運命と決断の岐路




  【13】



 自分は温和な人間などではない、とシーグルは思う。
 温和というのは、兄のフェゼントやクルスみたいな人物の事で、自分に当てはまる言葉では絶対にない。ただ、思った通りの不満やら嫌味を言ったりなんて事しても意味がない上に恨まれるだけだから我慢しているだけだ、と。

『シルバスピナ卿、どうも最近、貴方に関してはよくない噂が兵士達の間で流れているようです。温和な貴方なら当然知っていて黙っているのだと思われますが、いらぬ疑いを掛けられぬよう目立った行動は慎んで頂きたい』

 いつも通りの会議が終った後、わざわざ総指揮官のフスキスト卿に呼び止められて言われた言葉がそれだった。彼がシーグルの事をよく思っていないのは当然だろうとは思うが、それにしても団内の地位としてはずっと格下のシーグルに、いかにも嫌がらせというような半端な敬語を使ってわざわざ嫌味を言ってくる辺り性格が悪い。
 更には。

『総指揮官などと言っても所詮後方で見ている事しか出来ない臆病者、オマケに首都からの指示がなければ何も出来ない。あんな腑抜けの命令など聞く意味がありません。あんな無能の指示を聞くくらいなら、我々は貴方の指示で動きたい』
『そうです、あのような貴族としての教養も誇りもない貴族のなりそこねの指示など貴方が聞く必要はありません。ぜひ、我らの部隊は貴方の指揮下で……』
『温和な貴方が黙っているから、あんな無能の下級貴族が調子に乗るのです。兵士達が妙な噂を立てているのも、貴方が黙ってあんな者の言うなりになっているからです。いやへたをしたら、貴方を貶めるためにわざと兵達にあの男が噂を流しているのかもしれません』

 バッセム卿やガヤズ卿、ティティーブ卿といった自分の私兵を率いてやってきた貴族達は、貴族としては格下のフスキスト卿が総指揮官というのが相当に気に入らないらしく、事ある度にシーグルに指揮をとって欲しいと無理な事を言ってくるのだ。それを宥めるのに使う気力は、敵の動きに常に神経をピリピリさせているシーグルにとっては相当こたえるものだった。

「誰が、温和、だ……」

 だからシーグルとしても、相当にストレスが溜まっていたのは当然だった。なにせこのところ食事はケルンの実しか食べれていないし、その実さえ無理矢理食べているくらいに食欲はない。昔なら、何も食べずに倒れるまで体を動かしている状況だ。

――会議続きで、座るか多少歩く程度しかしていないのも悪いんだろうな。

 だからせめて剣を振りたい。頭をからっぽにして、ただ集中して思い切り体を動かしたい。子供の頃からシーグルにとっては、剣を振る事がストレスを発散させる手段だった。体を動かして徹底的に疲れさせる事で精神の負担を減らしていたのだ。
 さすがにこの状況で倒れるくらい徹底的に体を動かそうとは思わないが、せめて少しの間だけでも集中して、ただ剣を振る事に没頭したい。思い立ったからにはどうにも我慢ならなくて、夜になって天幕の明かりを落としてから、その日、剣だけを持ってシーグルはこっそり自分の天幕を抜け出したのだった。







 夜のクリュース陣内は静かだった。
 たくさんの人が狭い場所にいる筈なのに、不気味な程辺りはひっそりと静まり返っていた。
 柵の向こうで息を潜めているかもしれない蛮族達に怯え、不安な夜を過ごしている兵達にとっては、その不安を紛らわす為に今はただ静かにしている事しか出来ないのだろう。ただそれも今はまだ彼らが不安をどうにか押しとどめていられるからで、それが限界にきたらどうなるか分からない。そうなる前に、撤退命令か増援がくるか、どちらかを兵に伝えなくてはならないだろう。

「俺のせいで増援が来ない……とは思いたくないが」

 正確には、そこまで王が愚かだとは思いたくない。シーグルにも例の噂は当然耳に入っていて、それをばかばかしいとも思うもののまさかという思いもあった。
 たとえば、王宮ではこの時点になってもまだ蛮族達を侮っていて、のんびり策謀劇にうつつをぬかして、増援の準備など後回しでシーグルをこの戦いでどう合法的に殺そうかと考えてる……としたら。自分の身の危機というよりも、そんなくだらない事でこれだけの兵士の命を弄ぶつもりなのだったら……それが本気なら、自分はもう現王を主と呼べないだろうとさえ思う。謀反など考えた事はなくとも、王を許せないと思ってしまうだろう。
 考えれば考える程気が重くなる。自分に可能な権限内では出来る事がないのだからどうにもならない。

――今は状況に対応する事しか出来ない、か。

 どうにか人気のない場所を見つけると、シーグルは大きく息をついた。それから、剣を抜くとゆっくりと呼吸を合わせて構えを取る。
 ここは予備倉庫の天幕の裏である為、光は遮られ、周囲に比べて薄暗い。刀身だけが僅かな明かりを受けて動きに合わせて輝きを放つ。呼吸が落ち着いていく、思考が落ち着いていく。意識が剣と想定する敵の動きだけに集中して行き、辺りの風景も状況も気にならなくなっていく。
 刀身の煌めきを瞳に映して、空気を切る音を聞いて、身に付いた動きのまま自然と動く体に任せる。

 けれども、違和感を感じたのはいつからか。

 それが集中を切る程膨れ上がった途端、シーグルは剣を下ろして辺りを見回した。
 確かに、誰かの気配を感じる。
 目や耳で分かる何者も認識出来ないが、妙な空気の流れを感じる。それから、膨れ上がる危機感。自分に向けられた『悪意』とでもいうべき何かを感じて、シーグルの肌がぞわりと粟立った。

「誰かいるのか?」

 声を掛けて剣を構える。
 悪意と、さらに感じるこの感覚は、欲、とでもいうのだろうか。まるでリーズガンが自分を見る時の感覚に似た、忌避すべき欲の視線、それを確かに今感じる。
 そうすれば、ふいに背後に何かを感じてシーグルは剣を払った。
 直後、一瞬だけ見えたのは人の影。それから聞こえた小さな声、そうしてまた暗闇に同化するように姿を消す何者か。

 暗闇と同化するような――といえば、思いあたるものがある。罪人の神、ヴィンサンロア神官の使う術にそういうものがあるとシーグルは昔聞いた事があった。

「ヴィンサンロアの術か?」

 だから聞いてみると、気配に僅かな乱れを感じた。
 そうしてまた、すぐ背後に今度ははっきりとした人の気配を感じてシーグルは振り返る。

「何者だっ」

 人影と共に見えた短剣を弾くと、直後に別方向からまた人影が現れる。だが最初から複数の気配を感じていたシーグルは、動揺する事なく身を屈めてその人物を蹴った。呻いた相手はそれでまた闇の中に消えかかり、シーグルはそれに追撃を入れようとした。
 しかし、そこで蹴った体勢の軸足を何者かに掴まれ、シーグルの体はバランスを崩す。
 途端、わっと辺りから沸くように現れた3人の影に、シーグルは咄嗟に剣を振り回して牽制した。だがそこにヒュイと高い音を鳴らして重りのついた紐のようなものが飛んでくると、シーグルの上半身を押さえつけるかように巻きついてきた。足を持たれた事でバランスを崩していたシーグルは、それで腕を体に押さえつけられた形になってしまう。
 勿論、勢いで巻き付いただけの紐などふりほどくだけならそこまで困難な事ではない。それでもこの状況で一時とはいえ腕が使えない事は致命的で、周りから沸いて出た者達が一斉に手を伸ばしてきて、シーグルはなすすべもなく地面に押さえつけられた。

「お前達……クリュースの兵……なのか」

 やっと彼らの姿をはっきり見て、それが蛮族には見えない、多少装備が重めの一般冒険者らしい格好だった事でシーグルは聞いた。

 これが敵の手の者ではなく味方の兵だとしたら、王に命じられてシーグルを暗殺しようとしている者なのだろうか。だがそう思った直後、おそらく紐を投げてきたと思われる男が、少し離れたところから姿を現した。

「そうさ、いわゆる傭兵枠って奴で参加してるんだがな」

 確かに男はいかにも傭兵と分かる、騎士団員とは違う自前の装備を身に着けていた。更に言うなら今シーグルを抑えている連中よりもいい装備で、おそらく彼はこの連中の纏め役か何か、彼らを指示できる立場なのだろうとも思う。

「あんたの所為でエライ誤算だ。まんまと騙されたぜ、まさか旧貴族様のあんたがこの戦いにいるのは勝てる戦だからじゃなくて、単なる厄介者として王が始末したいからだったとはな」

 なるほど、彼らは王側の刺客という訳ではないらしい。例の噂を真に受けて、シーグルに恨みの矛先を向けてきた者達だろう。刺客ではなくても、これはかなり厄介だなとシーグルは思う。

「それで、俺に恨み事を言ってどうするつもりだ。まだ闇に紛れてこっそり逃げようとでもする方が建設的だと思うが」
「何言ってやがる、逃げられないように内から外へ向けても結界敷いてあんだろ、知ってんだぞ。俺達は首都から見放されて、ここで蛮族共に嬲り殺されるんだよ」

 そんな結界を使っているという話は聞いた事がない、と言っても、シーグルは現場の人間でもなければ指示をしているのはフスキスト卿なのだから確信があるわけでもない。……それに、言ったところで彼らも聞かないと思われた。
 だから黙っていれば、男はまた勝手に喚きちらし出した。

「てめぇの所為でこんだけの人間が死ぬんだよ。あぁそうだな、あんたは逆に蛮族共が攻めて来た方がいいんじゃないか? 暗殺者はあんたを殺すつもりだろうけど、蛮族共はあんたなら殺さないで捕虜にするだろうし、俺達とは違うわな」

 とんでもない理論ではあるが一応間違ってはいない。それでもそんな事考えて敵が来た方がいいと思うバカは、いくら無能といわれている貴族騎士でもいないだろう。

「それで、俺を押さえつけてどうする気だ。まさかこんな事をしてただで済むと思っている訳じゃないんだろ、そのリスクを犯してまで何がしたい」

 シーグルはこの時、彼らの狙いは自分の身柄と引き替えにフスキスト卿に撤退を要求する事なのではと考えた。そしてそれならばそれもいいとも思った。フスキスト卿としては本当は撤退をしたいのを、首都からの命令が出ないせいでできないでいるのだ。彼らの要求には喜んで従うだろう。貴族法的にシーグルを見殺しに出来なかったと言えば、首都からの命令を待たなかった事も問われなくなる。
 捕まった自分に対しては相当馬鹿にされることは間違いなくとも、それはそれでこの馬鹿げた状況から抜け出せるならいいと思ったのだ。
 だが、シーグルの予想に反して、傭兵たちの返答はシーグルをこれ以上なく失望させた。

「は、どうせ俺らはこのまま首都に見放されて死ぬんだ。ただで済むも何もないだろ」

 聞いた途端愕然として、シーグルは何も言うことが出来なかった。
 そうすれば、押さえつけている男達も興奮した声で言ってくる。

「そ、そうさ、蛮族共は一般兵は捕虜も取らずに殺してくる、俺達に助かる手段はないんだ」
「奴らはどんどんまだ増えてるんだろ、も、もう、柵の外は奴らに取り囲まれて逃げ場もねぇって話じゃないか」
「あぁ、魔法使い達は自分達だけ逃げ出す相談をしてるって話だ」

 それでシーグルは、自分が認識している以上に兵士達の間には酷い噂が広まっているという事を知った。……今更知ったところでどうにもならないが、そこまで兵は完全に自分達は見捨てられたと思ってもう終った気でいるのかと、その事に怒りが湧くやらやるせないやらで、シーグルはただ呆然とするしかなかった。

「だからな、どうせ死ぬならよ」

 何も言わないシーグルの傍に何時の間にか来ていた男が、その場でしゃがんでシーグルに顔を近づけてくると、伸びてきた男の手がシーグルの兜を外した。そうすれば当然、兜から銀色の髪が零れて、薄闇の中、シーグルの白い容貌が露わになる。
 ごくりと、唾を飲む声が聞こえたのは誰のものか。
 男は兜を投げ捨てると、シーグルの髪を掴んで顔を上げさせた。
 それから、顔を近づけてくると、その唇を楽しげに歪めた。

「確かにこりゃ噂通り、飛び切り綺麗な顔してやがる」

 その男の顔に歪んだ『欲』の色を見て、シーグルは男が何をしようとしているのかを理解した。……が、途端に無性に腹がたってきた。

「もう助からないと自暴自棄になって、俺でウサ晴らしをしようという訳か」

 男の目はシーグルの顔や首筋を楽しそうに見て、ちらと出した舌で唇を舐める。

「そうだよ、あんたの所為で俺達はもうお終いなんだ、そのあんたに償わせてやろうっていうのさ、俺たちゃその権利がある」
「何が権利だ、お前達は噂に踊らされて勝手に死ぬ気になっているだけだ」

 シーグルが怯えた様子をみせず睨んだ所為か、男は不機嫌そうに眉を寄せた。

「けっ、馬鹿言うな、敵に捕まっても殺されやしないてめぇと俺達は違うんだよ」
「まだ取れる手段もあるし、蛮族達も動いてないのに、そうあっさり死ぬ気でいる貴様らの方が馬鹿な事を言っているだろ」
「うるせぇ、そう言ってお偉いさん達は下っ端を騙すんだよ、まだ大丈夫だ、我々の方が有利だってな。そうして俺達を前面に出しておいて、危なくなったら自分達だけはさっさと逃げるってのがいつもの事さ」

 確かに、貴族騎士にはそういう者がいる。そして戦場において、上にいるものは兵士達にこちらの不利を言わない事は多い。彼らが上官に対して疑心暗鬼になる気持ちも分かりはしても、悪い噂を丸まる信じて自暴自棄になっているのは許せなかった。

「そういや、指揮官様の傍にゃクーア神官もいたっけなぁ、もしかして偉い奴らだけは転送で逃げるつもりなんじゃねぇのか?」

 尚も男に言い返そうとしたシーグルは、その言葉を聞いて思わず開きかけた口を閉じた。いざとなったら自分だけは転送で逃がすつもりできた、クーア神官の少女の姿が頭をよぎる。何があってもシーグルだけは助けるつもりで、セイネリアは自分の部下を送り込んでくれている。だから本当は彼らの言うように、自分だけは助かるからと、だからこの状況でもまだどうにでもできると思い込めているのではないかとも考える。

「はん、図星指されて何もいえねぇか。後はもう、てめぇは大人しく俺らに体差し出して鳴いてりゃいいんだよ」

 男達の笑い声と、纏わりつく欲の視線にシーグルは目を細めた。
 不安と不満が表面に出ていないだけで、彼らのように考えている兵士達はどれくらいいるのだろう。どれくらいの兵士が、既にもう助かる事を諦めて自暴自棄になっているのだろう。大半の兵がそう思っているのなら、撤退命令が来てもまともに逃げられるのかさえ怪しい。増援が来る場合は相当数がこなければ、残った兵達の気力は復活しないだろう。
 現状に最悪の未来しか思いつかなくて、シーグルは歯を噛みしめるしかなかった。




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ってことでやっとこさ次回がエロ。



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