【3】 砦派遣や出兵が決まると、通常、首都の騎士団本部所属の者には準備期間として数日の休暇が与えられる。今回そうして隊員達に与えられた休暇は3日で、首都近くに実家があるものはその間に帰って家族に会ってこられるものの、地方出身者はそのまま騎士団内に留まって、街に出て遊んでくる程度で済ます者が大半だった。 そうして隊員達が休暇を取っている間、シーグルといえば様々な手続きやらの事務処理に追われていて、そうなれば文官であるキールも休暇を取る事なくそれに付きあうのは仕方なかった。 部下がいないと朝礼もない為、朝、騎士団に来てからずっと机に座りっぱなしだったシーグルは、大きく背伸びをするとひたすら下を向いて作業している文官の青年を見た。 ちなみに、いつもならこういう時の部屋の中にはナレドもいる筈なのだが、彼は今、リシェでロージェンティの手伝いをしている為ここにはいなかった。 「悪いな、キール」 「いいぇえ、べっつに構いませんよぉ。どーせ休暇だといって帰る実家がある訳じゃないですし、街に出てぱーっと遊ぶ気もないですしねぇ」 他の者だったら気を使って言ってくれたようにも取れるそんな台詞も、彼の場合は本当にその通りなんだろうなと何故か納得出来てしまうのだから不思議だった。 「まぁあれです。私に悪いと思うのでしたらぁ、ちゃっちゃとやることをぉ済ませちゃってぇくださいなぁ」 「そうだな」 山積みにされた書類と資料を見て、シーグルは溜め息とともに答える。 実は、シーグルがこんなにも事務処理に追われているのは、何も出兵に向けた手続きの為だけではなかった。どちらかといえばそれよりも多いのは、戦場となるだろうノウムネズ砦周辺の地形や気候の資料、また蛮族達に関する資料を集めてそれを整理していたからだった。 後は個人的な用件として、チュリアン卿と最近手紙のやり取りをしていたので、出兵前にこの間の返事を出しておかなくてはならないというのがあった。その他にも、自分に何かあった場合を考えて手紙を書かなくてはならない人物が数名……予備隊隊長として以上にリシェ領主としての仕事も考えると、行く前にやることはいくら時間があっても足りない状態だった。 「まぁ〜大丈夫ですよぉシーグル様。家の方は幸いまぁだ前シルバスピナ卿がご健在ですからねぇ」 確かにこういう場合はそれが心強い、とは正直シーグルも思うものの、いつまでも祖父に頼っている自分が情けなくもある。 「それにぃですねぇ、貴方の奥方様はそりゃぁしっかりした方ですからねぇ、何か問題が起こったとしてもきっとうまくやってくださいますよ」 それにはシーグルも笑って返す。 「そうだな、いっそ彼女の方が俺よりもそういう時の対処はうまい」 「でしょうねぇ」 と、本当に深く納得したようにキールが大きく肯きながら腕を組んだことで、シーグルは笑い声を上げた。そうすればキール本人もぷっと吹き出した後笑い出し、静かな部屋には二人分の笑い声が響く。けれどその笑い声を止めるようにリパ大神殿の鐘の音がして、彼らに現在の時間を告げた。すると――。 「ふむ、そろそろ約束の時間でしょうかねぇ」 「どういうことだ?」 笑みを収めて立ち上がったキールの行動が理解出来なくてシーグルが聞けば、彼は大きく背伸びとあくびをしてから、シーグルに手を振って部屋から出ていこうとする。 「いやぁ、今日は貴方に大事ぃぃぃなお話があるというお客様がいらっしゃる事になってましてねぇ」 そんな事をさらりと言って、その客が誰かも、どうして席をはずすのかも何の説明もなく彼が部屋のドアを開ければ、そこには予備隊の格好をした騎士が一人立っていた。 「誰だ?」 格好からは予備隊と分かっても、見覚えのない相手に警戒する。けれど彼が顔をあげた途端、シーグルの緊張は一気に溶けていった。 「いやぁ、ちぃっといろいろ込み入った話がありましてねぇ。路上の方が危ないんでいっそこっちにお伺いしたって訳っスよ」 彼の髪の色でなぜすぐ察しなかったのだろうと思っても、格好のせいで思い至らなかったのだろうと結論づければ自分の考えの浅さに少し落ち込む。 セイネリアの部下である見知った灰色の髪と瞳の男は、口調だけはいつも通りに軽いノリでシーグルに芝居がかったお辞儀をして見せた。 「それじゃ、私はかるぅく資料探しにでも行ってきます」 「あぁ、分かった」 そういう事ならキールが席をはずしてくれるのも理解出来る。……だが、キールと彼がいつの間に連絡を取り合えるような仲になったのかは後で聞いておくべきだな、とシーグルは思った。 「しかし、その格好はどうしたんだ。後で騒ぎにならないのか?」 騎士団の中に堂々と入る為なのだろうが、誰かから無理矢理はぎ取って着たのなら後で騒ぎになる。そう思ってシーグルは聞いたのだが、いつでも飄々とした雰囲気の男は、いつも通りの笑みを浮かべたまま、いつも通り気楽そうに答えた。 「あぁ、その心配はないっスよ。ここくる前に兵舎に寄って来ましてねぇ、遊びに行ってる誰かさんの装備をちょっとお借りしてきただけっスから。ちゃんと返しとけば問題ないでしょ」 あぁ成る程、と感心した後に、今現在遊びに行ってる連中といえばと考えて、彼が装備を借りた相手は自分の隊の誰かじゃないだろうな……とシーグルは思わず彼をじっとよく見てしまった。 「さぁって、あんまのんびりしてられないので、お話だけ済ませちゃいまスか」 だがそう言われて、シーグルは頭を切り替えて表情を引き締める。この男は相変わらず表情が読みづらいが、彼がここにいるなら用件は一つしかない。 「貴方が来た……という事は、セイネリアからの伝言か?」 「そうッスよ、勿論。まぁ他にもありますが」 分かっていたのに、彼の答えと同時に口元に力が入る。あの男の影が浮かぶたびに、心が重くなる。 「まずは情報っスね。『蛮族共の後ろにはアウグがいる』それと『アウグから蛮族に断魔石が渡されている』ってのを覚えておけって事っス」 シーグルはごくりと喉を鳴らす。 確かに、アウグが裏にいるのではないかという予想は、騎士団の会議でも出たことはある。だがまだ騎士団では確証までは至っていない。 そして、もう一つの件に関しては。 「断魔石? いくら渡したといってもそこまで大量に用意出来るものではないだろう」 こちらの魔法に対抗する為に断魔石というのは分かるが、戦況に影響を与える程となれば相当に量が必要だとシーグルは思う。そして、アウグがバックにいたとしてもそれだけの数を用意できているとは思えなかった。 「えぇですが、敵さんは相当魔法を研究してるようでしてね、効果的に巧く使ってくるかもしれないって事っスよ。まぁ、それで何か起こった時、事前に知っているのと知らないのでは大きい差があるから頭に入れておけって事でしょうね」 「そうだな……」 それは素直に肯定する。確かに、事前に頭に入っているだけで、何か起こった時の対応の早さは格段に変るし、選択肢自体も大幅に増える。 それで断魔石の使い方を考えてシーグルが黙りこめば、フユは懐から何かを取り出す。ただそれに気付かなかったシーグルは、フユから手の上に乗せたそれを目の前に差し出されるに至って驚いた。 「……なんだ、それは?」 半分嫌味なんじゃないかという程にっこりと笑って、フユは更にそれを乗せた手をシーグルに向けて突き出した。 「シーグル様、これに貴方の血を少しばっか貰いたいんスけど」 シーグルはそれで、更に目を見開いてまじまじと彼の差し出したものを凝視する。 「だから、なんなんだそれは」 彼が持っているものは木で出来た小さなリングで、サイズ的には指輪のように見えるが、指輪としてはあまりにも飾り気がない。 するとフユは意外そうに軽く目を開いて、それからやはりいつも通りの笑顔で答えた。 「おや、知りませんか? これは、セレタクトーンの木を削って作った『知らせの指輪』っスよ」 「……知らないな」 シーグルの即答に、フユは笑いながら今度は少し声を高くして大仰に手振りまで入れて返す。 「おんや、愛の女神サネルの神官がたまーに売ってるじゃないっスかぁ、馬鹿高い値段つけて。知りませんかね?」 サネルの名前くらいはいくらシーグルでも分かる、が……だからこそ表情が引き攣るのは仕方ない。 「あ、愛の……? あいつがそんなモノを寄越したのか?」 「愛を誓い合った仲の恋人が離れ離れになる時に贈る……相手の無事を確かめるためのアイテムっすよ」 「あ、愛を誓い合う、というのは、その……」 セイネリアの顔が浮かんで、その『らしくなさ』に冗談だろうと思う反面、彼なら臆面もなく『何がおかしい』とか大真面目に言いそうでもあって、シーグルはなんだか考えるだけで冷や汗が流れてきた。 狼狽えたあまり固まってしまったシーグルを見ると、フユはその大げさなポーズをやめてへらっと笑いながらシーグルの手を引っ張って、そのまま強引に指輪を握らせた。 「まぁ早い話がですね、こいつに一滴の血をやると、その人間の命と繋がるんスよ。つまりですね――もしこれに貴方の血が取り込まれると、貴方が死んだ時にこの指輪も死ぬ――そういうシロモノです」 そこまで聞けば、シーグルもセイネリアの意図が分かる。つまるところ彼はそれだけ――戦場に行く自分の生死を真っ先に知りたいのだろう。 「……あいつはそんなに……俺が死ぬのが怖いのか」 ぎゅっと手の中の指輪を握り締めてシーグルが呟く。 「勿論っスよ。今回の件に関しては、そりゃーいろいろ手ぇ回してンですよ、うちのボスはね。まぁ、まだ決定的に何か起こった訳じゃないですから、ボス自身が動いちゃいませんけど」 「そうか」 暫く指輪を握り締めたまま下を向き、黒い騎士の姿を頭の中で見ていたシーグルは、次に差し出された錐のような尖った鉄の棒状の武器を差し出されてそれを受け取る。そしてそれで指先を指して、落ちた血を指輪に落とした。 一見みすぼらしい木の指輪の上に落ちた血はすぐに吸い込まれ、その場所からいくつもの小さな芽が生えてくる。それは見ている内に細い蔓としてみるみる伸びて、絡まりあいながら指輪の表面を覆っていく。 蔓が成長を止め、指輪の表面を覆いきってから、シーグルはそれをフユに差し出した。 「これでいいか?」 指輪を渡された、最強の男の部下である灰色の髪の男は、握りしめてその感触を確かめながら、彼らしくない少しだけ困ったような顔で笑った。 「確かに、受け取りました。そンで……これはボスからじゃなくて俺からの頼みっスけど……何があっても生き延びて下さい。例え死んだ方がマシと思っても生きる事を諦めないで下さい――勝手な願いですけど、きいちゃくれませんかね」 彼らしくない表情で、彼らしくない事を言い出した事で、シーグルはただ驚くしかなかった。けれどもその先の言葉を聞けば、人を殺す腕も相当の手練れだろうこの男がこんな事を言い出したのを納得せずにはいられなくなる。 「あんたが死んだらあの人はあの人じゃいられなくなる。セイネリア・クロッセスは、少なくとも周りからおそれられる最強の男じゃなくなるでしょう。だから、あの人って存在をあんたが大切に思うなら、何があっても死なないで下さい。生きてさえいてくれりゃ、ボスは何があってもアンタを助けにいくでしょう。……アンタなら分かると思いますが、相当に俺は酷いお願いをしているつもりです。ボスの為に、それだけの覚悟をしてくださいというのが俺の……いや、団にいる皆の願いなんスよ」 シーグルは固く掌を握り締める。口元をぎゅっと噤(つぐ)んでゆっくりと目を閉じる。 ――愛している、と彼は言った。 言葉だけではなく、全身で彼はそれを伝えてくれた。 あの強い男が自分を見る瞳はいつでも苦しそうで……けれども優しくて、何より愛おしいのだと訴えていた。 自分が失われる事が怖いのだと言った。 自分の為に傷ついて、苦しんで、それでもシーグルがらしく生きる為なら、尚も傷つく事を選んでくれた。 自分が死んだら……彼がどれだけ動揺するのか、もしかして取り乱すのか、そんな彼を見たくなくて、想像すらしたくなくて、シーグルは歯を噛みしめて体の震えを止めようとする。 それから、閉じた時と同じくゆっくりと目を開いて、やっとの事で口を開いた。 「分かった」 それ以外に、あの黒い騎士の為に言える言葉をシーグルは持たなかった。 --------------------------------------------- セイネリアさん勝手に自分的婚約指輪(?)ゲット。 |