旅立ちと別れの歌




  【18】



 その日から後、将軍セイネリアは更に人前に出なくなっていく。王宮にはたまに王に会いに姿を見せるものの、民衆の前に出るのは国をあげての大きい行事だけになってしまい、更に出てもいるだけでまず滅多に発言をしなくなった。それでも将軍府や騎士団、クリュース軍は問題なく機能していたし、少し大きな蛮族の襲撃があった時にはセイネリア自身が姿を見せて追い払ったこともあった。
 王宮仕えの兵達や騎士団の上層部は辛うじてセイネリアを見る事はあっても話したものは滅多におらず、地方では噂の出鱈目さからして存在さえ怪しまれる程本人は表に出なくなってしまった。
 ただ将軍府の発表には必ず彼の名前が入るから、彼の名を人々が忘れるという事はなかったが。

 一方、将軍の側近であるレイリース・リッパーは今回の競技会優勝から騎士の称号を授与される事になり、試験を経ずに騎士と呼ばれる事になった。彼は将軍がいる時は常に傍についているものの将軍の代わりとして単独で城に来ることも多く、度々その剣技を王や他の兵にせがまれて見せる事があった。そこからのちに王に剣を教えたり、設立された騎士養成学校の臨時講師を務める事もあったが、彼が競技会に出る事は二度となかった。


 そうして、季節は巡り、時間は過ぎる。


 それは小さな子供が成人するまでの十数年の出来事。けれど、時間が止まった二人にとってはあっという間の、けれども平和で幸せな日々。
 新政府が発足してから19年目の国王の即位記念日、そして今年だけは特別なシグネットの戴冠式は人々の熱狂の中滞りなく行われた。

 その日から少年王シグネットは正式に王座に座る事となり、クリュース国王、アルスオード二世と名乗って母である摂政ロージェンティから全権を引き継ぎ、以後この国の本当の頂点に立つ存在となった。







「陛下ー陛下ぁっ――アルスオード様ぁっ」

 いつも通りに響く青年の声に、城の女官達は顔を見合わせる。
 それと同時に立場が変わっても変わらぬ彼らの王の事を思って、まったく仕方がない方、と言葉とは違ってどうしても笑顔になってしまいながら王に関しての雑談を始める。

「全く……今日だけは午前中はいない事にしてくれって、それで済むと思ってるんですからあの方はっ。本当に、いつまで子供のつもりなんだか……」

 もう今朝から何度ついたのか分からないため息をついて、メルセンは恨めしそうに彼の主が残していった書き置きを取り出して眺めた。

『旅に出ます探さないでください――というのは冗談だが午前中だけはいない事にしてくれ、今日だけだ、昼には絶対に戻るから頼む』

 あまりにも王らしくないその文面に頭が痛くなりながらも、メルセンはがっくりと肩を落とす。それからふと人の気配を感じてそっと後ろを振り向いた。

「……やっぱり貴方ですか」
「はい、俺っスよ」

 いつも表情の読みにくい張り付かせたような笑みの灰色の髪の男を見て、メルセンは顔が引きつるのを止められなかった。
 初めて顔を見たのは従者見習いとして城にきた丁度三年後だったろうか、実はいつもこっそり少年王を守っていてくれたというこの人物は、どうやら将軍の部下らしい。将軍の部下というだけで無条件に信用する主には困ったものの、実際危ないところを助けて貰ったのは二度三度どころではなく、こちらが気付かない間にトラブルを未然に防いでくれたのまで含めれば救われたのは数えられないくらいらしい。
 とはいえメルセンの個人的問題としてこの人物があまり好きでないのには理由がある。主を守る為強くなろうとどれだけ鍛えても……いまだにメルセンはこの男に簡単に後ろを取られる。知らない間にすっと後ろに立たれてそれから気づくというのがいつもの事で、後ろを取られる前に気づけたことがないのが悔しいのだ。

「やー、今日はですね、ちょっと陛下はうちのボスと大事なお話があるんでいない事にして欲しいって事を伝えにきたんスよ」
「……なんだ、将軍様との話なら最初からそうと……そうすれば誰も文句を言わないでしょうに」

 今ではほとんど表に出なくなったとはいえ、将軍セイネリア・クロッセスの名を出せば大抵の者は引き下がる。だから最初からそう言ってくれれば、謁見に来た客もそれで追い返せる、とメルセンは思ったのだが。

「まぁそりゃあくまで内密にって事になってましてね。……ですから今日はまぁ、またあんたにお願いしようかなっと、既に皆準備して待ってますんで」

 途端、メルセンの顔が引きつる。

「い、い、いやいやいや、お、俺が代わりとか無理ですからっ、しかも今回はただ座ってるだけじゃすまないじゃないですかっ」
「だいじょーぶだいじょーぶっス、あんた王様よく観察してるからマネもうまいじゃないスか、姿も声も魔法使いさん達がちゃんと誤魔化してくれますから無問題っス」
「いや無理です、この間だってなんかウルジード卿が不審そうな顔してましたよっ」
「疑ってもまさか『本物ですか』なんて失礼な事誰も聞いてきたりしませンよ。いやーあんたが陛下と丁度身長が同じくらいで良かったっス」

 逃げようとしてもがっしりと掴まれると逃げられない。しかも男が合図をすれば、迎えの魔法使いと共に弟のアルヴァンまでもが現れた。

「はぁ〜い、メルセンさん、観念してくぅださぁいねぇ〜」
「兄さん、諦めとこう」
「くそっ、アルヴァン、お前裏切ったなっ」
「裏切ったも何も俺の主は兄さんじゃなく陛下だし」

 悲しい事に純粋な力だけだと、大男に入る父親に似る程大きくなった弟には敵わない。弟にがっしりと捕まった上持ち上げられてしまってから魔法使いが転送の呪文を唱えだす。

「っていうか、俺が身代わりやると、陛下がまた調子に乗って抜け出しますからーぁっ」

 メルセンの虚しい訴えは、その姿と共にその場から消えることとなった。








 いつでも大好きだった。
 立場上、どれだけの無茶でも彼の腕の中限定なら許されて、どんなところでも彼がいるなら安全だと思えた。いつでも彼の傍が絶対的に一番安全な場所だった。
 その人物が、物心ついた時にはずっとつけていた仮面を外す。
 その顔を見てシグネットは、彼が何もいわなくていろいろな事を察した。

「驚いたか?」

 年齢を考えればありえない程若々しい男は、言いながら少し寂しそうに笑った。
 シグネットはゆっくり顔を左右に振る。

「うん……いいや、なんかよく分からないけど納得した。やっぱり将軍は特別だったんだなってさ。だからずっと一緒にいられないんだね」
「あぁ」
「もしかしてお師匠様もそうだったのかな?」
「あぁ、あいつも俺が望んでしまった所為で歳を取らなくなってしまった」
「そっか、それじゃ二人で仲良くね」
「あぁ」

 いつも通りの大きな手が頭を撫でてくれる。それが確かにいつでも自分を守ってくれた手だと分かるから、最後のその感触をよく覚えておけるよう、シグネットは目をつぶった。

「俺も大人だから、いつまでも将軍に守ってもらう訳にいかないしね」

 大好きな将軍はシグネットに前から言っていた――お前の傍にいてやるのはお前が戴冠するまでだ、と。そうしたら彼の一番傍にいる部下のレイリースと共に帰ってこない旅に出る、と15歳になった時からずっと言われてきた。その為に将軍は仮面を被って、いつ中身が入れ替わってもいいようにしていたのだと言っていた。……仮面の理由がそれだけでなかったことは今回初めて分かった事だったが。
 だから心の準備は出来ていた。シグネットの剣の師匠でもあるレイリースとは先ほど最後の稽古をつけて貰ってそれを別れの挨拶とした。彼は別の人間に別れを言いに行ったそうだからもういないが、その所為で将軍と二人きりになってしまったら泣いてしまいそうになって、シグネットはぐっと顔に力を入れて涙をこらえて笑っていた。

「俺がいなくてもお前は大丈夫だ」

 セイネリア・クロッセスといえば獣のように恐ろしい琥珀の瞳――というのは噂話でいくらでも聞いたことはあったものの、その瞳がいつでも自分にだけはとても優しいことをシグネットは知っていた。黒髪の中の目鼻立ちのハッキリしたその顔は確かに睨めば相当に迫力がありそうだとは思っても、シグネットにはいつもの優しい大好きな将軍だった。

「うん、メルセンもアルヴァンもいるしね、他の皆も……皆、助けてくれるから大丈夫だ」

 声を出してしまうとやっぱり泣いてしまいそうで、だから思い切ってシグネットは言ってみる。

「将軍、最後だから……ちょっとだけ甘えていいかな。昔みたいに抱きついてもいい?」
「あぁ」

 そうして手を広げてくれた長身の黒い男に抱きつけば、彼は子供の時のようにそのまま抱き上げて持ち上げてくれた。

「やっぱり将軍はとんでもなく力持ちだ」
「まぁな。だがお前は父親よりも重くなった」
「……父上は細かったみたいだから」
「あぁ」

 この腕の中の安心感は変わらないなと思ってから、少しだけ零れてしまった涙を拭ってシグネットは抱き付いたまま最強の黒い騎士に言った。

「将軍、ずっと俺を守ってくれてありがとう」



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 セイネリア側のお別れがシグネットなので、次回のシーグル側は……
 



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