【3】 「いい加減顔をあげろ。折角目の前にいるのに、顔を見るくらいも許してくれないのか、お前は」 セイネリアの声は、静かで、穏やかで、静寂が支配する部屋の中に心地よく溶け込む。シーグルは一度歯を噛みしめて、それから、おそるおそる顔を上げていった。 金茶色の瞳が、ただ真っ直ぐシーグルの顔を見つめてくる。肉食獣のような、とよく言われる彼の瞳が、今のシーグルにはとても優しく思えた。けれど、そう思った途端、シーグルはその視線から逃げたくてたまらない気持ちになる。 「お前に、急ぎで言っておくことが出来た。それも、お前と俺が会った事を誰にも知られずにだ。だからネデのヤツに一芝居打って貰った。……お前から来るまで待っていられずに、悪かったな」 こんなに、穏やかに、優しい声で話す男だったろうかとシーグルは思う。 ここまで、自分を見る琥珀の瞳は優しかったろうかとシーグルは考える。 けれどもそこで、彼の表情が崩れる。 眉間が僅かに皺を刻み、金茶色の強い瞳が薄く細められる。口元が苦々しげな笑みに歪んでいく。 その変化を、シーグルはただ呆然を見つめることしか出来なかった。 「……だがそれは所詮言い訳だな、お前に会う為の」 現実感を感じず、じっと見つめてくるその瞳を見ている間に、彼が椅子から立ち上がる。それをやはりどこか遠く見ていれば、彼の手が伸びてくる、黒い影が覆いかぶさってくる。 呆然と、彼の背中ごしに窓の外の夜空を見つめるシーグルは、今自分がセイネリアに抱きしめられているのだと、その腕に包まれる事で理解した。 「だめだな、悪いが限界だ」 セイネリアの顔は見えない。 こちらの肩に顔を埋めた彼の声だけが、耳のすぐ近くで聞こえる。らしくなく掠れて囁くような声が、溜め息と共に耳に染み込んでくる。 「お前は、俺がどれだけお前に会って触れたかったか分からないだろ。会えない間、どれだけお前の事を考えていたか知らないだろ」 誰よりも強い、男の声は僅かに震えている。まるで嗚咽のように、不規則に荒い息遣いが聞こえて、彼の腕が強く抱きしめてくるのを全身で感じる。 シーグルは目を閉じた。 触れてくる彼の体温とその匂いを感じ、シーグルもまた黒い騎士の肩に顔を落とした。 視覚を遮る事で、より強く感じる相手の感触に、シーグルは全身の力を抜いて自らの体を委ねた。 「愛してる、シーグル」 抱きしめた腕が、後ろから髪を撫でてくる。 静かに顔を上げれば、目の前には彼の顔があって、じっと見つめてくるその琥珀の瞳を見たまま、シーグルは僅かに微笑んで瞳を閉じた。 すぐ、唇が彼の唇で塞がれる。 唇を開けば入ってくる、彼の舌の荒々しさと、宥めるように優しい感触を覚えている。熱い彼の口腔内の体温も、粘膜同士が混ざり合い、溢れていく感覚も覚えている。それを掬うように、何度も、何度も、唇を合わせなおして、出来るだけ隙間なく繋がろうとしてくる彼のキスを忘れる筈がなかった。 「ン……」 セイネリアの腕はより一層強くシーグルを引き寄せ、後ろから頭を撫ぜていた手が、まるで押し付けようとするようにシーグルの頭を支える。 舌を触れ合わせ、唾液を飲み込んで、咥内の交わりを深くする。 ひたすら求めてくるセイネリアの舌に、シーグルもまた応えるように彼を求める。 強引で、尊大で、けれども優しい。彼の感触を、シーグルは意識する事なく自ら求めた。 何度か互いに求め合い、そうして離した後、彼は更にまた唇を合わせ直す代わりに、吐息が触れる程近くにいるまま呟いた。 「本当に、本物の、お前だな」 小さな声は彼にしては弱すぎて、シーグルは心に流れる熱い感触にきつく唇を噛みしめた。 セイネリアの唇は、まるで顔の輪郭をなぞるようにシーグルの鼻の脇をなぞり、頬をなぞり、瞼を伝って額に届く。一番肌が薄く感覚の鋭敏な場所で、出来るだけ確かな感触を感じられるように、彼の唇はシーグルの顔の表面、その形と感触をなぞっていく。顔の産毛を吐息で擽りながら、何度も、何度も、今自分が触れているのが最愛の存在であるという事を確認するかのように、優しく、そっと唇がシーグルの顔を伝っていく。 「セイ、ネリア……俺、は」 やっと彼の名が呼べても、その先が言葉にならない。 ここへ来る前、船の中で、会うなら何を言うべきか、いろいろ考えていたはずなのに、それが欠片も口に上らない。 そのまま固まってしまったシーグルの額に軽くキスをして、セイネリアが顔を少し離す。目を合わせた彼は、琥珀の瞳を細めたまま、シーグルの頬に手を触れて、少しだけ楽しそうに微笑んだ。 「謝るくらいなら黙ってろ」 それでシーグルは、開いていた口をそのまま閉じるしかなくなった。今まさに、やっと声を出そうと喉まで出掛かっていた言葉は、すまない、という一言だったから。 「どうせお前には、俺にとって何が一番辛かったかなど分からない。的外れな謝罪をされるくらいなら何も言わない方がいい」 シーグルにはそれにやはり返せる言葉がない。その通りだとしか思えない。 けれど、それに苦しげに眉を顰めたシーグルの顔の、その頬を両手で包んで、セイネリアは口端を上げて笑う。 「そんな顔をするな。別にお前を責めている訳じゃない。俺がした事は全て俺の意志で行った事だ、お前に責任は何もない、だから謝って貰いたいとは思わない」 「だが……」 それでも、結果としては彼を傷つけた。 自分の中の全てを諦めて、逃げたくて、彼に縋って、誰にも影響されないと思っていた強い男を深く傷つけた。――だが彼は、自分を助ける為に、更に自ら傷ついて苦しんだ。 表情を沈ませたままのシーグルに、セイネリアは苦笑すると、手をシーグルの頬から離し、その頭毎抱き寄せて自分の胸に押し付けた。 「だが、俺のしたことがお前にとって良い結果となったと言うなら、感謝の言葉は受け付けてやる」 優しく髪を撫でながらセイネリアが言えば、シーグルは即顔を上げる。 「勿論だ、感謝する、本当に……言葉で言い尽くせない程感謝している」 必死に見上げるシーグルに対して、セイネリアは顔に笑みを浮かべたまま、ゆっくりと髪を手で梳くように頭を撫でてくる。 その金茶色の瞳があまりにも優しくて、やはりシーグルはすぐに正視できなくなって目を細めた。 「……ありがとう、セイネリア」 それでぎゅっと唇を固く閉じたシーグルに、セイネリアは僅かにくすりと息を漏らした。 「そうだな……言葉で言いきれないというなら……後は態度で示して貰うか」 何を言われたのか分からずに、シーグルは目を見開く。 その前髪を指で梳いて退かせてから、セイネリアは少しだけ意地が悪そうに唇の端を大きく吊り上げた。 「感謝の印に、お前から俺にキスをしろ。今回はそれで手を打ってやる」 シーグルはまた更に目を見開く事になる。ただそれは、驚いたというよりは気が抜けたと言った方が良く、けれど、その言葉の意味をよく考えるにつれて、シーグルは気まずそうに目を泳がせた。 「それでいい、なら……」 拒否する気も理由もなかった。 けれど、妙に嬉しそうな顔をしている彼を見ていれば、何か納得できないもやもやとした気分が残る。 そんな返事でも、やはり嬉しそうに瞳を細める彼の顔をじっと見つめて、その頬に触れて、シーグルは顔を近づけていく。途中からは目を閉じて、彼の顔を見なくて済んだことにほっとして、唇を前へ。こわごわと近づいた唇が、やっと彼の唇と触れた時には、その柔らかさに驚く。何度も唇を合わせた事があるのに、その感触を十分知っている筈なのに、柔らかいという言葉があまりにもこの男に似合わないせいか、今更ながらにそんな事に驚く自分がいて、それが酷く滑稽だった。 自分は、まだ、彼を正しく見れていないのではないだろうかと、シーグルは思う。 かつてシーグルは、セイネリアに向けて、自分が思っていた通りの彼の像として、彼は誰よりも強いと言った事がある。完璧なまでに彼が強いと言ったシーグルに、彼は俺も人間だと言ったのだ。人間であるから、お前が思うよりずっと弱いと。おそらく、その言葉もまた、彼を深く傷つけたのだろうと今ならば分かる。 彼が首都から去った時、やっとシーグルはそれを自覚出来た。なのにまだ、自分は彼の事を絶対的に強い偶像のような存在だと思っていたのかもしれない。余りにも強いこの男の弱さを、まだ、認められていなかったのかもしれない。それに気付いたシーグルは、今更ながらに愕然とする。彼に申し訳なくて、自分が愚か過ぎて、居たたまれない気持ちになる。 だから、唇を離しても、シーグルはセイネリアの顔を見れなかった。いつまでも顔を上げないシーグルに、セイネリアが何を言うまでもなく、ただ髪を撫でてくる。 「俺は、酷い人間だな」 シーグルが呟けば、セイネリアがまた、気配で笑う。 「そうだな、俺にとっては、お前は酷い奴だ」 シーグルは歯を噛みしめる。すまない、と今も口から出そうになる言葉を飲み込んで、唇を震わせる事しか出来ない。 セイネリアの手が、シーグルの頭を再び引き寄せて自分の胸に抱き込む。 「だが……それを自覚したなら、許してやる」 それからまたシーグルの顎に手を添えて顔を上げさせると、彼は唇を重ねてくる。シーグルは拒まずにそれを受ける。 柔らかと、熱さを感じて。 蕩けるように滑らかな互いの感触を求めて舌を絡めれば、思考さえもが溶けてゆくように頭が考える事を放棄する。 けれども、ゆっくりと彼の唇が離れていって。 それでもまだ呆けたようにどこか虚ろな状態だったシーグルは、直後に意識が現実に引き戻される事になった。 「え?」 唇を離したセイネリアの腕が、こちらの肩を抱え込むようにした……のはいいとして、ふとその体が一瞬沈んでもう片腕が腿の辺りを押さえてきたと思ったら、急激な浮遊感と共に、一瞬でシーグルはセイネリアの肩に担がれていた。 「おい、まてセイネリアどういうことだっ」 この状態で逃げられるとは思えなかったが、それで大人しくされるがままになっている筈もない。精一杯の抗議として手足をばたつかせれば、それをまったく気にしない男は、何でもない事のようにあっさりと言ってきた。 「女のような軽そうな抱え方は嫌なんだろ、だからこれで妥協しろ」 言われてシーグルは考える。そんな事を前に言ったろうかと。 「前に、女のように抱き上げてベッドに運んだら、お前はかなり不満なようだったからな」 今度はそれで思い出し、シーグルの顔が赤くなる。 それは前に、取引としてではあるが、初めて同意で彼に抱かれた時、抱き上げてベッドに連れていかれた時の事だろう。確かに女のような抱かれ方が嫌で、恐らくそれは相当顔に出ていただろうという自覚はある、あるが――。 「何故お前は、抱えるより先に口で言わないんだ……」 あきれ果てて呟けば、直後に体はまたふわりと宙を移動する。そうして、今度の着地点は予想通り――優しくシーグルの体を受け止めた――ベッドの上だった。 顔を上げれば、すぐにその上にセイネリアの顔がある。 「前にもいっただろ、この方が早いからだ」 憮然とした表情の彼を見れば、本当に理由はそれだけなのだろうとシーグルは理解する。けれども、流石に愚痴の一つでも言ってやりたくはなるのは仕方ないではないか。 「早いといっても、大した差はないだろ」 けれどそこまでいって、不機嫌そうな彼の気配から、シーグルは思いついてしまった。 「――……お前、まさか、その程度の差が惜しいくらい、余裕がないのか?」 「今頃何を言ってる、お前は今の俺に余裕があると思っていたのか?」 そう答えた彼の表情が、あまりにも真顔で、落ち着いていて。一見すると、彼らしい余裕が十分あるように見えるのに――シーグルは思わず暫く呆けたように彼の顔をじっと見つめてしまった。 「そうか……お前……そんなに俺が……」 言いながら彼の頬に手を伸ばせば、その手を掴まれて、彼の唇が無言のまま下りて来てくる。互いが再び触れる瞬間、シーグルの唇は笑みに歪んだ。 適わないな、と思いながら。 キスをしながらセイネリアの手が服を脱がせてきても、シーグルはやはり、拒まなかった。 --------------------------------------------- しーちゃん、流されたら負けだよ、そいつ許しちゃうとこれ以後ずっとになるよ! と書いてて自分で言いたくなりました。 そんな訳で次回はH。 |