愚かさと間違いの代わりに




  【3】



 翌日は朝からよく晴れて、シーグルは平常時と同じまだ早い時間から鎧を着こみ、鏡で自分の顔を見て苦笑すると兜を被った。
 顔色はあまり良くないがそこまで酷くはないと思う。顔を見られても薄暗い馬車内であればどうにか言い訳が出来る程度だろう。昨日は昼にエルのお蔭で少し眠れた分まだ助かった。そうでなければいくらセイネリアの前でも気を張っていられる自信がなかったなと薄く笑って、シーグルはセイネリアの執務室へ向かった。

 昨夜遅く、シーグルの元へソフィアがセイネリアの言葉を伝えにやってきた。用件は明日の登城時にはついてこれるかというもので、ただし命令ではないから断ってもいいとも付け加えられていた。どうやら最近、セイネリアが行くたびにシグネットがレイリースは大丈夫なのか、何時これるのかと聞いて来るらしく、だからシグネットに姿を見せるだけでもいいからと、朝の謁見だけは付いてこれるかという事だった。
 恐らくそれは、セイネリアがこちらの様子を見るために試しに聞いて来たのもあるのだろうとシーグルは思った。少しづつでも仕事に戻れそうならついて来いと、シグネットの名を出したのは我が子の姿を見ればシーグルの気分的にもいい影響があるだろうと考えたのかもしれない。
 正直体調は最悪に近く、セイネリアに対しての気持ちの整理もまだついているとは言い切れない。けれど、いつまでもこうしていてもだめだという思いはある、だからシーグルは了承を返した。それに自分でもセイネリアの思惑通り、シグネットの顔を見れば少しは気力が戻って精神が安定するのではないかと考えたのもあった。

 執務室へ行けば、セイネリアは既に準備を終えていてシーグルは安堵もしたが自嘲もした。単純に今の彼と話さなくてならない仕事が減った事にほっとしたのと同時に、主の準備の手伝いも出来なくて何が側近だという思いと、自分は本当にこのところ今の立場での仕事を放棄してばかりだと思った。

「いくぞ」

 セイネリアはシーグルを見た途端それだけを言ってすぐに部屋を出た。だからシーグルは将軍の執務室へ入ってすぐに部屋を出て主に従った。セイネリアは建物を出るまで何も言わず、待っていた馬車へは当然のように一緒に乗るように言われた。
 シーグルとしては自分の体調が分っていたからこそ、一番危惧していたのは馬車の中でセイネリアに顔を見せろと言われる事であった。どうにか誤魔化せると思ってはいるものの、実際体調が悪そうに見えるという自覚はあった。だから顔を見せろと言われるのが一番怖くて――けれどセイネリアはその日はシーグルに兜を取れという事はなかった。彼が自分から距離を取るようになってからのいつも通りといえばそう言えなくもないが、会話もなく、ただ城につくまでの時間を過ごす事になった。
 結局、朝セイネリアと会って城の子供部屋に付くまで、シーグルは彼と三言程度しか会話をしなかった。それは確かに恐れていたことがなくてほっとはしたが、シーグルにとって確信出来た事もあった。

 今の彼は、きっと自分を見たくないのだ。
 おそらくそれは……自分を見ると辛いから。







「れいりぃ〜♪」

 子供部屋に入った途端喜んで走ってきた子供は、シーグルの予想に反してセイネリアにではなくシーグルに向かって飛びついてきた。それが意外すぎて驚いたシーグルは、セイネリアのように咄嗟に抱き上げる事が出来ずに子供が足にぶつかるのを許してしまった。
 ぶつかって、そのままこてんと転がった子供に、シーグルは狼狽えてしゃがみ込んだ。

「陛下っ」

 慌てて手を伸ばせば座り込んでびっくりしていた子供はその手を掴む。それからすぐに立ち上がると、にっこりと笑って腕を上下にばたばたさせて期待一杯の目でこちらを見てくる。

「抱きあげてやれ」

 そうセイネリアに言われて思わず辺りを見渡せば、ウィアは笑っているのだが護衛官連中は厳しい顔をしていて、とはいえセイネリアが頷いたからシーグルはそのままシグネットの脇に手を入れて持ち上げた。
 はしゃいで足を揺らした子供は、抱き上げるとすぐにしがみついてくる。見おろした銀の髪の毛がきょろきょろと動く頭に合わせてふわふわと舞えば、思わず撫でてしまいたくなってシーグルは動きかけた手を握り締めた。

「れいりぃ、ねー、おれ、おっきくなった?」

 急に顔を上げてそう聞いて来るから、シーグルは驚いてすぐに返事が出来なかった。

「おっきくなったらけんおしえてくれるよね」

 あぁそれでか、と分かったシーグルは兜の中で笑みを浮かべた。

「はい陛下、陛下はまた大きくなられました。ですが、剣を習うにはまだもっと大きくならなくては」
「そっかー」

 少しがっかりした顔をしている子供を、シーグルは感慨深く目を細めて眺めた。
 本当に、子供の成長というのは早いものだと思う。
 あの式典からまだ一月も経っていないのに、前よりも確実にシグネットは重くなった。今ならあの時程長くは抱いて逃げられないだろうと思うくらいに。

「気が早過ぎだ、まだ剣なんか重くて持てないだろ、お前は」

 ウィアがやってきて言えば、シグネットは少し唇を尖らせて悔しそうに声を上げる。

「もてるー、れいりぃのけんもてた!」
「あれは短剣だろー」
「もてた! おれもうけんつかえるのっ」
「まーだまだだな。それにレイリースに習うよりまずフェズに習って体作ってからって約束したろっ」
「うー」

 そういえば言葉も随分はっきりしたとシーグルは思う。いつもウィアとこうして言い合いをしているせいか、シグネットは随分と言葉の発達が早いようだった。まだ『レイリース』は難しいらしくて『れいりぃ』と自分を呼ぶのは変わらないが、いつの間にか『将軍』はもう言えるようになっていたし、単語だけじゃなく前に比べればちゃんと文章になってきている。
 自分が父親として抱いていた頃はまだ本当に小さくて、たよりなくて、言葉どころか反応が分らなくて寝ている時以外はおっかなびっくり触れていた覚えしかない。それがこうして言葉で主張が出来るくらいになって、ちゃんと一人の人間として自分の意志で行く道を決めようとしている。

 あともう少ししたら昔父さんが作ってくれたように木を削った剣を作ってみようか。振り回しても危険じゃないような軽い木を探して――そう考えて、今更ながらにシーグルはそこから胸に広がってくる寂しさに気付いた。

――何を考えているんだ、俺はもうこの子の父親と言えないのに。

 そう自分に言い聞かせれば、胸にわっと膨らむ感情がある。
 せめて、ほんの手ほどき程度でも剣を教えてやれるくらいの歳まで父親として傍にいてやれたなら、この子に『父親から習った』という記憶を残してやれたのに。そこまで出来なくても今の歳まで一緒にいられたら顔を覚えていられただろうに、と。思った途端、子供の頃の父親に対する記憶とその時の感情が次々シーグルの頭に蘇ってくる――大好きな父親、騎士だった父親は誰よりも強くてかっこ良くていつでもシーグルの憧れだった。父のようになりたくて、マネしようとしてたくさん母を困らせた。シルバスピナの家へ行ってからは独りぼっちの寂しさの中、父との約束が心の支えだった。強くなりなさい、といった父の言葉に応える為に必死に鍛えた。家族との幸せな思い出があったから、どんなに辛くても自分は運命を恨まずに前に進めた。
 考えれば、自然と目に涙が浮かんでくる。
 自分はそんな記憶一つこの子に残せなかったのだと、胸一杯に広がる寂しさに胸がじくじくと鈍く痛む。もう割り切った筈なのに、この子に自分の姿を明かしてやりたいと思ってしまう。
 けれどふと、そう思った途端に自分の中に囁く声があった。

 もう、戻れない。
 もう、自分は彼らと同じ時を過ごせない。

 そうしてシーグルは、ふと前にエルに言われた言葉を思い出した。

――あぁ、そうか。

 途端、自分の中にすとんと落ちてくるモノがある。
 エルがある日ふと分かったと言っていた通り、その時が今来たのだろうとシーグルは思った。ずっと実感出来なかった、自分の時が止まるというその意味が感覚で理解出来た気がした。
 確かな我が子の重みをその腕に感じて、シーグルは歯を噛みしめた。
 この先――シグネットはもっと大きくなって、大人になって自分と同じ歳にまでなり、それから追い越していく。自分はこの姿のまま変わらないのに、我が子はどんどん歳を取って、やがて老いてゆく。自分は見送る側の存在なのだ、父親として息子に託していく事もなく、ただシグネットを離れたところで見て、見送る事が自分の役目だと。

「そんなちびじゃまだまだだ」
「すぐおっきくなるー、びせんともすぐうぃあよりおおきくなれるってー」
「俺よりって……ヴィセントー」
「ほぼ確定の事実でしょ。両親の身長的に考えて」

 そのやりとりに、部屋の中は笑い声で満たされた。
 かつての部下達、兄弟達、大切で守りたかった人々を見渡して、笑う彼らを見て、けれどシーグルは自分の心が酷く冷えて行くのを感じていた。
 彼らも自分を置いて行ってしまうのだと思えば、笑い声も、笑顔も全て遠くに見えて、どうしようもなく疎外感を感じてしまう。笑う彼らの輪の中にもう自分の居場所はないのだとそれを自覚すれば心がどんどん冷たく凍えていく。シーグルは込み上がってくるその感覚をどうにか耐えて、口から溢れそうになる嗚咽を飲み込んだ。

「れりぃ、どうしたの?」

 顔は兜に隠れていてもこちらの様子がおかしい事は分かってしまったらしく、シグネットが心配そうに見上げてくる。ここで何か言ったら絶対に声が震えるのが分るからこそヘタに何も言えなくて、シーグルは歯を噛みしめたまま黙っていた。

「シグネット、こっちへ来い。そいつはまだ体が本調子にまで戻ってなくてな、やはり仕事に戻るのは早かったようだ」

 そういってセイネリアが手を出したから、シーグルはそのままシグネットを彼に渡した。小さな子供は大人しくセイネリアに抱きつきながらも心配そうにこちらを見ている。シーグルはそれに頭を下げて、申し訳ございません、と答えるのが精いっぱいだった。

「最初から今日は朝だけの予定だ、先に馬車に戻っていろ」

 その言葉を聞いてすぐ、シーグルは更に深く頭を下げて部屋から立ち去った。
 愛しい我が子、愛しいかつての兄弟、友人、部下達の姿を今は見たくなかった。一秒でも早くそこから離れたかった。

 覚悟なら既にしていた筈だった。
 もう帰らないと、セイネリアと共に行くと、彼と契約した時から覚悟を決めていた筈なのに――なのに何故、今更こんなに辛いと思ってしまったのか。

 それは、おそらく。
 『帰らない』ではなく『帰れない』事が分ってしまったから。

 あぁそういう事なのだと今更に分っても、心がどうしようもなく寒くて痛い。馬車に戻って両腕で自分の肩を抱けば体全体が小刻みに震えているのが分かった。更には一人で隔離された空間に入った事で、周りからざわりと膨れ上がる気配を感じる。確実に錯覚だと思うのに、急いで震える手で窓のカーテンを開けて外を見た。
 それで人の姿を見つけて少し安心したシーグルは、遠くからでも目立つ黒い影が近づいてくるのに気付いた。

――だめだ、あいつに気付かせるな。

 シーグルは大きく深呼吸を繰り返し、どうにか息を整えようとする。震える体を必死に抑え込む。ガチガチと音を立てそうな歯を食いしばってどうにか押さえ込んだ。

「大丈夫か?」

 馬車の扉が開いて黒い騎士が姿を現すのを、シーグルは出来るだけ姿勢を正して迎えた。

「少し……辛くなっただけ、だ」

 言えばセイネリアは一瞬の沈黙を返した後、自分も馬車に乗ってこようとする。

「今日は帰るぞ、無理をする必要はない」

 だが、そうして彼が横に座って伸ばしてきた腕を、シーグルは反射的に叩いて拒絶していた。

「触るなっ」

 今触られたら、体の震えが分ってしまう。
 そう考えて言ってしまった言葉の後で彼を見れば、表情を隠した仮面の中、その金茶色の瞳を僅かに細めて彼は呟いた。

「分った。すまなかったな」

 そうして彼は一度乗った馬車を下りる。

「先に帰っていろ、向うには連絡しておく」

 それで背を向けたセイネリアに、シーグルは何も言う事が出来なかった。
 馬車の扉が閉められ、途端、大きくなる体の震えを両腕で押さえつけて、シーグルは心の中で彼に謝る事しか出来なかった。



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 またこじれてます(==。
 



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