【4】 外はすっかり暗くなって、貴族達の館が多いこの一帯は人通りが少なく静かになる。 宴もたけなわ、というか山を過ぎて皆が少々大人しくなった辺りで、セニエティのシルバスピナの屋敷にはまた別の訪問者がやってきた。 その人物をウルダが出迎えれば、彼は荷物を届けにきただけだと言ってすぐに帰ろうとしたのだが、その顔に見覚えのあったウルダは、それでは主に後で叱られるからと無理にその人物を引き留めた。だから宴の邪魔をしないよう、この館の主本人だけを呼びにきたウルダに、シーグルはその後深く感謝をする事になった。 「クルス……」 通された客間にいた人物はシーグルを見た途端、目に涙を一杯ためて唇を震わせた。 「元気そうですね……良かった……」 それにシーグルも思わず涙が出そうになる。 「すまない、本当は君には礼を言いにいきたかったんだが」 「謝らないで下さい。貴方が私の事を考えて公に会いにこれないって事くらい分かってます。……だから、フィラメッツ大神官様がこうして私をお使いに出してくださったんです」 「テレイズ殿が?」 「はい、シグネット様の聖石が出来たから持っていってほしいと」 「そうか、なるほど……」 確かについこの間シグネットは大神殿で洗礼を受けたばかりで、信徒の証である聖石はその人物の魔法波長に合わせて作られる為後日受け取りという事になっていた。とはいえ今日、それをクルスに持ってこさせてくれたのは、テレイズの粋な計らいという奴だろうとシーグルは思う。 「今日は俺の騎士団復帰とシグネットの誕生を祝って皆が集まってくれているんだ。君もぜひ中に来て欲しい……友人として、ではなく、聖石を届けに来てくれた神官様をもてなした、という形なら問題ないだろ?」 この日にわざわざ使いを頼んだのだから、当然テレイズはそういう流れになる事を分かっていたのは確実だ。だからシーグルとしては、クルスもそれに了承してくれると思っていた。 「いえ……やはりやめておきます。無事な貴方の姿を見れただけで十分です」 だがそういってすぐにでも出ていこうとした彼の手を、シーグルは掴んで引き留めた。 「君には、本当にあの戦いでは世話になった。ありがとう、感謝してもしきれない」 そうすれば金髪の優しい神官の友人は、涙を浮かべたまま満面の笑みを浮かべてくれた。 「私は、貴方の役に立てたならそれだけで嬉しいんです。貴方にはたくさん……貰ったものがあるから、それが少しでも返せるだけで」 「俺は君に何も」 「貴方は気にしなくていいんですよ。私はちゃんと貰ってますから」 それでシーグルがよく分からず考え込む間にクルスは出ていこうとしたのだが、焦ったシーグルにまた手を引っ張られて、彼はそれに失敗した。 「待ってくれ、ならせめてロージェとシグネットに会っていってやってくれないか。君の手からこの石をシグネットの首に掛けてやってほしい」 頼むから、と手を強く握れば、今度はクルスも断わらずに了承を返してくれた。 空には火の神レイペのの月が高い位置で輝き、その輝きが強すぎて星はあまりよく見えない。皆を見送った時はもっと星が見えていたのにと思いながら、シーグルは暗い中庭を歩いていた。 大分戻ってはきたといっても、長いアウグでの生活による体の鈍りぶりは落ち込みたくなるレベルで、シーグルは結婚してから殆どやらなくなっていた夜の鍛錬を帰ってきてからはまた必ずやるようになっていた。 「こんな時間に外いると、奥方に怒られるんじゃないスかね?」 掛けられた声に剣を振っていた手を止めて、シーグルは辺りを見渡した。 「まぁ、正直怒られる。だが今は、もう少し体を戻すまではという約束で許してもらってるんだ」 「まったく、困った旦那っスね。ついでにこちらの仕事を増やしてくれるんでスからね」 そうして姿を現したのは見知った灰色の髪の男で、彼は近づきすぎる事なく、一定の距離を保ったところで足を止めた。 「それにもしかしたら、こうして一人でいれば貴方が出てくるんじゃないかとも思った」 「おや、ご用でしたか?」 いつも笑みに近い顔の為表情が読めない男は、わざとらしく驚いたように肩を竦めてみせる。 「貴方にも、礼を言っておこうと思った」 言ってシーグルは、足下に置いておいた酒の瓶を彼に向かって投げる。それを当然のように受け取った長いつき合いでもあるセイネリアの部下は、瓶をみて暫く無言になる。 「どうせ招待しても今日来てくれはしないと思ったからな、貴方が飲みたい場所でゆっくり飲んでくれ。飲めない訳じゃないんだろ?」 まったく、と苦笑と共に小さく呟いてから、彼は顔をあげてこちらをまたみてくる。 「あんたから俺が何か貰ったとなったら、ボスに嫉妬されちゃうじゃないスか」 「あいつにはあいつでまた何か考えるさ、それは貴方が貰ってくれ。……俺がいない間、シグネットを見ててくれたんだろ、その礼も兼ねてというと手軽すぎだが」 言えばまた、彼は一瞬沈黙を返す。 「乳母のエイニィが言ってたんだ、居眠りして夕方になったと思ったらシグネットにちゃんと上掛けが追加されていたり、目を離した間に籠に日が当たっていたら日陰に移動してあったりと……失敗したと思った時にも不思議とそれがなかった事になっていたと」 今度は観念したらしく、彼は思いきり顔をしかめて見せると、やはり少し大仰にため息をつきながら首を振った。 「やれやれ、随分正直な乳母さんっスね。自分の失敗は黙ってるでしょ、普通」 それを見てシーグルは笑う。 「人の良さでロージェが選んだんだ、彼女の人を見る目は確かだぞ」 「そのようで」 そうして彼はそこで一歩だけ前に出ると、見せるように大きな身振りで手を前に出して一礼する。 「では、ありがたく頂いときまスかね。飲むのはマスターのお許しを得てからってことになるでしょうスけど」 大げさな礼から姿勢を戻した彼は、いつも通りの笑顔を浮かべてこちらを見てくる。 それでシーグルは笑みを収め、自然と訪れた沈黙に誘われるまま口を開いた。 「……セイネリアは、元気、だろうか」 今度は灰色の髪の男は、殆ど表情を変えずに言う。 「落ち込んでるっスよ、そりゃもうとんでもなく無茶苦茶に」 「まさか」 と言って笑い掛けてから、シーグルの顔から表情が消える。 「……では、ないんだろうな。俺はあいつに酷い事をしてばかりだ」 「おんや、ご自覚はあったんスね」 「そうだな、自覚したくなかったのを……認めたと言った方がいいか」 思わず自嘲がシーグルの口に浮んだ。 セイネリアは強い男だ――ずっとそう思っていたから、彼が傷つく事なんかないとシーグルは思っていた。自分の心を守るのにいっぱいいっぱいで、その為に彼は傷つかないのだと自分に思いこませていた。彼を憎む事で、彼に憧れる事で、自分の心を保たせていた。 だからその為にずっと……シーグルはセイネリアを傷つけ続けていた。 「まぁ認めてくださったなら、もちっとボスの事考えてですね、ともかくご自分の身に関わる事にはもっと慎重になってもらえないスかね」 だからそう言われれば、そうだな、としか返せない。特にキールに黒の剣とセイネリアの関係を聞いた今では――その時の話を思い出して、シーグルはぶるりと背筋を震わせた。 「そんなに、あいつは……俺の存在一つに動揺……するのだろうか」 聞いた声は自分でもおかしいと思うくらいに震えていた。 だが灰色の男は特に感情を出す様子もなく、いつも通りの軽口で答える。 「えぇ、一見平静に見えてもですね、貴方に何かあったかもって時は誰も近寄りたがらないヤバさっスよ。俺でも傍にはいきたくないっスね」 揶揄するような言い方でも、この彼でさえ傍にいきたくないというのならそれは相当なのだろう。いつでも人の行動を読んで思う通りにしてきた男が、自分を見つめる時、どれだけ優しくてだれだけ嬉しそうか、そしてどれだけ悲しそうで不安そうなのかをシーグルは知っている。だからこそ。 「もし、俺が死んだら……」 言ってみて、浮かんだ想像に怖くなる。それだけの言葉で、喉がやけに乾いて声が詰まる。 あの男が取り乱す姿なんてシーグルには想像さえ出来なかった。なのに、それを否定できない事が怖い。あの男が嘆きのあまり自分を見失う様なんて事、あり得ないと思うのに、彼の自分に対する言葉も行動も、思い出せば全てそれを肯定してしまう。 「そうしたら、あの人の心は死ぬでしょうね」 やはりさらりと、まったく楽しくなさそうな笑みを浮かべて、灰色の男は答えた。 「あんたを追って体毎死ぬか、生きる屍になるかどっちかだと思いまスよ」 そうして、心を剣に取り込まれて――想像したくないのにその先を想像してしまって、シーグルは胸をぎゅっと掴んだ。 「セイネリア・クロッセスが強い男である事をあんたが望むなら、あんたは何より自分という存在を大切にしなきゃならない……それを、忘れないでください」 そうして、灰色に黒を纏った男は夜の闇にとけ込むように消えた。 --------------------------------------------- 次回は半年後のお話になります。そろそろ事件が起こる前兆が…… |