夕暮れと夜の間の闇




  【6】



「川、か……」

 しかもそれなりに大きな川だ。流れはそこまで急ではなさそうだが黒い水面は深さが分らず、歩いて渡るのは難しそうだと思えた。敵の足音はすぐ近くまで迫って来ていた。ただ今のところ人数はそこまで多くはない、となれば――。
 シーグルはシグネットを地面に下すと、その手に抜いたままの魔剣を持たせた。

「陛下……この剣をしっかり持っていてください。ぎりぎりまで足止めをしますが、いざとなったら川に飛び込んで逃げます。ただもしその前に私が倒された場合は、これを持ったままお一人で川に飛び込んでください。この剣が陛下を溺れさせず守ってくれます」

 声は自分でも驚く程落ち着いていた。泣きそうな顔で見上げてくる小さな我が子に、シーグルは思わず笑ってやったがすぐに顔が見えない事に気付いて兜の中、苦笑する。

「大丈夫です、将軍閣下が今私たちを探してらっしゃいます。その為の時間稼ぎをするだけです、きっと私が倒れる前に来てくださる筈です。それに本当に無理だと思ったなら諦めて川へ逃げる事にしますから」

 今にも泣きそうに顔を歪めた少年は、まだシーグルのマントをぎゅっと強く掴んでいた。シーグルはその手を掴んで優しく広げ、マントを離させるとそのまま小さな少年の手を両手で握って今度は強い声で言った。

「……ですがもし私が倒れたならば、迷わずお一人で川に飛び込んで下さい。貴方は貴方を大切に思ってくれるたくさんの人達の為に何があっても助からなくてはならないのです。言う通りにしてくださると約束してくださいませんか」

 少年の瞳からはついに涙が零れたが、それでも小さな国王は涙を拭きながらも大きく頷いた。シーグルはその頭を優しく撫でて、それから我が子に背を向けて腰から剣を抜き、両手でその柄を握りしめた。
 大丈夫、今の少しの時間で息は大分整った。シグネットを抱いて走るのはきつくても剣なら振れる。例え足元がふらついても体が怠くても、剣を持って意識を集中すればまだ動ける。ふらふらになって剣を振るのなんて慣れ過ぎてる程に慣れている。
 将来旧貴族として全身甲冑を着る事が前提だったからこそ、子供の頃からシーグルは両手持ちの長剣を主に使ってきた。いつでもどんな時でも、手に慣れた重さを感じ、真っ直ぐ伸びて光りを纏うその剣身を見れば意識は落ち着いていく。疲れも、不安も、感じない程に集中出来る。

 敵はアウドのおかげもあって大分分散されたようだった。それでもこのまま限界まで走ったところでいつか追いつかれ、その時にはもう戦う体力が残っていないだろうとシーグルは判断した。それなら慣れた長剣を存分に振るえるひらけた場所で、まだ体力が残っている内に戦っていた方がいい。それにセイネリアが探す場合もその方が見つけやすい筈だし、最悪ここなら川に飛び込むという最終手段が選べる。……その判断が正しいかはまだわからなかったが、戦うと一度決めたなら心は驚く程落ち着く、後は何も迷う事はない、ただ敵を倒せばいいのだ。

 ふぅ、と一度深く息を吐き、シーグルは後ろにいるシグネットから距離を少しとって前に出た。それからゆっくりと腰を落とすと同時に剣を持ち上げ、顔の横に腕を置き、剣身を前に出して構えた。

 最初に、森を抜けてシーグルの姿を見つけたのは二人。
 愚かにも自分達の優位性を信じて油断し、ただ剣を持ち上げてつっこんできただけの彼らはシーグルと剣を合わせる事さえかなわなかった。先にきた男が剣を振り下した時、そこにシーグルがいる筈などなく、剣を避けて体勢を低くしたシーグルの剣が男の腹に食い込んでいた。そこから剣を抜かれた反動で男の体は後から来た男へと倒れ込み、そこを斬られて二人目の男も倒れた。
 次に現れたのはまた二人。既に倒された味方を見て警戒し、二手に分かれて左右から攻撃をしようとした彼らはぎりぎりでシーグルに避けられ、同士撃ちをしそうになって慌てたところを剣で貫かれた。
 敵が途切れたところでシーグルは一度剣を下し、辺りに耳を澄ます。息は走っていた時に比べればずっと楽で、腕はまだ思った通りに動く。多少疲れていても負傷はなく、体は全てちゃんと動く、剣を持って戦える……ノウムネズの戦いで馬から放り出された時を考えれば全然マシだと思えた。動けるうちは戦う、足掻けるだけ足掻く、セイネリアは必ず自分を見つける筈だった。
 敵兵の声がまた近づいてくる、今度は人数が多い。それを見てシーグルは胸に手を当てると、呟くように術を唱えた。

「神よ、光を我が盾に……」

 リパの『盾』の呪文。攻撃を一度だけ弾くそれは、保険程度でもないよりはマシだろう。
 そうして四人の人影が見えた途端、シーグルは向うが構える前に突っこんでいった。







 敵が複数でこちらが一人となれば、基本は剣で相手するより盾で吹き飛ばしたほうが早い。今もまた盾で吹き飛ばした敵が後ろの者にぶつかってそのまま倒れ、次の相手に踏まれて騒ぐという光景を見ながら、アウドはその先からやってくる敵の方に意識を向けていた。
 いざとなれば死んでもいい――そうは思っていてもそれは本当にどうにもならないところまで追い詰められた時の話で今はまだ死ぬつもりはない。となれば囲まれる程の数まで敵が増える前には逃げなくてはならない、そのタイミングの見極めが重要だった。

「――――っ」

 アウドには敵の言葉は分からない。だが叫んで振り下ろしてきた剣を盾で受け止め、そのまま全力で押し込んで腹を刺す。剣を抜けば他の敵は少し距離を取って様子を見ているところで、ならばと今度は自らその中の一人に向かって突っこんで行く。

「くるのを待ってられっかよ」

 準備が出来ていなかったらしく、相手は焦って逃げ場を探す。それを叫んだ気迫のまま斬り捨て、即座にその隣にいた逃げようとしていた者も斬る。そうすればその横を別の敵が通り抜けようとしたから、そっちは盾を伸ばして殴りつけた。

「通すかっ」

 ともかく出来るだけ敵を足止めして時間を稼ぎ、シーグルとは別の方向に向けて逃げるのがアウドの役目だった。シーグルと別れてから経った時間を考える、こちらの戦いぶりを見て手を出すのを躊躇している敵達の数をみる、それから更に近づいてきている敵の気配……それらを足してまだいける、というなら、次の敵が増える前に目の前の敵を減らしておくのが今やる事だ。

「腰抜けがっ、さっさとこいっ」

 そういって一歩強く踏み込んだアウドは、だが直後に治した筈の足に違和感を感じて体を止めた。なんだ、と呟こうとした時には激痛が走って思わずアウドは膝を折る。そうして痛む足を押さえてその理由を知った。
 足から、何かが出てきている。
 触れるそばからまるで足から何かが飛び出して生えてくるように、押さえた手から零れるように伸びてくるモノがある。ぬるりと血の感触を纏ってどんどん足から伸びてくるそれはまるで植物のようで……それでアウドはその正体に察しがつくと同時に、どこかから呟くような小さな声が聞こえてきているのに気付いた。
 ちらと見たそれは魔法使いで、更によく確認すればその魔法使いはラークだった。
 何故ここにいるのか、と思った後、そもそも自分達をここにへ飛ばしたのが彼だったと思い出す。シーグルの弟である彼がシグネットに危害を加えようなんて考える筈がないから、操られているか偽物か。偽物ならどうでもいいが、操られているならどうでもいいと言える訳もない。どうするか、と考える間に、様子を見ていた敵は待ってくれる筈もなく襲い掛かって来た。

「なめンなっ」

 叫ぶと同時に立ち上がって敵の剣を盾で受け、即座に斬りつける。まさかこちらが立ちあがれると思っていなかった敵は油断していたらしく、あっさりと深手を負ってくれた。

「生憎、足が動かない戦いにも慣れてるんでなっ」

 言葉は分からないだろうが、と思いつつも敵を睨みながら叫ぶと同時に笑ってみせる。そう、却ってそういう戦い方の方がこちらとしては慣れているくらいだ。痛みは酷いが無理矢理にでも無視すれば、ただ単にちょっと前の自分に戻っただけに過ぎない。もうだめだ、なんて言葉はまだ早い。
 今度は二人同時にやってきた相手の剣を纏めて盾で受けてから、わざと腕の力を少し抜く。そこで調子にのって押し込んできた相手を刺し、残る一人は盾で吹っ飛ばした。だが折角一人を減らしたところで、また新手が目の前に現れる。
 さすがにこちらから突っ込んでいけなくなった分、思うように敵を減らす事が出来ない。それにこちらを避けて先に行こうとする敵はどうしても放置するしかない。これでは足止めというより、どうにかシーグルを追う敵を減らすのが精いっぱいかとアウドは思う。

「……生きて帰れたら、また貴方を……かも、なんて思ってたんですけどね」

 小さく小さく呟いて、唇に自嘲を乗せる。死ぬ気はなかった、けれどこれは――だがそこで少しだけ覚悟しかけた時、アウドの目の前、いや森の中で異変は起こった。

「――っ」
「――っ、――っ」

 アウグ語の怒声が各地で飛び交う。それと同時にアウドもまた……視界の中に見える筈がないものを見つけてその理由を理解した。
 子供を抱く、黒い甲冑の騎士の姿。
 何故かこちらを取り巻く敵の中に、いない筈のその姿がある。
 すぐに敵達は叫んで、その黒い騎士に向けて剣を振りかざす。――この敵がアウグ兵であるなら恐らく目的はシグネットだろう、そうであるならアウドに構っている場合ではない――だがそうして皆でその人物を刺した後、倒れた黒い騎士の姿はアウグ兵の一人に戻った。当然その腕に子供などいない。
 そうして、同士討ちに気付いた敵がざわつけば、またその中に黒い甲冑……レイリースの姿が混じる。敵達はまた騒いでその黒い騎士に剣を向ける、が……。

――これはおそらく幻術だ。

 多分、敵にシーグルの姿を映しているのだろうと考えて、アウドの頭には即座にこの手の術が得意な味方の魔法使いの名が浮かんだ。

「文官殿か……」

 目標の相手に見えてそうではない、結果ただの同士討ちになっている事に気づいた敵兵達は状況にパニックを起こしていた。離れた場所でもあちこち騒ぎになっていそうなところからして、複数の敵にシーグルの姿が映されているのだろう。

「え……何? ここ何処? 俺どうしてこんなとこにいるの?」

 そこで背後からそんな間抜けとも言える声が聞こえて、アウドははぁ、と苦笑と共に大きく息を吐いた。操られていた方だったか、と呟いて、へたに手を出さなくて良かったと安堵する。主の弟に何かしたとあったら合せる顔がない。

――ともかく、逃げるとしたら今のうちだな。

 ぼうっと突っ立っているラークの手を無言で掴み、アウドは片足を引きずりながらも走り出した。幸い痛みは痛さを通り越して麻痺していて、ただ動かないだけなら前と同じだけだと自分に言い聞かせる。さすがに自分の足が今どういう状況かなんて見てる余裕もなければ見たくもなかったが、これはドクターに怒られるのは確実だろうなとは考えて苦笑いをする。

「ちょっ、待って、ここは何処……」
「いいですからまずは逃げてくださいっ、説明は後ですっ」

 言えばラークも大人しく走り出す。途中からはラークがアウドの足を察して肩を貸してくれながらも、敵が混乱している中、二人は暗い森の中を走った。
 そうして追手から逃れた彼らは、遠くで木が倒れるような音を聞いた。




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 えーとまぁその久々のせいか趣味に走りまくりですね……BLなんですよ、はい、一応。
 



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