【1】 シルバスピナ家の当主になる者は、代々、騎士団に所属する事が決りになっていた。 とはいえ本来、領地のある貴族騎士は当然ながら自分の領地を守る事が最優先で、召集時は別として、当主が平時に直接国の騎士団に所属しているのはありえない事だった。かつての戦乱時代でさえ、貴族の子息達はこぞって騎士団に入りはしても、家を継ぐ時には退団するのが普通だった。 だが、首都から近すぎる領地を持つシルバスピナ家の場合は、辛うじて騎士団での仕事を放棄しないまま、領主としての役目も果たす事を両立させ続けてきた。――シルバスピナ家がリシェ領主となった当時は、そもそも、騎士団での役目も果たす事が出来るようにする為、シルバスピナ卿はリシェを治めるように任命されたのではないか、と噂されていたらしい。それはつまり、そう言われる程、初代シルバスピナ卿が王からの信任が厚い人物だったという意味も持つ。 お飾りの領主、とも馬鹿にされたリシェ独自の法は、全ては国の騎士として働くために考えられた物で、堕落しないように権力を持ちすぎない事も、例え領主不在となっても街の維持が可能な体制も、全ては国に――王に何かあった時、真っ先に駆けつける事が出来る為だと、シーグルは祖父から教えられていた。 ともかく。 クリュース王国、首都騎士団本部所属、第7予備隊隊長。それが、シーグルの現在の肩書であった。 予備隊というのは、騎士団の中でもいわゆる名前の通りの『予備』であって、特定の役割がある訳ではなく、人手の足りない場所や、どこかの砦で戦闘が始まった時などに真っ先に回されるための部隊である。その為、その隊の隊長というのは、貴族の騎士が騎士団に入ってまず最初に任命される役職になっていた。 シーグルは騎士団に入ってもうすぐ2年になるが、今のところ派手な戦歴や手柄はない為、一般的には順当に現在の位置のままに留まっている。ただ、旧貴族直系としてのその血筋故、貴族院からは早く騎士団での地位を上げろとせっつかれているらしく、シーグルの隊にはよく、手柄を取ってこいとでも言うようにイレギュラーな仕事がちょくちょく言い渡されていた。 それらの仕事は今のところちゃんとこなしてはいるのだが、毎回、上が見込んだ程の派手に宣伝出来るような仕事にはならないで終わる為、シーグルを出世させたくてもさせられない、というのが現在の状況であった。 「ま、今回こそ、何か手柄上げてこいって事なんでしょうが……それにしても樹海とはねぇ……」 樹海に行くと決まった途端散々愚痴を言っていたグスは、事あるごとにそう呟いていて、シーグルは聞く度に笑いたくなって困った。 「そんなに樹海が嫌か」 聞けば隊で最年長の古参騎士は、思い切り苦い顔をして、シーグルを睨むくらいの勢いで見返してくる。 「あそこは本気で危険なんですよ。危険な生き物とかもそうですが、魔法が効かない場所があちこちにあって、ちょっと道に迷ったら、後は死ぬまで迷うしかないってくらい、本気でヤバイとこなんですって」 その話を聞いたのも何度目の事か。そうして彼は、いつもそれを締めくくるようにこう呟くのだ。 「全く、手柄って言ってもあんたに何かあっちゃそもそも終わりじゃないですか。どこまで頭がお花畑なんだ、上の連中は……」 結局、彼がここまで愚痴っているのはシーグルを心配しての事なのだ。それが分かるからこそ、シーグルは彼に黙れとは言えなくなってしまうし、それに嬉しいような申し訳ないような感覚を覚えて笑みが湧いてしまうのだが。 座りこむグスから視線を外すと、心地よい潮風の中、どこまでも続く青い海原に向かってシーグルは微笑んだ。 樹海への道は、本来ならば一番近いクーア神殿までの転送を使う事になるのだが、今回は一度、アッシセグの街によって現地の部隊と合流する事になっている為、リシェからアッシセグまでは船を使っての移動となっていた。流石にシーグルの部隊を運ぶだけで軍船を出す訳にはいかないので、乗る船はアッシセグに向かう商船に便乗させてもらう形になった。ただ、乗せるのが次期リシェ領主のシーグルであるから、船の持ち主から船員にいたるまで、それはそれは隊の者への待遇は良く、穏やかな天気も相まって、彼らは快適な船旅を過ごす事が出来ていた。 港町の領主の家、という環境にあるのに、実は船で遠出をした事がシーグルにはなかった。湾の中を回る巡回用の中型船までは乗った事があるものの、外海に出る大型船に乗った事はなかったのだ。船自体は港に停泊しているのをいつも見ていたし、乗るところまでは何度かあったものの、その中で数日を過ごすというのは本当に生まれて初めての事であった。 だから、船に乗って行くというそれ自体を、シーグルは実はかなり楽しんでもいた。リシェに来た当初から乗ってみたいと思っていて、けれども子供心に我慢を強いていた分、願いが叶った今にシーグルは実はかなり浮かれていた。……勿論、外見や言動で、目に見えて浮かれた様子は部下達に見せないようにはしていたものの、それでも揺れる船の上、どこまでも続く海原を眺めている今に、踊る心を抑えられない気分であった。 ただ、ひたすら青だけで続く風景を眺めている中でも、この船が向かう場所の事を考えれば、浮かれていた心が沈んで行ってしまうだけの理由があった。 ――よりにもよって、アッシセグか。 アッシセグは、確かにある程度の規模がある港街の中では樹海からは一番近く、しかも元ファサン領であるクリュース南部担当の騎士団支部があるラッサデーラの街にも比較的近い。だから、アッシセグで向うの隊と合流しろ、という命令自体は、特に不自然なものではなかった。 だから偶然だ、とは思っても、会わなくてはならないあの男がいる街だと思えば、シーグルの中に迷いが生じる。 セイネリア・クロッセス、彼に会うべきか、会わないでおくべきか。 かつて、友人の振りをしてシーグルに近づき、犯して、踏みにじった憎むべき男。 なのに、自分の事を愛していると言い出した男。 最強と呼ばれた彼は、誰よりも強く、何者にも屈しない。その彼が自分に『愛している』と告げる姿は、苦し気で、悲しげで、切実で。 シーグルの心を救う為、自ら傷ついてまで、その手を放してくれた。 彼には、返せない借りがある。 シーグルは、彼に会えるだけの強さを身につけたなら、必ず、自分から会いにいくと彼に約束している。今の自分がそれに値するだけの強さを手に入れたかといえば、それは分からない、としか言えなかった。いや、納得するだけの強さを手に入れる事は不可能に近く、それを理由に自分は逃げているのではないか、とも思う。 シーグルがここにこうしていられるのは彼のお陰で、だから彼には必ず自ら謝罪に行かなくてはならなかった。そう思っていても、ならば何時彼に会いにいくのだと、その踏ん切りはなかなかつけられなかった。 だからこれは、いい機会なのかもしれない。 彼に会えと、神がもたらした偶然だと、そう、思えない事もない。 それでもまだシーグルには、彼に会えないと心を止める理由があるのだ。 まだ、シーグルは、彼に対して自分がどんな感情を持っているのか、その答えを出せていない。愛している、という彼の言葉に返すべき言葉が自分の中に見つかっていない。 愛している、と彼は言った。 誰よりも強い男があれだけの想いで言ったその言葉に、今度こそ、シーグルはあやふやな返事を返す訳にはいかなかった。 自分は、彼をどう思っているのだろうか。 自分を踏みにじった彼を憎んで、けれど、誰にも屈しないその強さに憧れた。愛していると自分に告げる苦し気な彼が見たくなくて、自分を守ろうとリスクを冒す彼が信じられなくて、ただ拒絶を返したのに、それでも彼は自らを傷つける嘘をついてまで救ってくれた。 もう、憎んでいない訳じゃない。けれど、彼を嫌いではない。彼に抱きしめられるその温かさを心地よいと感じる部分が確かにある。嫌で嫌でたまらない、女のように抱かれる行為さえ、彼であればと思う心がある、許してしまう体の反応がある。 それが示すのは何か、シーグルは彼に伝える言葉を持たない。 世界の端まで続くように見える青い海の風景を眺めて、シーグルは黒い騎士の姿を頭に描き、胸の苦しみに手で押さえる。 船が進む海原の青は、いつしか暗い北の海の青ではなく、南国の明るい青へと変わっていた。 吹く風が強さを増し、大きく帆が膨らむ様に顔を上げれば、海鳥達の影が太陽を遮って船に影を落としていく。眩しそうに目を細めたシーグルに、陸が見えたとの声が聞こえたのは、それからすぐの事であった。 --------------------------------------------- 最初なので説明続きですいません。 |