【2】 シルバスピナ家本邸の敷地内にある別館は、元々シルバスピナ夫人の出産と子育ての為の館として作られていた。だから本館からは見えないよう、敷地の中でも少し奥まった場所にあって、更に周りは木や緑で囲われ、外界から隔離された静かな空間になっていた。ただ、近年ではわざわざそこを使う事はなく本館内の奥の夫人用の部屋を使う事になっていたのだが、ロージェンティは兄達の勧めもあって別館で出産をする事にしたという事だった。 とはいえ、ロージェンティがここへいたのは本当に出産の直前からその後の数日だけだったそうで、シーグルの代わりにリシェの領主としての仕事を祖父と共にこなしていた彼女は結局、ほとんどここへはいなかったらしい。 その為彼女がここを普段の住居とするようになったのは、シーグルが帰ってきてからという事になる。というのも療養の為にも本館よりこちらの方がいいだろうと、シーグルは現在、特別な客人に会う時以外は基本的にここで過ごす事になっていたからだった。現在はだから実質、ここが現リシェの領主夫妻の住居という事になっていた。 子供が遊べるように植木の柵で区切られた中庭にシーグルが入れば、天気がいい今日は外でお茶をしている兄弟達とロージェンティを見つける事が出来た。 「おーい、シーグルつれてきたぞー」 ウィアがそう声を掛けて、シーグルとウィアがやってきたのが彼らにも見えれば、皆が笑顔で小さく手を振ってくる。 「おっそいよ、さっきからずっと待ってたんだからね」 「しっかたねーだろ、往復で歩くとこっからシーグルの部屋って結構あんだぞ」 ラークが文句を言って、ウィアが返せば周りで笑い声が起こる。穏やかな日差しの穏やかな風の吹く中、シーグルの目に映るのは幼い頃に夢見ていた幸せな家族の風景だった。 シーグルが席につけば、ロージェンティの侍女であるターネイは急いでお茶の準備をするために部屋に入って、兄がテーブルの上においてあった箱を開け出す。 「おー、うっまそー。俺これなっ」 すかさず手を伸ばしたウィアの手を、ラークがぺしりと叩いた。 「行儀悪いよウィア、これはシーグルので、こっちはロージェンティさんの分。専用にハーブを調合してあるんだから勝手にとらないでよねっ」 それでまた二人で言い合いが始まって兄がそれを叱るまでつづいたのだが、それに笑顔を返しながらも、シーグルは椅子に座ったまま少し落ち着かない様子で視線を逸らした。その視線の先を見てにこりと笑ったロージェンティが、こっそりとシーグルに耳打ちしてくる。 「お茶の前にシグネットの顔を見てやってくださいませ」 それですぐシーグルは立ち上がる。 「あ、あぁ。いいだろうか」 「はい、勿論」 言いながらロージェンティも一緒に立ち上がって、シーグルを部屋の中へと案内してくれる。 この別館の一階の部屋はベランダから直接庭へと出られるようになっていて、大きく開かれた窓から二人は中に入った。そうすればすぐ、赤子の世話役であるエイニィが立ち上がって深く頭を下げて一歩引き、シーグルとロージェンティに場所を譲る。幼子の護衛兼力仕事担当としてこちらにいたナレドはぴしりと背を伸ばし、緊張した面もちでやはり深く礼をしてくる。暫く見ない間にまた身長がのびた彼はもうシーグルと視線の位置がほぼ合うほどで、主がいない間はその息子であるシグネットを守ろうといつでも側についていてくれたらしい。 彼らに微笑み返して、シーグルとロージェンティは赤子の眠る籠へと近づいていった。 「シグネット、父上が会いたいのですって」 彼女は愛しそうに身を屈めて赤子に顔を近づける。それを温かい気持ちで眺めながら、シーグルも恐る恐る籠に近づいていった。 籠の中には、たくさんの布に囲まれた小さな顔がある。 ふわりと漂うミルクの匂いと共にこちらを見た青色の瞳に、シーグルはなんだか泣きたい気持ちになってしまう。 まだ柔らかくて薄い髪はそれでもしっかり銀髪で、瞳の青色は自分程ではないが濃く、皆が言うところではかなり自分に似ているらしい。シグネットという名はロージェンティが付けたものだ。 小さな顔の小さな瞳をまん丸く開いて、赤子はシーグルをじっと見つめると、唐突に『あー』と声を上げて身じろぎした。 「アルスオード様、シグネットが呼んでいますよ」 「え、あ、そう……か」 ぎこちなくシーグルは籠の傍に膝をつくと顔を近づようとする。だがロージェンティはくすくすと笑うと、シーグルがのぞき込む前に籠から赤子を抱き上げてしまった。それでどうすればいいか分からなくなってその体勢のまま妻を見上げるしかないシーグルに、彼女は更に笑って言う。 「立ち上がって下さいませ」 そうして、言われてのろのろと立ち上がったシーグルの胸に、彼女はそっと赤子を差し出した。 「抱いてあげて下さい」 「あ……いや、俺はその」 実を言うと、シーグルは赤子を抱くのは苦手だった。というか、感触が柔らかすぎて、バランスが不安定なくせに動くのだからどう抱けばいいのか分からないのだ。明らかに狼狽えたシーグルを見てまた彼女は笑うと、シーグルの腕に無理矢理赤子を抱かせてから腕の位置を直してくれる。 「良かったわね、父上が抱いてくださったわよ」 一冬を越した赤子は既にしっかりとした重さを腕に伝えてくる。けれども感触がどうにもふわふわして、重心が頭に寄っているせいで頭が動くのが怖くて、こうして抱く度にシーグルはとんでもなく緊張してしまうのだ。 それでも視線を落とせば、赤子は目を丸く開いて不思議そうにこちらの顔を見てくる。ミルクの匂いを感じながら、すぐ目の前にいる小さくて確かな存在を見ている事は嬉しくて、意識せず顔が笑ってしまうのは仕方ない。まだ感情表現の乏しい赤子は表情も予想が出来なくて、唐突に口元をひくりとされてどきりとすれば、そこからいきなり笑ったりもするからいつでも新鮮な驚きを見つける。いつまでも飽きる事なく見ていられる。 だからこうして小さなシグネットを見る度にシーグルは思うのだ。 この子を抱く為に自分はこの場所に帰ってきたのだと。 首都でさえも春と言われる時期になれば、ここアッシセグでは少し動けばじっとりと汗ばむくらいの気温になる。天気がいい時ならなおさらで、午前中に体を動かしていた連中は昼前に水浴びさえしている者もいる始末だ。 そんな連中を見つめながら木陰にどっかりと腰を落として、この傭兵団の副長であるエルは自分も午後になったら海で泳いでくるのもいいかなどと考えていた。 その横へ、やはりだるそうに腰を下ろしてきた男を見て、エルは苦笑すると共にため息をついた。 「なぁんだよラタ、こんとこずっと不景気なツラしてよ。久しぶりの里帰りで、故郷が恋しくなっちまったか?」 「それはない、分かってるだろ」 不機嫌というよりも悩んでいるといった顔の青年にわざと軽口を叩けば、こんな場所にいる中では十分お上品で真面目な彼は嫌そうに睨んでくる。 「まぁな、故郷云々はお前さんはもう吹っ切れてるか」 「当然だ。ここにいるのは、そんな事よりあの人の傍にいる方が面白いと思ったからだからな」 エルと同じセイネリアと直接の契約をしているこの青年は、元はアウグで貴族だったと聞いた事がある。酒の席だったから詳しくは聞かなかったが、家は没落して全てを取り上げられ、彼一人でクリュースにやってきたらしい。 セイネリアの事を崇拝レベルで従っていたと言えばクリムゾンだが、彼とずっと組んでいたラタもまた、セイネリアに相当に心酔して従っている者の一人だ。方向性は違っていても同じくセイネリアを絶対視しているという点で、彼らは気があって組んでいられたのかもしれないとエルは思っている。クリムゾンがどれだけ人付き合いが悪くて自分勝手だったかというのを知っているエルとしては、よく文句を言い合いながらも彼に付き合っているものだといつも思っていたものだ。 その彼が、あのセイネリア・クロッセスの別人みたいな面を見たなら、頭で分かっていてもそれなりに考える事はあったのだろうなというくらいは想像できた。 「お前がこんとこずっと難しい顔してるのは、あの坊やの事かね」 言えば、大きくため息をついて、それから彼もまた苦笑する。 「マスターのあの変化が、いい事なのか悪い事なのか、俺には分からなくなったんだ」 エルもまたため息をついて唇を歪める。 「まぁなんていうか……あいつも人間だったんだなって事でな、心情的にはほっとしたんだが……部下としちゃ複雑なとこだな。でもま、分かるからなぁ」 「分かるというのは?」 エルは少しわざとらしいくらいにっと彼に笑ってみせた。 「誰もいなかった心の中に、初めて入ってきた存在――って言い方は抽象的過ぎか。まぁ、心情的にずっと一人だったあの男が初めて認めた人間って事で」 「それでも抽象的だ」 「んーじゃぁまぁ、あいつは強過ぎて誰も対等な人間がいなかった、それで初めて対等だと認められる人間が現れたって辺りでどうだ」 ラタはさらに胡散臭そうに顔を顰めた。 「あの坊やはあの人と対等とは思えないが」 エルは頭を掻きながら唸って考える。というか、エルだってそういう難しい事をあれこれ考えられる程頭がいい訳でもない。感覚で納得している事を言葉にするのは思った以上に難しいのだ。 「そこはだから心情的な部分だ。あいつを前にして心で負けないような人間はいなかったろ。しかもあの坊やの場合は、あいつが捨てたものを全部持った状態で負けないでいられるんだ」 それですこしラタの表情が変わる。 顰めていた顔から力を抜き、ふぅと息を一つ吐いて、視線を訓練場で騒いでいる連中に向ける。 「あそこまであの人に望まれて……それでも尚、拒絶を返せるのが彼の強さか」 エルもまた、笑いながら視線をラタと同じく訓練場の方に向ける。 「あの男に何でもしてやるって言われても、自分の力でどうにかするといい切れるのがあの坊やの強さなんだよ」 それでもエルは、ラタが何にそこまで不安を感じて悩んでいるのかもわかっていた。 シーグル自身を認められても、それでも彼に対するセイネリアの執着は異常だった。あの男が強ければ強い程、立場が上がれば上がる程、あの青年の存在は致命的な弱点となる。部下としてそれに不安を感じるなというのは無理な話だろう。 「――まぁ、そこまで……あいつがあの坊やに向ける顔ってのが意外だったのかよ」 だからそう冗談めかして呟けば、ラタは重い息と共に彼もまた呟くように返してくる。 「あの人があんな風に……幸せそうに笑うなんて思わなかったんだ」 エルはそれを軽く鼻で笑う。 あの男が幸せそうに笑う事に不安を感じる――つまりその段階で、自分達はあの男を人間として見てなかった、人とは違う完璧な存在として見ていたという事だ。その段階であの男の心に近づける訳がない、あの男に認められる訳はない。自分達の誰も、あの銀髪の青年の代わりにはなれる訳がない。 あの、セイネリア以外の存在は全て無視していたようなクリムゾンが命を掛けてまであの青年を助けたのは、彼もそれに気づいたからではないかとエルは思う。 思った事を口に出したりはしなかったが、エルもまた重い息を吐くしかなかった。 --------------------------------------------- 次回は騎士団の話までいける……かな。 |