いのに、窓をあけていてもさほど寒くは感じない。首都やリシェの町なら、もう厚手の上着なしでは外を歩けないだろうにと思いながら、もしかしたら遠い波の音が聞こえるかもしれないかと目を閉じて耳を澄ませてみた。 音は聞こえない。だが、潮の香りがする。 その匂いはリシェと変わらないと少し安堵して、それでも瞳を開いて見えた風景に自分は遠くへきてしまったのだと思う。 アウグにいる時もふと見る風景に遠くにいる事をよく実感した。けれど今感じるこの強い喪失感は、アウグにいた時にはなかったものだった。それはきっと、アウグの時はいつか国に帰れる事を信じていて、今はもう戻れない事を覚悟しているからだろう。 少なくともあの街に、前と同じ立場として戻る事はない。 セイネリアはシーグルを助けた時、王に反乱の意志を伝える印を残してきという事で、実際はシーグルの返事に関わらず既に王と敵対する事は確定事項だったと言っていた。そうして当然、セイネリアであれば行動を起こす前に手を回してある訳で、自信を裏付けるだけの状況を既に作ってある事も読み取れた。 ――結局俺は、すべてあいつの手の中で踊っているだけなのか。 そう考えれば惨めな思いになるものの、全て自分で選んだ結果な事を考えれば悔しがる気にもなれない。ならば契約などいらなかったのではないかと彼を責める気などさらさらない。どちらにしろシーグルが彼に払える代償など、もうこの身以外ないのだから。 考えれば考えるほど自分で納得するしかない状況に、シーグルはふぅと小さくため息をつくと肩の力を抜いた。 自分が彼の部下になるなど、考えた事もなかった。 けれどこうして一息ついて、主としてのセイネリアを考えてみれば、自分の中に喜びや安堵といったものが沸いてくるのが分かってしまう。 シーグルはずっと、彼に憧れていた。 セイネリア・クロッセスという最強の騎士の強さに憧れ、彼のように生きられればと思っていた。絶対に勝てないと思っても、彼に剣だけでも勝てればと自分を鍛えてきた。 その、男を主とする事に、喜びがない筈はない。 自分が焦がれた最強の騎士を主と呼ぶ事に不満や不安がある筈はない。それは騎士として、男としてのシーグルの感情で、セイネリアを愛しているという感情とは別のものである。 彼を主と仰ぎ、彼がしかるべき地位に立とうとする事を――あの男がこの国を統べるだろう事を、自分は喜んでいる。彼ならば主としても、権力者としても自分が考え得る最高の人物だと思える。だから騎士として、彼に剣を捧げたことに後悔などない。むしろ契約などなくても、もしセイネリアがあの王を倒すと言ったなら自分は自ら彼に協力する事を望んだろう。 だが――シーグルはふと考える。 彼自身は、それでよかったのだろうか。『部下』としての自分を手に入れる事は、本当に彼の望みだったのだろうか。 考えれば感じていた喜びも高揚感も消えていく。あれだけ自分を愛していた男に、自分はまた酷い事をしている――心が冷えていくその考えにシーグルの瞳の中、美しい風景さえ色を無くす。 シーグルは、自分を許したくなかった。 全ての責任と家族を捨て、愛する男の庇護のもとでのうのうと過ごす自分など許せる筈がなかった。セイネリアから『愛している』という言葉を封じたのは、このまま彼のもとで彼に愛されていればそれに溺れてしまいそうな自分が怖かったからだ。 「本当に俺は馬鹿だ……馬鹿でわがままで、あいつには酷い事ばかりしている……」 彼が自分を愛している事を知っている。自分が彼を愛している事を知っている。だから彼のもとにいれば、いずれ自分は愛される幸福に満たされて、捨ててきた自分の罪を忘れてしまうのではないか。 だからせめて、ここにいるのは家族の為なのだと、それを自分に思い知らせる為に、忘れない為に、自分はあくまで彼の『部下』であろうとした。だがそれは、ただ自分の都合だけを考えた勝手な考えで――いっそ自分が彼を愛していなければ、何も考えずにただ彼に従えたのに。彼のもとにいることは家族の為だと割り切れただろうに。 考えれば考える程、自己嫌悪に心が沈んでいく。だがそこへ、ノックの音が部屋に響いて、シーグルははっとしてドアに視線を向けた。 「えーと……エルだ、入るぜ、いいかな?」 「あ、あぁ」 返事をすると同時にドアが開いて、そこにはこの団の副長である青い髪のアッテラ神官が立っていた。 「ん、顔色は大丈夫そうだな」 エルはシーグルの顔を見ると、やたらと嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。 「あぁ、大丈夫だ」 ちなみにここへ来てから彼に会ったのはこれで二度目になる。一度目は治療の為だったので、その時は確かにあまり顔色は良くなかったろうと思う。 エルはドアを閉めて部屋の中へ入ってくると、壁に置いてあった椅子の一つを持ってきてシーグルの傍に座った。 「さて……えーっと、マスターから聞いたと思うんだが、今後の事とかについては俺が説明する事になってる。後、これかもずっと何か団の事で聞きたい事があったらとりあえず俺を頼ってくれていい。……そういう役目だからな」 確かにそれはセイネリアからも聞いていた――細かいことは全部エルから説明がある、他にも何かあったらエルに聞け、と。ただ、目の前のアッテラ神官がやけに嬉しそうに自分の顔を見てくるのが、シーグルとしては少し不思議だった。 そうして、促されるままシーグルも椅子に座れば、エルは椅子の上で少しこちらに身を乗り出して、やはり楽しそうに話し掛けてくる。 「今、マスターは忙しくて今朝から遠出しちまってな、暫くは帰って来れねぇ。で、あんたがここの一員になるのもいろいろ準備が必要でな、当分の間は基本的にはマスターの部屋からあんたを出す事が出来ないんだ。ただ、何か用があればこっちの部屋なら声出して呼べば誰かくるようになってる、遠慮なく呼んでくれ」 それもセイネリアから言われていた事であったから、シーグルは了承の返事を返す。 確かに、セイネリアの部下になったとはいえ、自分は今堂々と表に出られる身分ではない。少なくともここにいる事を関係者以外に知られるわけにはいかないだろう。 「こういう場合、本当ならまずは敷地内を案内してやりたいとこなんだが、それはまた準備が出来た後でな。だからまずは……そうだな、あんたが多分一番心配してるだろう事として、あんたが捕まってる間、何が起こってたのかって話をしとこうか」 「あぁ……それはぜひ、頼む」 それが一番気になっていた事であるのは確かである為、教えてくれるならありがたい。 だが、そこで最初に言われた言葉に、シーグルはある程度予想していても驚く事になる。 「まず、あんたは処刑されて死んだことになってる」 唐突にそう言われて驚くなというのは無理な話だろう。 確かに、シーグルが処刑されることは決まっていた。だが一向に処刑日は決まる事はなく、本当に王は処刑する気があるのかと疑問視していたところだったのだ。まさか、本人が知らないところで既に処刑が行われていたなんて想像出来るはずがない。 ……ただそれを知れば、あの夜、王がやけに不機嫌そうに処刑がどうのと言っていた理由も今更ながらに理解出来た。 「勿論偽装だ。王はそれでマスターを炙り出そうとした。勿論それは失敗したんだが……あんたの兄貴の恋人の坊主がそれを阻止しようとしてな」 「ウィアが? 彼は無事なのか?」 「あぁ、まぁそれは騒ぎ起こす前に失敗して、計画に参加してた連中も全員無事逃げられたよ」 「そうか……」 シーグルはそこでほっと息を付いた。ウィアが自分を助けようとしてくれた気持ちはありがたいが、その所為で彼に何かあったら兄やテレイズに申し訳が立たない。 「で、あの坊主はそれと同時にあんたの家族を助けようとしてな。あー……あんたが捕まった後、あんたの家族やら兄弟やらはリシェのシルバスピナの屋敷に閉じ込められて親衛隊の連中に監視されてる状態だったんだわ」 「そうか……それで?」 確かにシーグルが罪人となった段階で、家族のその事態は考えられる事だ。それをウィアがどうにかしようとするのも分かる。 「で、そっちは無事逃がす事に成功したんだが……そこでウチが接触をとってな、その後の避難場所についてはこちらの方で用意する事にしたんだ」 それには安堵するものの、それならば自然と出る言葉がある。 「彼らは今、どこにいるんだ」 聞けばエルは困ったように頭を掻く。それから言葉を選ぶように、慎重に、歯切れ悪く答えてくれた。 「んー、あんたの妻と息子、それと護衛の者については今はちょっと言えねぇ。ただ安全な場所にいるってのは確かだから安心してくれ」 「そうか」 彼を困らせたいわけではないので、シーグルはそれ以上追求しなかった。セイネリアが用意した安全な場所というのなら、それは信用出来ると判断したのもある。 「そンでだ、リパ神官の坊主とあんたの兄弟は、ここアッシセグの領主のとこにいる」 「ロージェ達と一緒じゃないのか?」 それは少し意外で、思わずシーグルは聞き返す。セイネリアのことだから考えがあるのだとは思うが、わざわざロージェンティ達と兄やウィアを別にする意味がない。 「それは……ちょっと言い難いんだが――」 そうすればエルは、言葉通りいい難そうに頭を掻いてからその先を話した。 --------------------------------------------- エルがやけに嬉しそうな理由はあとで分ります。 |