雪解けの街と静かな不安




  【1】



 厳しい冬が終わりを告げ、北の大国クリュースにも南部からゆっくりと春が近付いてくる。

「アッシセグにいれば、もう海で泳げる時期だったのにな」
「いやエル、いくらアッシセグでも、泳げなくはないけどまだ楽しく水浴びできる時期までいってねぇだろ」

 流石に首都では水に入るならそれなりの覚悟がいる状況だが、日中は暖かい日差しが差すようになってきたこの時期、傭兵団の中は慌しく団員達が走り回っていた。なにせここはこれから将軍府として生まれ変わる為に大規模な改装工事が始まるのだ、各自引っ越しの準備に大わらわである。ただ幸い……というべきか、傭兵団としての大きな荷物はまだアッシセグに殆どある為、個人が冬を過ごす為の日用品の移動が主で、建物の規模の割には引っ越し作業自体は早く終わりそうではあったが。どちらかといえば大変だったのは工事の間の各団員達の一時的な住居探しで、首都に部屋がなくてリシェに行ったり、一時的にアッシセグに戻った者も多かった。
 ちなみにセイネリアと団の幹部、それに裏の連中で訳ありの者達――ロスクァールや双子達のような――は今回の件で爵位を剥奪された貴族の屋敷を買い取ってそこに移動する事になった。勿論シーグルもその一人で、しかも当然のようにシーグルだけは専用の個室がなくセイネリアと同室だった。

「ちゃんと向こうにはお前の部屋を作ってやる」

 とは言っていたが、いろいろな意味で疑わしいとシーグルは思っていた。彼がこういう事で嘘をつきはしないだろうが、部屋の意味があるのかが疑わしい事態にはなりそうだった。
 ともかく、そうして傭兵団の方は春先早々ばたばたとしていたわけだが、実はそれ以上に新政府――つまり宮廷周りの連中の方がとんでもない忙しさにかけずり回っていた。

 なにせ春になるまでと先送りにしていた最大の行事――シグネットの即位式と新政府発足の式典が行われるのであるから。






「なんというか……複雑だな」

 城のバルコニーの一つから城下を眺め、国外からの客達がやってくる様を見ていたシーグルがそう呟けば、側で共に眺めていたセイネリアが笑って聞いてくる。

「前なら自分があそこにいた筈だと?」
「あぁそうだ。聖夜祭の時などはああやって客人の送り迎えで何往復したことか」

 首都セニエティで式典が開かれる場合、国外の招待客は船でやってくる者が多い。騎士団所属であり、クリュース海の玄関口リシェの領主であったシーグルは、そういう場合は都合がいいと、リシェへ着いた客を首都まで送り迎えするのがこういう時のいつもの役目だった。それを自分の仕事として当たり前だと思っていたから、こうして自分が蚊帳の外から賓客達のやってくる姿を見ているだけというのは何か落ち着かなかった。

「ただ見ているだけでは悪い気がするのか?」
「……そうだな、こういう時にのんびり街を眺めていられるのは確かに悪い気はする。かつての俺なら休憩時間さえない状況だったろうしな」
「気にするな、今のお前は俺の側近として俺から離れないのが仕事だ。客のもてなしやら式典準備はこちらの仕事じゃない」

 言いながらセイネリアは、兜の隙間からシーグルの素肌が見えた首へと舌を這わせてくる。城内なのでさすがに兜を外そうとはしてこないが、鎧の隙間に手を入れてくる辺りシーグルは呆れつつも感心するしかない。

 シーグルがセイネリアの強さの理由――黒の剣との関わりを聞いた後でも、特に以後セイネリアの態度が変わったところはなかった。彼はこれまで通り、上に立つ者としては文句のつけようがなく優秀な主だったし、シーグルに対してあの時のような自虐的とも言える姿を見せる事もなかった。勿論他の部下達も特にセイネリアに何かを感じたりはしていないようであったし、だからシーグルも二人だけになってもあえてその話を持ち出さずそれまで通りの態度で彼に接していた。

「他人事のようにいうな。警備についてはお前が最高責任者だろ」

 辺りに他人の目がないのをいい事に自分を抱き締めようとする男を睨んで、シーグルは呆れた声で言った。……公の場では流石にあからさまに手を出してはこないとはいえ、彼の自分に対するべたべたぶりというか、やたらと触れて来たがるクセはなんだか日々悪化してきている気がする。

「そんなもの、指示さえ出せば後は問題が起きない限り任せるだけだろ」

 ……いや確かに、セイネリアの立場的にはその発言は間違ってもいないのだが、それを自信満々に言うこの男もどうかと内心頭を抱える。
 だがそこで、下を眺めていたセイネリアが唐突にシーグルの腕を掴んだかと思えば、引っぱってバルコニーを離れて歩き出した。

「どうしたんだ?」
「何、今到着した客人には俺が挨拶にいかなくてはならなそうだからな」
「お前の個人的な知り合いか?」
「どちらかと言えば俺よりお前の方がよく知っている人物だ」

 その言葉から想像出来る人物が思い浮かばず考え込んだシーグルだが、広間に出て、ロージェンティに頭をさげているその人物を見て、声に出さないながらも内心かなり驚く事になった。

「お久しぶりです、貴方にはとてもお世話になりました。本当に感謝してもしきれません」
「いえ、クリュースと我が国の友好の懸け橋となれたなら光栄です」

 見ただけで外国からの客人と分かる、一際異彩を放つ集団を引き連れた戦士としての威厳ある立派な体躯の男――間違える筈はないレザ男爵の姿に、シーグルは暫く呆けてその光景を見た後、はたと気づいてセイネリアに向き直った。

『どういう事だ? 何故レザ男爵が? しかもロージェと知人らしいのは何故だ?』

 声は囁く程の小声に落しはしたが噛みつく勢いで言えば、セイネリアは憎らしい程落ち着き払ってとんでもない言葉を返してくれる。

『あぁ、リシェを脱出した後にな、俺の方の準備が整うまでお前の妻子はアウグのあの男のところで匿って貰っていたのさ』
『何故……アウグに……、というかいくら何でもよく向うが承知したな』

 シーグルとしてはまた彼に迷惑を掛けてしまったという思いがあったが、それよりなによりどうしてわざわざアウグなのだという疑問が湧くのは当然だろう。

『あの頃は俺も魔法使いどもも忙しかったからな、こちらで守っている余裕がなかった。なら魔法使いの手が回る事はない分アウグはいいだろうという事になってな。それにあの国とはどちらにしろ話をつけに行かなくてはならなかったから丁度良く利用させて貰ったというのもある』

 それで一応シーグルが黙ったのは、これ以上は後で詳しく聞いた方がいいと思ったのもあったが、レザ男爵がこちらを見つけて近づいてきたからだった。

「これはこれは将軍閣下、わざわざのお出迎え痛み入る」

 にかりと笑みを浮かべたレザの言い方からして、これは半分嫌味込みなのだろうなとシーグルは思う。相変わらず分かりやすい男だと思いつつも、こういう男だからこそセイネリアが信用してもいいと判断したのだろうとも思う。とはいえ残念な事に、彼を案内してきたらしい役人の通訳はその嫌味を大分マイルドにしていたが。

「遠いところをよく来てくれた、感謝する……とでも返せばいいのか?」

 そこでセイネリアがそう返せば、レザは急に表情を変えて、ふん、と息を吐き出してから口をへの字に顰めた。

「まったく……何から何までお前の予定通りとはな、本当にムカツク野郎だ」
「安心しろ、俺もお前にはどうしても許せない程ムカついている事がある」

 笑みさえ浮かべてそう返したセイネリアに、レザは更に顔を顰めるものの手を出して二人は握手を交わす。仲がいいのか悪いのか、自分が知らない間に彼らの間にどんな会話があったのだろうと思って見ていたシーグルだったが、ふとレザがこちらを見てきた事で思わず緊張を身に纏う。だがレザがにかっと笑ってウインクをしてきたことで驚いて、今自分はちゃんと顔を隠している筈だと思わず手で兜を触ってしまった。

「まぁ、話は後でもゆっくりな」
「おう、それまではせいぜい噂のクリュース王宮の凄さって奴を堪能させてもらっておく」

 セイネリアを見ると再び顔を顰めたレザは、握手の手を離した後にまたシーグルを見て笑みを浮かべて去っていく。どうやら彼は自分の正体を分っているらしいと思ってため息をつけば、セイネリアがこちらを見ずに小声で言ってくる。

『後で好きなだけ説明してやる』

 その声が微妙に楽しそうだった事に兜の下で顔を顰めながらも、シーグルはそれにせめてもの嫌味を込めて『お願いします、マスター』としか返せなかった。




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 って事でさくっと春がきて式典準備で大わらわ。
 ここで久しぶりのレザ男爵。彼がやってきた理由はまた後で。



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