揺れる心と喧騒の街




  【8】



 新王の即位式は、大きな問題が起こることもなく無事終えることが出来た。
 それから6日、未だあちこちには祭りの浮かれ気分は残っているものの、最後まで残っていた中央広場のテーブル類も撤去され、セニエティの街は一応の平穏を取り戻した。
 とはいえ、ナレドが来てそれまでの数日間、そこから王の即位式が終わるまでは、まさにシーグルにとっては怒濤の忙しさだったのだが。
 その理由は単純に、二つの立場での役割、つまり騎士団員としての街の警備の仕事と、旧貴族でありリシェ領主として式典等の参加という両方の仕事をこなさなくてはならなかったからである。
 後者はある程度は元スルバスピナ卿である祖父が代わってはくれたのだが、さすがに現領主として主要な式典にはシーグル本人が顔を出さない訳にはいかなかった。しかも、前王が退位前に最後に立ちあった旧貴族位継承者として、そして常日頃から、その容姿や、今時珍しい旧貴族直系で騎士団に所属している本物の騎士として、なにかと噂される人物であるシーグルに会ってみたいと言う者達は多く、公の場に出る度にシーグルは大勢の人間に囲まれる事態になった。
 いくらその手の連中の相手は苦手だと言っても、代理ではなくシルバスピナ卿本人となった以上、状況的にも性格的にもシーグルが逃げ出せる筈もない。旧貴族として人前に出る度に、シーグルは彼らとのやりとりだけで警備の仕事の数十倍の精神的疲労を味わう事になった。
 とはいえこれでも、その手の仕事を最小限にした結果ではあるのだ。なにせ本来なら領主の交代という事で、まずリシェ内で式典をやるところを、時期が時期として公の行事としては何もしなかったという事情がある。当然、今回の席でリシェ領主としての顔見せも兼ねているので、その分ちゃんと対応しなくてはならなくなった。

「こんなに大勢の人間と話しっぱなしだったのは、生まれて初めてだ」

 ぐったりと椅子に座り込んだシーグルを見て、ナレドがくすりと笑う。けれどすぐにそれが不敬にあたると思ったのか、彼ははっとすると大急ぎで顔を引き締めた。
 その様子をみて、シーグルの方が思わず微笑んだ。

「大丈夫だ、その程度で怒ったりなんかしない」
「いえ、でも、主を笑うなどと……」

 すっかり恐縮して顔を青くさせるナレドに、シーグルはくすりと息を漏らす。

「そうだな、そういうのにうるさそうな貴族連中の前では気をつけたほうがいい。だが別に、俺と二人だけか、他にいても屋敷の連中やウチの隊の者くらいまでならそこまで気を張らなくていいさ」
「はぁ……」

 彼も従者となって10日近くが過ぎた訳だが、最初よりは大分慣れてきたものの、やはりまだいろいろと何をやるにも緊張しているようでぎこちなかった。それでも、ウィアやフェゼントとはかなり仲良くなったようで、彼らと話しているナレドは自然で、ちゃんと息抜きは出来ているように見えた。
 その状況には少し寂しさを感じてしまいもするが、主であるシーグルの前で緊張するのはやはり仕方ないのだろう。一人だけで帰結出来ない立場を手に入れたからには、今までのような軽い気持ちで他人と友人付き合いをする訳にはいかない。相手と自分の立場に合わせて相応の距離を保たなくてはならない、という事くらいはシーグルも承知していた。

――それでも、俺は幸せ者だ。

 領主という地位についても、立場を気にせず心を許す事が出来る人間がシーグルにはたくさんいる。公の場では距離を置かねばならなくても、心情的には近くにいてくれる人間がたくさんいる。だからこそシーグルはこうして立っていられる。課せられた役目の重圧と不安に押しつぶされずに、立場にふさわしい者になろうとしていられる。

「はぁ〜い、それではシーグル様はぁ、一息ついたらこちらに目を通してくださいねぇ」

 どさ、と殊更音をたてて、にこにこと笑顔のキールがシーグルの前に書簡類が大量に入った箱を置いた。

「随分溜まっているな」
「そりゃ〜もう、このところはずっと警備と後始末が優先でしたからねぇ、そりゃぁ事務は滞りまくりですよぉ。ついでにいうと、大きい行事後はですねぇ、事後処理の手続きやら報告が山だくさんに押し寄せてきますからねぇ〜」

 何故かやけに楽しそうな様子のキールに、シーグルは明らかに顔を顰めたりはしなかったものの、僅かに眉を寄せため息をついた。

「分かった、すぐ仕事に取り掛かる」

 そうして箱から包みを一つ取って広げたシーグルは、それを読もうとしたところでふと視線に気づいて顔を上げた。そうすれば、申し訳なさそうにこちらを見ているナレドと目があう。

「あぁ、すまない。何か話があったのだろうか?」
「あ、え、いえ、そうではなく、あの、えと……」

 ナレドは焦ってばたばたと手を振ったりきょろきょろするだけで、シーグルには彼の意図が分からなかった。だがそこへ、やはり上機嫌の魔法使いがにっこりと笑って入ってくる。

「ナレド君はですねぇ、シーグル様に包みをとって差し上げようかと構えていたのにご自分でさっと取られてしまったのでどうしようか〜と困っていた訳ですね」
「あぁ、そうだったのか、それはすまない」
「あ、いえ、謝って下さるなんてそんな、俺、いや私は……」

 余計に焦ってパニックを起こし掛けた青年をシーグルがどうすればいいのかと悩む前に、ひょろっこいと言っても過言ではない魔法使いの腕が後ろからその青年の襟首を掴んでひっぱった。

「は〜い、まぁシーグル様はですねぇ、そういう細かいのはいいので貴方はこっちで少ぉし文字のお勉強をしましょうねぇ。読むだけでも出来るようになれば〜、シーグル様も少ぉぉしは楽が出来るようになりますからねぇ」

 そうしてずるずると引きずっていって、自分の机の横の椅子にナレドを座らせると、キールは彼にペイル紙の束を渡す。

「すまないな、全部人任せになってしまって。勉強だけではなく、剣の方もずっとアウドに任せてしまっているしな」
「いえっ、全然問題ないです。というか、俺はまだ貴方に教えていただく程のレベルに達していませんのでっ」

 言って彼は必死の形相で机に向かうと、キールに言われるまま、がりがりと文字を書きだした。

 ちなみに、他国に比べて圧倒的に紙が一般に普及しているクリュースであっても、いわゆる『紙』は書類や本等の残して置きたいものに使われるのが普通であって、貴族はまだしも一般人が気楽に使うという程のものではなかった。ただその代わりに、ペイル紙という薄い紙が出回っていて、これはインク等が必要なく、ただ尖ったもので上から押せば線が書けて、おまけに水につけて乾かせば書いた物が消えてしまうという特性をもっている為、保存の必要がないものには広く使われていた。あまりにも手軽に使われるものだから、ペイル紙に書いた物でも保存したくなったら濡れてもコーディングすれば文字を残しておけるような技術も開発されたくらいだ。

 キールに教わりながら、四苦八苦して文字と戦っているナレドを暫く見ていたシーグルだったが、それに気づいたキールに笑顔でプレッシャーを掛けられるに至って、自分の仕事に戻る事にした。
 従者を迎える、という事で、事前にいろいろ考えて身構えていたものの、現状のシーグルにはナレドに直接何かしてやれるだけの時間が全くなかった。かろうじて朝の訓練で一緒に剣を振れるくらいで、それ以外の従者としてついてきて貰う時以外は、剣も勉強も作法も武具の手入れの仕方も、従者としての仕事さえ全部人に任せで教えてやって貰っている状態だった。

 なにせシーグルは即位式が終わっても、本当にこれで前くらいの平穏な忙しさに戻れたという訳ではないのだ。

 リシェの新領主であるシーグルには、式典が終わった今、あちこちの貴族の個人パーティやらちょっとした夜会からの招待状が途切れる事なく届いていた。前ならば公正をとって全部断ればいいだけの話だったのだが、新領主として挨拶回りも兼ねていれば、今は全部断る訳にもいかない。だからせめてと、多忙を理由に、休日に開かれるもので招待者に対して一度目だけを受けると伝えたところ、招待状の送り主を変えてきっちり休日毎に予定を組んだような日程の招待状が届くという事態になった。
 当然、そうなれば、一度言った事を取り消せるシーグルでないから、暫く先まで休日はその手の予定で埋まる事になってしまった。

『あー、まぁそういう時はですねぇ、どうしてもこれは無理だぁ身が持たないってぇ思ったらぁ、さくっと一回過労で倒れたって事にすればいいんですですよぉ〜』

 現状を相談した時、キールはにこやかにシーグルにそう答えた。

『そうしたら、騎士団の方も休まなくてはならないだろう』
『いーいじゃないですかぁ、即位式の後始末がついたら〜暫く領主らしくぅお忍びでご自分の領地を見て回ってくればいいんですよぉ。丁度今はおつきにナレドさんがいますし〜リシェの守備兵になったあの人達に、護衛としてお供しろってぇ言えば、そりゃ〜喜ぶと思いますしねぇ』

 あの人達、というのは、去年までシーグルの隊の後期組にいたリシェ出身の騎士の二人の事だ。彼らは騎士団の規定年数が終わった後、団を辞め、シーグルが領主となった途端に申し出てきて、シルバスピナ家直属のリシェの守備兵となっていた。

『ついでにぃ、ほかの領地内の守備兵さん達にもしぃっかり顔見せして、少ししごいてくればいいと思いますよぉ』

 言われてシーグルは思った――確かに、それはいいかもしれない、と。

 シーグルはまだまだ領主として自分の領内の事をよく分かっていないという自覚があった。それにいくら即位式の事があったとしても、騎士団の方が忙しくて、新領主の挨拶というか領民への知らせというか、その手の公式行事をまったくやらなかったという負い目がある。だからキールの言う通り、騎士団のほうが一段落したら彼の案を実行してやろうと思った事で幾分か気が楽になったというのがあった。

「あぁ、そういえばシーグル様、リシェのご実家の方から今日、こんなものが届いたのですが」

 いつの間にか傍に来ていたキールに気付いて、シーグルは書類から顔を上げた。それから机におくでもなく直接差し出されたそれを見て、少しばかり驚いて眉を寄せた。

「正式な貴族間文書じゃないか、誰がこんなものを……」

 言いながら受け取って、小箱に紙を巻いて封をされたその封の部分にある紋章を見てシーグルは考える。だが、その紋章がどの家の物かが分かった途端、みるみるうちに青い瞳は見開かれ、シーグルの顔は身構えるように緊張で強張った。

「どうされました?」
「いや……」

 封を切って箱を開き、中身の手紙をシーグルは慎重に取り出す。
 そうして手紙を開き、それを読みだしたシーグルの顔は、真剣……というよりも、傍で見ていたもの達がすぐ分かる程に青ざめていった。

「シーグル様?」

 キールでさえもが不審そうに顔を顰めて聞き返す中、シーグルは無言で読み終わった手紙を箱に戻すと、机の上で肘を立てて手を組み、その上に額を乗せて、顔を下に向けて考え込みだした。

「シーグル様、どうかなされましたか? 何か悪い知らせでしょうか?」

 もう一度キールが声を掛ければ、シーグルは顔を上げて、ごくりと一度唾を飲み込み、思いつめたような顔をして口を開く。

「ヴィド家のロージェンティ嬢からの手紙だったんだが……」

 その名がシーグルの婚約者の名である事は、キールも既に聞いて知っている事ではあった。

「手続きを全て祖父任せにしていて……その、正式な手続きは終ったそうなんだが……俺はまだ、一度も彼女に会いにいってなくて……それどころか挨拶の手紙さえ……」

 それだけで全てを察したキールは、青い顔で見上げてくる彼の上司の青年に向かって、はぁ〜〜とそれはそれは大きくて長いため息をついて見せた。

「つまるところぉ〜正式な婚約をしたっていうのに、婚約者に顔出しもしないなんてどういう事かってぇ文句のお手紙だった訳ですねぇ」
「あぁ……その、正式に婚約が成立した事も知らなくて……最近忙しかった事もあって、祖父に確認もとっていなかった、から……俺が悪いのは分かっているんだがっ……この場合どうすれば良いのか……」

 言いながら、シーグルの顔は更に青ざめていく。

「いや〜もう謝るしかないでしょうねぇ〜そりゃあもう全力で。いやでも、怒った女性を宥めるのはそう簡単な事ではありませんしねぇ、しかも相手は大貴族の姫君ですからプライドは相当高いでしょうしぃ……馬鹿にされたってぇとんでもなく怒ってて並大抵の謝罪じゃ済まないんじゃぁないですかねぇ。いやぁ〜正直私にも全くどうすればいいのか分かりません」
「そ、そうだな……俺が悪いの……だし、こういう場合に人に頼る方がよくない、な」

 青い顔で酷くぎこちなく落ち込む青年を見て、すこし脅しすぎたと思ったキールは軽くまたため息をつく。そうして、いつも通りの気楽そうな笑みを浮かべてから、殊更のんびりとした口調で、何事にも真面目すぎる上司へ進言する事にした。

「まぁ〜私も女性関係は分かりませんから〜まずはその手の事に詳しそうな誰かに相談してみるのはどうでしょうかねぇ。頼るのではなくあくまで意見を参考にするだけというのなら、相手にとって失礼にはあたらないと思いますよぉ」



END
 >>>> 次のエピソードへ。

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これでこのエピソードは終了。そんな訳で次回はシーグルの結婚話になります。




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