【19】 彼女は黙って、その黒い騎士が兜を取るのを見つめていた。 そうして、黒い兜をとって現われた白い容貌に、震える手で口を押えて涙を流した。 騎士はそこから首飾りを取ると、こちらに向き直る。 昔より長くなった銀色の髪の中、見間違えるはずがない深い青い瞳が彼女を映した。 「すまない、ロージェ」 声もその顔も記憶したままの彼そのもので、また彼女は涙を流した。 心の準備をしていた筈だったのに、彼女は流れる涙を抑えられなかった。 話がある、とセイネリア・クロッセスから連絡がきたのは昨夜の事だった。どうしても重要な話がある、だから明日の朝は時間を空けて欲しいと。そうして朝一番に顔を出してあの男が言ったのは、彼の側近であるレイリース・リッパーが本当は生きていたシーグルだという事で、自分と彼は城を出て旅に出るという話だった。 シグネットが成人し戴冠したらあの男は旅に出る――というのは前から聞かされていた。だからそれ自体はいいとしてもシーグルの事はあまりにも突然で、正直、どれだけ落ち着かせようとしても心の準備など出来る筈がなかった。 けれど、記憶とまったく違わない若々しい彼の姿を見た途端に、彼女はこの上ない喜びと共に『いかないで』とは言ってはいけないその理由を理解した。 「本当に貴方は……また、謝るのですね」 出来るだけ笑ってみせれば、彼はもう一度、すまない、と呟いた。 それにまた涙が出てしまいそうになったが、今度はちゃんと我慢できたと彼女は思う。 「謝らないでください。貴方はずっと私たちを見守っていてくださったのでしょう」 「だが、俺は君と……皆をだました。俺の死を嘆く者達を見て黙っていた」 あぁやっぱりこの人は変わらないのだと思えば、嘆く自分たちを見て彼がどれだけ苦しんだのかも分かってしまう。本当に優しい人だから――だから、この人の為に引き留めてはいけないと彼女は満面の笑みを浮かべた。 「あの男は言っていました『恨むなら俺を恨め、俺が契約で縛ってお前達からあいつを奪った。俺の願いであいつはお前達とは生きられなくなった』と」 「だがそれでも、俺が君たちを騙していた事実は変わらない。それに……ここを出て行くことも。君だけを愛すると誓ったのに俺はそれを……」 「そこまでです。それ以上は言わないで頂けますか?」 驚いた彼はそこで一度口を閉じる。 彼女はにっこりと、嫌味にさえ見えるだけの笑みを浮かべて、好きで好きでたまらなかった彼女の愛しい夫を見つめた。 「私、嫉妬深いので余計な事は聞きたくありません。アルスオード・シルバスピナは確かに私を愛していました、その事実は変わらないのでしょう?」 「……あ、あぁ」 「それに私はプライドも高いので今の貴方の傍になんかいたくありません。ただでさえ貴方は男性としては麗しすぎて横に立つのに勇気がいりましたのに、今の私が傍に立ったらそれこそ肌の張りも皺も目立ってしまいまって余計老けて見えてしまうではありませんか。しかも貴方はいつまでもそのままで私だけお婆さんになっていくのなんて耐えられませんわ」 「……え、あ、あぁ」 どうすればいいのだと、目を見開いて戸惑っている愛しい人のその様子が変わらなくて、おかしくて、ロージェンティは満面の笑みと共に胸を張っていい放つ。 「だから気にせず行ってくださいませ。私は確かにアルスオード・シルバスピナに愛された、彼の妻であるという事実があれば生きていけます。それに私にはもう一人のアルスオード様がいらっしゃいますもの」 本当はどれだけ傍にいて欲しくても、行かないでと言いたくても、彼を苦しみから解放してあげなくてはならない。 彼女は笑う、堂々と、威厳をもって。つい先日まで摂政としてこの国の政治の頂点を担ってきた彼女にとってはそうして心を隠して笑って見せる事など慣れている筈だった。 それでも最後にどうしても彼を感じたくてなってしまったから、彼女はつい、言ってしまった。 「でも……今の貴方から見れば母親くらいの歳になってしまった私ですけど、最後のお別れのキスくらいは強請ってしまっても良いでしょうか?」 声が震える、目が熱くなる。 けれど手を広げれば、誰よりも愛しい彼女の夫は笑って近づいてきてくれた。 出発は城の一番高い城壁の上から。 そう言ってしまえばシグネットが来てしまうから、あの子には黙って転送でここへ飛ばして貰った。基本的に城の中では転送は使えないのだが、魔法ギルドで設定しているポイントを使うか、一部わざと断魔石の効果が切れて作っている抜け道を知っている術者なら飛ぶ事は出来る。今回セイネリアをここまで飛ばしてくれたのは魔法ギルドのあの金髪の仮面の魔法使いだった。シーグルも用件が終わったらここへ来る筈で、そうしたらまた彼――魔法使いクノームがシーグルとセイネリアをウィズロンへ飛ばしてくれる事になっていた。 だが、魔法使いは最初から様子がおかしかった。 迎えに来た時から妙に緊張した空気を纏っていて『何かある』ということだけはセイネリアも察していた、だから。 「さて、あんたには大事な話がある。何もこの役をわざわざ俺が引き受けたのは別れの挨拶をする為だけじゃない」 城壁に移動してから暫くして魔法使いがそう言ってきたのも予想の内だったから、セイネリアは特に身構える事なく殊更ゆっくりと振り向いた。 それでもすぐ魔法使いは言葉を続けなかった。一度大きく息を吸って、それからようやく口を開く。 「セイネリア・クロッセス、あんたには朗報だ。……黒の剣だが、少しづつその力が減っているのが確認出来た。その理由もやっと判明した」 「どういうことだ?」 セイネリアは眉を寄せると、少しだけ声を低くして相手を見据える。 「黒の剣の魔力は膨大過ぎて……あんたがちょっと放出したところで放たれた魔力は結局はその膨大な魔力に引き寄せられて剣に戻っちまう。だから減る筈はないんだが、確実にその剣の魔力が減っているってのをやっと確定できた」 そこで一度言葉を区切って大きく息を吐いた魔法使いに、セイネリアの益々低くなった声が飛ぶ。 「もったいぶるな、それでその理由は?」 期待はしない、シーグルさえ傍にいればそれでいい――そう納得出来ていた筈なのに、朗報などと妙に期待させる魔法使いの言い方がセイネリアの気に障る。まさかと思っても、剣から解放される手段があるのではないかと思ってしまいそうになって、セイネリアは胸の中にむかむかと競りあがってくる焦りと戦わねばならなくなった。 「理由は……まぁ、あんたも予想してる通り全部あの坊やの所為だ。あんた一人の時は剣の魔力はあんたと剣の間で閉じていて外へなんか漏れなかった。だが今はあんたからその魔力があの坊やに流れてる、だからあの坊やは歳を取らなくなった訳だ」 セイネリアは自分を落ち着かせようと、城壁に背を寄りかからせたまま一つ大きく息を吐く。 それでも、魔法使いというのは何故こんな回りくどい話し方しかしないのだと思えば、声がはっきりと苛立ってしまうのも仕方ない。 「そんな既に分かっていることはどうでもいい、どうしてシーグルに魔力が行ったくらいで剣の魔力が減るんだ。あいつに行ってる魔力など剣からすれば漏れた内にも入らないくらいの量の筈だ」 「ところがそうではなかったんだ」 「どういうことだ?」 シーグルに流れている魔力を『大した量ではない』とセイネリアが判断していたのには理由があった――もし、黒の剣から大量の力がシーグルに流れているのなら、シーグル自身もっと普段から魔力に満ちていなければならない。それこそセイネリア並みに、他者の魔力がまったく効かない程度には体が魔力で満たされていなくてはならない筈だった。満月の時だけ溢れる程魔力が膨れ上がるとはいっても、シーグル自身に成長が止まった以外の魔力的な変化がない段階で、自分の願いを叶える為に少し余分に魔力が流れ込んでいる程度だとセイネリアは思っていたのだ。 だが魔法使いの答えは、セイネリアの全く想定していないモノだった。 「お迎えに上がりました」 そう言って、ロージェンティの部屋から出て来たシーグルを迎えに来た賑やかな面々に、正直シーグルは面食らって驚いた。それから、それぞれ笑顔で自分を見つめる彼らに笑いかけて、そうしてゆっくり頭を下げた。 「……すまない、皆」 言えば一斉に不満そうな声が返ってくる。 「なぁ〜に言ってるんですか、どこに貴方が謝る必要があるんでぇすかねぇ」 「そうです、私シーグル様の謝る理由なんてわかりません」 「謝らないでくださいよ、俺は後悔しちゃいませんから」 「え〜……私は多分謝って貰ってる『皆』に入らないと思いますけど、とりあえず私も貴方が謝る必要はないと思います」 キール、ソフィア、アウド、そして最後に吟遊詩人がそう言ってきて、シーグルはそれで顔を上げると笑った。 「いいんだ、俺の気持ちだから。皆にはとても世話になった。たくさん迷惑を掛けて、たくさん助けて貰って……皆はいつも俺を守ってくれた。ありがとう、なのに皆を残して行く事になってすまない、俺は皆が大好きだ」 今度の言葉にはその場の皆が笑うというよりにやけてしまって、各自嬉しそうに顔がゆがむ。 「まぁ〜貴方に大好きと言われればそりゃ嬉しいですねぇ」 「私はその言葉だけで十分です」 「俺が貴方を大好きな事は言うまでもないと思いますが」 「ま〜……やはり私は多分貴方の言う『皆』の内に入っていないと思いますが、とりあえず一緒に喜んでおきます」 流石に二回目となれば、笑みも苦笑になってちゃっかりついてきたように見える吟遊詩人に視線が集まる。そうすれば吟遊詩人は悪びれもせず、そこで優雅に帽子を取ると胸に抱え、全身でポーズを取って馬鹿丁寧なお辞儀をして見せた。 「え〜それではここで、何故私が皆さんについてきてまで最後に貴方に会いたかったかを説明いたしましょう」 芝居がかった大仰な言い方は詩人らしく、一同はあっけに取られる。だが詩人が深いお辞儀から顔を上げてシーグルの顔を見た事で、シーグルは思わず身構えた。 --------------------------------------------- 男前なロージェンティとの別れのシーンは書きたかったところだったの満足。 |