夕暮れと夜の間の闇




  【10】



 空には高い位置に上って小さくなった代わりに明るさを増した月がある。満月直前の月は明るく、暗い筈の中庭を照らして地面に自分の影を描く。全身黒い恰好の自分など、地面の影と変わりがないなと思いながらセイネリアは椅子に座り目を閉じた。そうすれば何処からか竪琴の音色が聞こえて来て、セイネリアは目を閉じたまま少しも体勢を変える事なく声だけで答えた。

「今の気分では音楽なんぞ聞く気にならん。歌いたいだけなら去れ、話があるなら出てこい」

 暫くすれば予想通りの人物が現れて、その気配にやっとセイネリアは月明りで琥珀に光る瞳を開いた。

「こんばんは、いい月夜ですね。もっともそう思える者には、ですが。我が主はご機嫌麗しゅうお過ごし……ではありませんね」
「お前もな。……別にお前がそんな顔をする必要はないだろ、俺は今回の件で貴様に責任どうこう言う気はない。想定外の事が起こった、俺の警戒が足りなかった、それだけだ」

 言えば、影だけでも分かりやすい吟遊詩人特有の幅広帽子を被った男は、その場で深くお辞儀をした。

「えぇ、貴方は私を叱責したりはしないだろうというのは分かっています」
「なら何だ」

 セイネリアの声には抑揚がない。
 詩人はそこで現在の主である男から視線を外して空を見上げた。

「……私は今まで未来を見えても、ただそれを情報として受け止めるだけでした。興味は沸いてもそれに感情が動く事はありませんでした。だから今回のように自ら動いて、どうにかしようと思ったのは初めてだったのです。そしていざ動いてみて……結局どうにも出来ない、自分はただの傍観者だという事を痛感したという次第です」
「つまり自分の役立たずぶりに落ち込んでいるという事か」

 それには詩人の笑った気配が返ってくる。

「ありていに言えばそうですね」

 とはいえ詩人はセイネリアを見ない、その視線はまだ空にある。だからセイネリアもまた視線を外して、地面にある自分の影に向けた。

「人にはすべき役目がある、お前の役目が戦闘に関するものでない以上、今回の件で役に立ちようもないだろ」
「えぇ、それはそうですが、自分はただ見るだけの者だというのを実感して少々落ち込んでいるのです。事前に分っている事ならもっと上手く、それを回避する為に何か出来たのではないかと思ってしまうのですよ」
「それは欲張り、というものだ」

 呟くように返せば、詩人は顔をおろしてセイネリアを見た。

「ケーサラー神官としてのお前の役目は俺に見えた事を告げた時点で果たしている。阻止できなかったのは俺の失敗だ。お前に求められているのは、あとは詩人としての役目を果たす事くらいだろ」
「詩人としての役目ですか」
「そうだ、記録と伝承。お前がここにいるのはあいつの歌を完成させる為なんだろ?」

 セイネリアもそれで彼の顔を見れば、吟遊詩人は大げさに肩を竦めて、それはまぁそうなのですが、と苦笑してみせた。だからセイネリアも唇に笑みを纏って彼に言う。

「あいつの歌を作って、伝えるべきものに伝えろ。詩人の中でお前だけはあいつの真実を歌にしろ」
「かの人が生きているというのは秘密なのではないですか?」
「だから真実の歌は伝えるべき者にだけだ。いつか、お前が伝えるべきだと思う時、思う者へだけ伝えればいい」

 セイネリアがこの吟遊詩人を自分の傍に置いて好き勝手にさせる理由の一つは、偽りの名で生きなくてはならない彼の真実を残しておきたいとそう思ったからというのがある。その思いは自分でも不思議だったが、それは恐らく彼の真っ直ぐな生き方に対して『嘘』という汚点を残したくないからではないかと思っている。自分とは違う、自分にはない彼の生き方に対しての敬意として、確かな真実を残しておきたいとそう思ったからではないかと思っている。
 吟遊詩人はセイネリアのその言葉に軽く声を上げて笑う。くすくすと楽しそうにひとしきり笑ってから、彼はつばの広い帽子を頭から取ると静かに近づいてきた。

「……しかし貴方は分かりませんね。彼をご自分のものだけにしたいくせに、その名を英雄として人々の中に残そうとするのですから」

 未だに口元が笑っている詩人のその言葉を受けてセイネリアも笑う。

「あぁ、そうだな俺は矛盾しているんだろう。なにせ、あいつを自分だけのものにしたいと思うのに、あいつが多くの人間に愛されている事は嬉しいんだ。あいつが俺だけを見ればいいと思っても、人と関わってその為に生きるあいつの姿が好きなんだ。赤の他人の為に自分を顧みないその姿に酷くむかついても……誰かの為にどこまで強くなれるあいつが羨ましくて、愛しいんだ」

 詩人はセイネリアの目の前に来て足を止めると、顔から笑みを消して静かな声で尋ねてくる。

「……今の貴方が、彼に関わる者達を守ろうとするのは、契約の為だけというのではないのですね」

 セイネリアは詩人の顔を見ずに、地面にある彼の影を見て呟いた。

「そうだな……かつて俺にとってはあいつ以外の人間などどうでも良い存在だった。だが、彼らがいるからこそあいつが強く在れると思えば……前よりも彼らに情を感じる、我ながら不思議以外の何物でもないが」

 シーグルを愛して、彼を手に入れて分かった事。彼の愛する者を守るようになって分かった事。彼らがシーグルを強くすると思えば彼らにも情を感じる、シーグルが愛する者に自分もまた愛情に近いモノを感じている。彼がこの国や人々を愛するからこそ、いつしか自分もそれらに愛着のようなものを感じ始めていたらしい。
 唇を自嘲に歪めてしまえば、そこで詩人の影が帽子を胸に抱いて深く頭を下げた。

「ならばマスター、今、私の中に見えた未来を貴方に告げましょう。アルスオード・シルバスピナ――シーグル様は貴方が思うよりもずっと強く貴方を愛しています。貴方は彼によっていつか本当の希望を手にするでしょう」

 セイネリアは目に僅かな熱を感じて瞼を閉じた。
 それから唇に笑みを浮かべて、ため息と共に呟いた。

「そうか……」

 それから彼は顔を上げて、詩人の姿のその先にある月を見つめた。
 青白い月は、まるで朝日を弾いて輝く彼の銀髪のようで、セイネリアは思わずそれを見て呟いていた。

 あぁ、確かに今夜はいい月夜だ、と。




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 いろいろもろもろと落ちこんでいるセイネリアさん。
 



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