揺れる心と喧騒の街




  【6】



 どこまでも続くような廊下と高い天井を見た青年は、名前を呼ばれると、どこか焦点が合わない様子で返事を返した。

「あ、は、はいっ」
「大丈夫か?」
「はい、全然大丈夫です」

 何が大丈夫なんだと自分で自分につっこんで、ナレドは大きく深呼吸して気持ちを落ち着かせようとした。

「ここが俺の部屋だ。覚えられるかな」
「はいっ、覚えます。何があっても絶対覚えますっ」
「いや、そんな肩肘張らずにいてくれていいんだが。別に忘れたからって怒ったりはしないし、分からなかったら誰にでも聞けばいいだけだ」
「はいっ」

 とはいわれても、ナレドにとって緊張するなというのは無理な話だ。
 この首都の中でも最下層とも言えるような場所で生きてきたナレドにとっては、貴族様の屋敷の中にいるというだけでも緊張の連続だし、更には今案内をしてくれているのはずっと憧れていた雲の上の存在だ。見れば見る程、自分がここにいていいのかという気分になって体が震えてくるくらいだし、失礼があってはならないとか、失望させてはいけないとか、自分みたいな人間がこんなところにいて使用人達は怒っているんじゃないかとか……ともかくいろいろいろいろ悪い事ばかり考えてしまって、逃げ出したくなっているくらいだった。

「おーいシーグル、フェズがさ、ちぃっと買い物についてきてもらいたいんだってさ」

 廊下をばたばたっと賑やかに駆けて来る音がしたと思えば、小柄な人影が近づいてくる。声からして少年かと思ったナレドはその人物が少女だった事で一瞬焦ったが、良く見るとその服装はリパの僧服で、しかもそれは『男』神官用だった。つまり『彼』は男なのだろうと納得したナレドは、幾分かほっとして息をついた。
 ……というか、この感覚はどこかで覚えがあると思ったナレドは、よく考えて、『彼』には前に会った事があったのだと思い出す。その時も同じ感想を持ったから、確かに『彼』だと確信出来た。

「いやー、ちぃっと高級品扱ってるような店だとさ、お前が一緒かどうかで店主の態度が無茶苦茶違うからさー、時間あるなら一緒にいって欲しいんだってさ」
「そうか、だが……」

 困ったように表情を曇らせたシーグルに、ナレドは反射的に謝りたくなる。自分の事はいいですから、いくらでも待ってますからいってきてください、とそう言おうとしたナレドだったが、それよりも神官少年の方が反応が早かった。

「しーってるよ、今、そいつを案内してんだろ?」

 にかっとこちらに笑い掛けられて、ナレドは正直どうしようかと戸惑う。

「でもさ、屋敷の案内とかなら、お前自身がする事でもないだろー。そりゃ、騎士様のお仕事的なモノとかだったらお前が教えないとならないだろーけどさ、屋敷の案内なら使用人の誰かに頼んでもいいし、勉強方面なら俺だってラークだって教えてやれるぞ、お前忙しいんだからそんくらい人に頼れよっ」
「ウィア……」

 彼はシーグルの友人なのかとその程度しかナレドには想像出来なかったし、前に会った時も確か知り合いだとしか言っていなかった。ただ、雰囲気からして貴族のようには見えないとナレドは思う。

「今日は急だし使用人さん達に頼むのは可愛そうだからさ、ここはいっちょ、俺が代わりに案内しといてやるっ」

 胸を張って、その胸を叩いて見せた神官少年に、けれどもシーグルの顔はますます曇った。

「だがウィア、兄さんがいくならウィアも一緒に行くんじゃないのか?」
「いーんだよ、俺も一緒だったら馬車ン中荷物入らなくなんだろ? どうせならラークも一緒にさ、たまには兄弟水入らずで行ってくりゃいいじゃないか」
「しかし……」
「実は既に、フェズからお留守番&シーグルのお手伝いのご褒美を貰い済みだっ。だっから今更断られても俺が困るんだよ。な、だからいーってこいってぇ」

 そこまで言われればシーグルも諦めたのか、表情を柔らかく崩してナレドの方に振り返った。

「ではナレド、申し訳ないが、屋敷の案内は彼にしてもらう事にして構わないだろうか?」

 申し訳なさそうなシーグルの様子に、ナレドは力いっぱい首を左右にぶんぶんと振る。

「いえっ、全然構いませんっ、俺なんかの為に貴方のお時間を裂いて頂こうなんて申し訳なくっ、貴方が謝る必要なんてもう……」

 言葉が支離滅裂になっているのは分かるのだが、それをどうにかしようとしても学のないナレドは益々混乱を起こすだけだった。どう言えば失礼にならないかを考えすぎて、更には頭を激しく振りすぎて、ナレドは頭がくらくらしてきた。

「ま、そういう事でっさ」

 いつの間にか隣にきていた少年神官が、ナレドの頭を押さえつけて止める。にっかりといたずらっ子のように笑い掛けられて、それに面食らっている間に、彼はナレドの手を取ると引っ張った。

「次は客間だよな、じゃなシーグル、ゆっくりいってこいよー」

 有無を言わさずひっぱって、しかも走り出した神官に、ナレドはそのまま一緒に走る事しか出来なかった。
 少年神官はばたばたと、けれども軽快な足取りで走っていく。けれども彼は、長い廊下を曲がってシーグルが見えなくなってすぐ、唐突にぴたりと足を止めた。

「あ、あのっ……」

 ナレドがそれでやっとその少年に話しかけようかとすれば、彼は難しい顔をしてぴっと口に指を立ててこちらを黙らせる。それからそうっと壁から顔を出して、今自分達がいた場所を覗き見た。

「ふふふ……計画成功だな、シーグルは諦めてフェズんとこいったなっ」

 そうしてから、やっと少年神官はナレドに向き直ってくれた。

「いやー、悪かったな。もしかして俺の案内じゃ嫌とかあるか?」
「いえ、とんでもないです。それに、シルバスピナ卿が俺に構わずお出かけになられて良かったです」

 表情がころころよく変わる少年は、少女と間違えた事もあるだけあってやはり可愛い。けれどもその可愛らしい顔を裏切るように、彼はにかっと満面の、しかもあまり品が良さそうに見えない笑みをその顔に浮かべて、ナレドに向かって手を伸ばした。

「よーしよーし、んじゃま、自己紹介が前後して悪いけど、俺はウィア・フィラメッツ。呼び方はウィアさんでもウィア様でもいやまぁ別に呼び捨てのウィアでも構わないけどな、お前より年上なんで敬うようにっ」

 出された手を握り返そうとしたナレドは、そこで固まった。

「年上……なのですか?」
「おうよ、俺シーグルと同い歳だぜ」

 自分より背が低くて女の子みたいな顔で、ナレドはてっきりこの神官を、上でも15,6歳がいいところだろうと思っていた。

「あ、す、すいません、俺……」
「ま、いいけどさー。どうせ俺いつも年下にみられるしぃー。あ、でもお前俺と初対面じゃないだろ、あんときから俺あんま変ってないんだからさー逆算してお前より年下な筈ないじゃん。……ってか、なんでそんなでかくなってんだお前、何食えばそんなに一気に伸びるのか俺はそれが気になるぞっ、すごーくすごーく気になるぞっ」

 確かに、言われれば前に会った時、拾ったシーグルのマントを預けた時と彼の姿は殆ど変っていなかった。
 しかも、唇を尖らせながらこちらの頭の上を心底羨ましげに見上げてくる辺り、彼はその身長がコンプレックスなのだろうとナレドもすぐに察する事が出来た。

「す、すいません、ただ力仕事するようになったら急にとしか……」

 ぐっと身を乗り出して、服まで掴まれて詰め寄ってこられれば、ナレドには謝ることしか出来なかった。
 そんなナレドの顔を見て、神官は手をパッと離すと大きく溜め息をついた。

「いやまぁ……あーお前さ、そんな畏まらなくていいぞ。年上だから敬うのは当然としても、俺は貴族でも何でもない、ただの平民だから。とは言ってもシーグルは俺の身内みたいなもんではある、なにせ俺はシーグルのにーちゃんのなー……恋人だっ」

 言いながら、びしっとこちらを指差してくるウィアの指先を見て、ナレドはびくりと肩を跳ね上げた。
 彼が指を戻せばほっとするものの、そこでやっと言葉の意味を考えれば、途端にナレドは首を傾げる事になる。

「え……あの……お兄様の……恋人?」

 ならばやっぱりこの神官は女性なのだろうか。けれども声は男にしては高めとはいえ女性ぽくないし、しかも喉も僅かにでっぱりがある気はするし、神官服は男ものだし……とナレドが考え込んだのを見て、ウィアは肩を竦めてみせた。

「んーまぁ、冒険者やってると分かるんだけどな、真実の愛っていうのは性別なんか関係ないんだよ。ガキには分からないかもしれないけどな、心から好きになった人間がいたら、その人が男だろうと女だろうとそんなの大した意味はないのさっ」

 ふっと、少し芝居かかったように恰好をつけて腕を組んでウィアがいう言葉は、確かに成程なと思うところはあるものの、ナレドには実感としては良く分からなかった……のだが。

「まぁ真実の愛云々は別としてもだ、男が男のそういう対象になるってのは割とよくあるってのはお前はよーく頭に入れておくべきだな。なにせシーグルはなぁ、あんだけ美人だとやっぱ良からぬ連中にそういう意味で狙われる事が多くてさ、だっからちゃんとそういうのからお前もシーグルを守らなきゃならない訳だ」

 あの綺麗な人の事を考えれば、ウィアのその言葉にもナレドはなんだかすごく納得できてしまった。例え男だったとしても、あの人ならそういう目で見る連中が多いのもすぐに理解できる。

「分かりました、そういう目であの方を見る者がいないか、俺、注意しますっ」
「うんまぁ……そういう目で見てる奴全部を注意してるとキリないと思うからさ、まぁ、そん中でも特にヤバそうなのとか、シーグルが気づいてなさそうな時に警戒してやりゃいいと思うぜ」

 気合を入れたナレドに、神官青年は苦笑いを返してくる。
 はぁ、と勢いを削がれたように気の抜けた返事を返したナレドは、そこまでまた腕をひっぱられた。

「おっし、まぁ細かい事は後でその度にいろいろ教えてやっからさ、まずは屋敷の案内してやるよ。お前だってさ、正直、シーグルに案内されても、緊張しすぎてちゃんと頭に入らないだろ?」
「えぇ、はい、その、もう緊張しすぎて、何を言われてるのかも分からなくなってきてて……本当に申し訳なくて」

 それは図星だったので、ナレドは引っ張られて歩きながら、心底申し訳なさそうに顔を俯かせた。

「だーろーなー。シーグルももうちょっと気楽に構えてどっしりしてりゃいいのにさ。昨日は準備を何度も確認したりさ、今朝も朝から屋敷ン中うろうろ歩き回って落ち着かないしー」
「あ、あの方がですか?」
「そーそー、何せシーグルも初めて従者迎えるってんでいろいろ緊張しまくってたんだぜー。フェズやラークにそれで注意されては軽く落ち込んでてさー……いやーもう可愛かったなぁアレ」
「か、可愛い?!」
「そーだぜー、シーグルはなぁ、しっかりしてるように見えて実は結構可愛いとこあるんだよなぁ」
「はぁ……あの、方が、ですか」

 少しだけ人の悪そうな笑みを浮かべながらも、陽気な口調でシーグルの兄の恋人だという神官は機嫌よくいろいろ話してくる。彼の話すシーグルの普段の姿は、確かに少し子供っぽくて、不器用で……ナレドさえも、恐れ多いとは思いながらも、雲の上の存在だった人へ親近感を覚えてしまいそうになる。そして、あの綺麗で立派な人のそんな姿を見ているというこの神官は、確かにシーグルにとっては身内同然なのだろうというのも信じられた。
 けれど、楽しげに笑って話していた神官は、ふと、なにかを思い出したように立ち止まって、ナレドも慌てて足を止めた。

「お前、これからシーグルの傍にいるならさ、その内、真っ黒ですごい強面の奴に会う事があっかもだけど……まぁ、いかにも悪そうでヤバそうな顔してるし絶対会ったらびびると思うけど、お前がシーグルの身を一番大事に考えるなら――そいつの言う事は従っていい」

 神官の青年、ウィアは先ほどまでの陽気な笑顔を消して、言いながらじっとナレドの顔を睨むように見つめてくる。その真剣さに、これは重要なことなのだろうと思ったナレドは、返事をする事も出来ずにごくりと唾を飲み込んだ。

「とにかくそいつは、世界全部がどうなってもシーグルさえ助けられればいいってくらい、シーグルの事を考えてる奴だ。だからお前がシーグルを一番に考えるなら、そいつの言う事は従っていい。シーグルを守るって事なら、それこそシーグル自身が言う事よりも正しいくらいだからな」

 今のナレドにとってはその話に出てくる黒い男の事を想像さえ出来なくて、その言葉をそのまま心に留めておく事しか出来なかった。けれども、シーグルに何かあった場合、その男に会えばどうにかなるかもしれないと、だから覚えておかなくてはならないとも思った。

「セイネリア・クロッセスっていう男だ、覚えとけよ」
「分かりました」

 直後、神官はまたにぱっと屈託なく笑って、ナレドの手を引いて歩き出した。




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と、この流れで、次回はセイネリアさんパートで、回想でのH。




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