愚かさと間違いの代わりに




  【2】



 早朝の将軍府、ただその日は夜間から降っていた雨がまだ降り続けている所為か暗く、朝なのに書類を見るにはランプ台に明かりを置く必要があった。

「夫人の件はそれでいい。……それで、奴については何か分かったか?」
「いえ、何も。魔法使いが接触した気配もありません」
「魔法ギルドから何か情報は?」
「……同じです、過激派の魔法使い達としてはあの男は既に用なしとして逃がしてしまったと」

 普通なら見張りくらいしか起きていない早朝のこの時間、カリンから昨日の報告をまとめて聞くのがここのところのセイネリアの日課になっていた。場合によってはフユもいる為、かなり余裕をもって時間を作っているのでどうしても始めるのがかなりの早朝になってしまう。シーグルの部屋に通っていた時なら、この時間は一度起きて彼の顔を眺めているかまだ抱きしめて眠っている時間だから、随分働き者になったものだとセイネリア自身思うところだ。

「まぁいい、魔法使いの協力がないなら現状で大した事は出来ないだろ。ただ引き続き何か情報があれば探っておけ、奴が生きていると思うだけで胸糞が悪い」

 リーズガン・イシュティト、本当に胸糞が悪い――セイネリアにとってただそれだけの存在だった。権力のある人間にこびてその威を借り、醜い欲でシーグルを散々嬲り、貶めた。小物のクセにいつもやけに運がいいせいで逃げられている、いや、小物だからこそいつも後回しにされて逃げきられているのだろう。まるで歯に挟まったカスのように不快な存在、だからこそさっさと確実に消してしまおうとして――セイネリアはまんまと敵の罠にはまったのだ。
 自分の失態を分っているからこそ、セイネリアはこの件について今後は基本的にカリンに任せ、自分は指示だけをする事にしていた。

「奴について問題になるのは『シーグルが生きているのを知っている』という点だけだ。後は何の力も持たないただの雑魚だ、見つけたら消しておけ、許可をとる必要もない」

 セイネリアは基本的には、邪魔者を排除する時も簡単に殺して終わりにすることは滅多にない。相手の立場を追い込んで勝手に自滅させるか、そこからどう抜け出すかを見るのが通常だ。ただリーズガンだけはその存在自体が不快として、さっさと消してしまいたいと思っていた。

「ボス、本日はまだ私が付きますか? シーグル様に声を掛けておきますか?」

 それで頭を切り替えたセイネリアは、一瞬考えた後に自嘲と共に答える。

「お前がつけ、あいつは……とりあえず今日は休養させておく、あとでドクターに話を聞いてから明日以降を考える」
「了解しました」

 彼女は即答を返してくるものの、負担を掛けているというのはセイネリアも分かっていた。なにせ彼女はこの手の仕事以外でもシーグルの仕事をかなり肩代わりしているため忙しい。ただ無理なら無理だと言ってくるので今はまだ部下に仕事を振ってどうにか出来ているのだろう。

「あまり、あいつを放置しておくのも良くないか」

 シーグルの事であるから本人に怠ける気などないだろうとはいえ、あまり休養ばかりさせているとさすがに宮廷内どころか元団員達からも勘繰られるようになる。例の襲撃事件での負傷による静養とはいっても、魔法で怪我自体がすぐに治せるクリュースではそうそう長くは使えない手だ。
 それに真面目過ぎる彼の場合なら、逆に仕事を与えず放置しているほうがいろいろと溜めこんでしまうかもしれない、とも考えられた。いっそ、体調的な問題がないなら一度軽く仕事に復帰させてみた方が彼にとってはいいのではないか。

「鎧姿のあいつなら……俺も大丈夫だろうしな」

 それにはどうしても唇が歪む。
 一度シーグが死んだと思ってから全ての気力が失せたセイネリアは、それで帰って来た彼を見た時に胸が酷く苦しくなった。彼に触れたい、彼が生きている事を感じたいと思うのに、触れる事が怖くて彼に触れられなかった。一度でも触れたらそのまま彼を全身で感じたくなって、しかもその欲が強すぎてまた彼を壊すまで貪りつくす予感があった。失われたと思った恐怖を彼にぶつけて獣のように彼を求める自分の姿が予想出来た。

 だからわざと彼を突き放した。
 彼を感じないようにした。

 あの時……指輪が燃えた瞬間、その意味を理解してセイネリアの思考も体も全ての時が止まった。指から上がる青白い光を呆けたようにただ眺めて、燃え尽きるまでをじっと見ていることしか出来なかった。指から完全に姿を消すまでそれを眺めて、その後に指を触って感触を確かめた。それで一気に彼が死んだのだという現実が全身に圧し掛かってきて、セイネリアは足から力が抜けて背を壁に預けた。
 襲ってきたのは、怒りと悲しみと……とてつもない、あれは孤独感だったのだろう。
 黒の剣によって死ぬ事が出来ないと分かった時と同じ……いや、あの時より感情があるだけそれはとてつもない冷気となって心を凍り付かせ、目の前に映る風景が闇に閉ざされて見えなくなった。

 彼が死んだのなら、自分はただ一人でこの心を抱えたまま生き続けなくてはならない。

 一度、彼が共に生きてくれるという悦びに満たされた分その落胆と孤独感は深すぎて、セイネリアはただ途方に暮れた。
 だが、感情は死んで何も感じられなくなったのに、思考だけは動いていた。
 目の前が暗くなる、というのは比喩ではないのだとそんな馬鹿な事を他人事のように思って、自分という無様な人間を見下して後はただ考えた。彼の死の意味を感情が感じる事を拒否したから、理性だけで考えるしかなかった。
 どうすれば防げた、どうして自分はこんな場所にいる――どれもが全て自分の判断が間違っていたという答えに繋がって、何故自分がこんなミスをしでかしたのかを冷静にただ考えた。結果としては……彼を失いたくなくて、彼が大切すぎて、判断が全てそこを通した所為で間違ったのだという結論しか出なくて、自分を自分で冷やかにただ見下ろした。
 愚かで、無様で、惨めな男。
 自分という人間が感情を通すとここまで使えなくなるのかと嘲笑うことしか出来なかった。
 そうして……落胆した。
 いつまでもそんな考えてもどうにもならない事をぐだぐだ考えている自分に……考えれば考えるだけ惨めになるだけで、一向に狂いださない自分に。

 そこから歩き出すまで、どれくらいそうして考えていたのか。
 歩き出してからはただまっすぐ部屋の壁を破壊していって……通常の廊下に出られた時に使用人に声を掛けられ、魔法ギルドからの使者がきている部屋に通された。

 そこでシーグルが生きていると聞いた時、再び体から一気に力が抜けて、その場で馬鹿みたいに声を上げて笑う事しか出来なかった。
 あれは安堵した、というより自分の救いのなさに笑ったのかもしれない。
 ともかくそれでリーズガンの件は一度放棄し、夫人は後で迎えを寄越す事にしてギルドの使者であるその魔法使いの転送で首都へ帰った。それからすぐにラストに帰還命令を伝えるようにいって、実際シーグルが帰ってくるまではただじっと椅子に座って待っていた。
 彼の顔を見た時も、安堵よりひたすら苦しくて……恐かった。この彼を失い掛けたのだと思うとその顔を見る事さえ苦しくて息が出来なかった。彼が死んだのを知った時には狂えなかったのに、今の彼を貪る為に狂いそうで感情を殺すしかなかった。

「カリン」
「何でしょう?」

 唐突に、セイネリアが机に視線を落したまま彼女の顔を見る事も無く呼べば、前に立っていたカリンは即座に返事を返した。
 セイネリアは感情のまったくない声でその彼女に尋ねる。

「俺は、冷静だと思うか?」
「私には、そう見えます」

 彼女は考える事もなく即答した……だが。

「今の俺は平静であると思うか?」

 その質問には、彼女の答えが即返ってくることはなく、彼女は少し考えた後に答えた。

「我々に対する指示や、ボスの公での立場としての言動には問題がないと思います、ですが……」

 セイネリアは唇を皮肉に歪めた。

「つまり、見た目上は平静に見えているが、実際はおかしいという訳だな」

 カリンは返事を返す事はなく、ただそれを肯定するように悲痛な顔で深く頭を下げた。







 夜から降っていた雨は昼過ぎになって止んで、まだ雲は多いものの僅かに日差しが回復してきた、夕刻より少し早い時間、将軍府の見張り台がある屋上ではエルとシーグルが剣を合せていた。

 エルは元傭兵団の連中の中でもその腕は上位に確実に入る、が、上から見て五指に入るという程でもない。……ただそれは勿論術なしという条件の話で、アッテラの神官はただの信徒より肉体強化の術の上限が高いから、術まで考慮に入れればまた話は別になる。とはいえ、最大限まで強化を使えばその後に体が持たず壊れる可能性がある為、手合せや仕事での通常戦闘で使える強化は信徒と同じかその一段上程度までだ。訓練なら術を使わないのが普通で、だから訓練目的での手合せではまずシーグルレベルが相手だと負ける。
 の、だが。
 長棒を前に出して、それに手ごたえが少しだけ返ってきたことにエルは驚いた。
 いつもなら当たらない、完全に避けられるタイミングだったのに、僅かにそれはシーグルの体を掠ったのだ。
 その体勢から長棒を横に倒して回せば、それをシーグルの剣が受ける。これも普段ならわざわざ受けずに避けられるタイミングだろとエルは思う。だからエルは受けられた長棒をそのまま押し込んで前に出ると、足を出してシーグルの足を引っ掻けようとした。

「くっ」

 流石にそれは成功しなかったが、シーグルは体勢を崩して大きく後ろへと下がっていた。すぐに体勢を立て直して構えてはいたものの、その肩が上下に動いているのを見て、エルは構えを解くと長棒を回して肩に立てかけた。

「あー、ここでちっと休憩にしねーか」

 言えばシーグルも構えを解く。流石に彼の場合は休憩だからといっても背筋を伸ばして綺麗な姿勢で立っていたので、エルは背伸びをしてからちょいちょいと手招きをしてみた。
 呼べば素直にやってくる彼にちょっと嬉しくなって笑ってしまうが、手が届く距離にくれば腕を背中から回して、飛びつく勢いで体重を掛けて抱きついてやる。

「休憩だっていったろ、まず座れ座れっ」

 それでやっと彼が座ろうとしたのを見たから、エルは離れて彼の正面に座った。
 それから、互いに向かい合って座ってからまず一言。

「あのな、お前まだ体が本調子じゃねーだろ」

 シーグルは明らかに狼狽えた様子を見せる。今の彼はレイリースとしての格好で兜まできっちりつけているから顔は見えないが、その雰囲気だけで彼がこちらに知られてしまって動揺しているというのが分かった。
 だからエルは見せつけるように大きくため息をついてみせた。

「むしゃくしゃすっと剣を振りたくなるってぇ気持ちも分かるけどな、体調悪いなら無理すんな。どっか悪いとこあんなら治してやっけど、それならドクターがストップかけてるだろーし、単純な疲労とかなんだろ?」
「あぁ……」

 返す声も心なし力がない、エルは大げさにまたため息をついてから腕を組んだ。

「残念な事におにーちゃんの術は疲労には効果がまったくないからなぁ。まぁあんまりしんどいようならロスクァールのおっさんに術かけて貰ってこい。そこまでじゃねぇってんなら今日はあんま無理せず大人しく休んでろ」

 言えば彼の頭がかくりと一瞬落ちて、エルは驚く。

「どした?」

 思わずエルが腰を浮かせれば、シーグルはすぐに背を伸ばして手を前に出して制止した。

「いや、大丈夫だ、昨夜あまり眠れなくて……少し、寝不足なんだ」

 エルはほっと息をついてから、浮いた腰を戻そうとして……止めて、そのままずりずりと移動してシーグルの横に座った。それから、彼の頭を此方の肩に置いてやるように手で引き寄せた。

「んじゃここで少し寝とけ。お前さんがうたたねするなんて相当眠いんだろ」

 ここまでやると、子供扱いするな、と拒否される事も考えたエルだったが、思いの他シーグルはすんなりそのままこちらへ体重を預けてきて、肩に彼の重みを感じた。

「すまない……そう、させて貰う」

 声もやっと出してるといった様で、そのおぼつかない感じが可愛いすぎてエルはにやにやと笑みが湧いてしまうのを止められなかった。そのまま肩を抱いて軽くリズムを取るように叩いてやると、すぐに彼の寝息が聞こえてきて彼が眠ってしまったのが分かった。

「マスターが見たら、そーとー不機嫌になンだろうけどな」

 まぁ兄役をやれと言ったのはあの男だし、と自分を納得させてエルは暫くの間そうして眠るシーグルを支えていた。



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 今回はセイネリアサイドメインでした。
 



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