【5】 シグネットの傍に二人の少年がつき、更に子供部屋だけの世界から城内を出歩くようになった所為で城の中は確実に騒がしくなった。 特にメルセンがシグネットを探して回る姿はお約束になってしまったらしく、そのたびに使用人達が笑って少年王の目撃情報を教えるのがいつもの事になってしまった。 「これは陛下」 「うん、お仕事ごくろーさまっ」 城内で塔以外なら一番高い城壁の上にいたセイネリアは、微かに聞こえて来た声に一度目をそちらに向けた。やはり声が聞こえたカリンもそこでくすりと笑みを漏らす。 「休憩時間ですか? メルセンにはなんと言っておきましょう?」 「んー、メルセンにはないしょにして、知らないっていってもらえるかな」 「はい、承知いたしました」 楽しそうに守備兵とそんなやりとりをするシグネットに、セイネリアは仮面の下の口元だけに笑みを浮かべる。どうもシグネットがメルセンから逃げるのは遊びのようなものらしく、兵や女官達にメルセンへのヒントを残して見つけさせるまでがセットになっているらしい。けれど今回は内緒というなら、これは本気で逃げ出してきたというところかとセイネリアは思った。 「しょーぐんっ、なんで来てたのに会いにこなかったんだよっ」 走りながらそう言ってきた相手に、セイネリアはそこでやっと体ごと顔を向けてやった。今日は天気がいいから、走って跳ねる度にシグネットの銀髪がきらきらと光ってセイネリアは思わず目を優しく細める。 「お前は勉強中だったろ」 「でもちょっとまっててくれれば終わったよ」 「俺も忙しい」 「こんなとこにいるのに?」 「ここからの眺めが好きなんだ」 「……だからここにはあまり人が来ないんだね」 「そういうことだ」 言いながらセイネリアが手を広げてやれば、少し拗ねていた顔をぱっと輝かせてシグネットが飛びついてくる。それを抱き上げてやれば、シグネットはその位置から見える城壁の向こうの眺めに瞳を向けた。 「ほんとにいいながめだね」 「だろ、街が良く見える」 セイネリアに抱きかかえられると、つい足をパタパタと動かしてしまうのはシグネットのクセらしい。嬉しそうに風景を眺める少年王の、目の前にある銀髪に思わずキスしてしまいそうになって、それを誤魔化すためにセイネリアはその髪を撫でた。 「おれ、重くない?」 顔を上げて急に真剣な顔で聞いてきたから、セイネリアは笑う。 「確かに前より随分重くなったが、俺としては問題ないぞ」 シグネットはそれにまた嬉しそうににぱっと笑う。 「やっぱしょーぐんは力強いね、かたてでおれを持ちあげるのはしょーぐんくらいだ。ははうえはもう重いからだきあげるのはきびしいわっていってた」 「俺と母上以外でお前を抱き上げるのはガキ神官先生と叔父のフェゼントくらいだろ、俺と比べるな」 「このあいだランにもちあげてもらったよ」 「奴の場合はそりゃ大事に慎重にだったろうからな、両手になるのは当然だ」 「そうなんだ、でもしょーぐんはすごい力強いってみんないってる」 「まぁな、力には自信があるぞ、お前の父上も楽に持ち上げられた」 それにはシーグルより色の薄い青空の瞳を思い切り開いて、子供はセイネリアを見てくる。 「ほんと? 大人のちちうえ?」 「勿論、ただお前の父上は大人の男の割りには軽かったがな」 「そうなの? でもおれより重かったよね?」 「それは当然だろ」 父親の話をすると真剣に聞いてくるシグネットだが、あまり間近でそんな顔をされるとセイネリアとしてはシーグルを思い出してしまって少々辛い。 だからその額を指で軽く弾いて、少年の表情を変えさせた。 「本当は今は休憩時間じゃないだろ、サボったなお前?」 シグネットはそこで顔を顰めると、少し目を泳がせて……それから諦めたように申し訳なさそうな顔でセイネリアを見上げた。 「うん……あの先生、好きじゃない」 シグネットは基本的には人を嫌う事はまずない。それがそう言ってくるのなら余程嫌なことがあったと考えていいだろう。 「何かあったか?」 聞いてみれば、少年王は最初唇だけをもごもごと動かして、それから下を向いてセイネリアに頭ごと寄りかかってくる。 「しょーぐんのことわるくいったんだ。きぞくじゃないから、生まれがいやしいって、だからひんがないって」 「……まぁ間違ってはいないな」 考えればシグネットの先生の中でも思いつく顔があって、なるほどな、とセイネリアは思う。今年に入ってから雇ったシグネットの家庭教師達だが、出来るだけ能力で選ぶようにはしたから魔法使いや神官が多くはあっても、礼儀作法や言葉遣いを教えるにはやはりどうしても貴族である必要があった。対外的にも貴族を雇わない訳にはいかなかったという事情もあるが、そういう連中がセイネリアの生まれを馬鹿にするのは仕方ない。というか、その手の誹謗中傷をセイネリアは特に罰せず放っておいているから、彼らも裏で話すのは当たり前になっていて、シグネットの前でもつい口を出てしまったというのがあるのだろう。 「分かった、それは少し釘を刺しておく。それとな、そいつみたいに今後も嫌な奴に会う事はあるだろうが、それをただ嫌な奴といって逃げるのは良くない」 「ならどうすればいいの?」 まだ幼い少年には言い方が難しいなと思いながらも、少し眉を寄せて見上げて来たシグネットに出来るだけゆっくりとセイネリアは言ってやる。 「嫌な奴が嫌な事を言ってもただ言ってるだけなら無視しておけ、嫌だと思うような奴でもお前がすごいとか良いと思えるところがあるならそこだけはちゃんと見て聞いて自分のものにしろ、お前の嫌な先生も教えてる事自体はすごいと思うんだろ?」 「うん、ははうえがほめてた」 「なら、嫌なことを言っていても無視しとけ。ただそれをお前にも強要してきたらだめだ、そうしたら俺でも母上にでも言えばクビにする。あとな、無視しててもうるさいと思ったこう言うんだ『人の陰口など一番品がない事だ』とな」 難しい顔をしていた少年は、それでまたにこりと笑う。 「うんっ」 本当に子供というのは表情がころころ変わる、と思いながらもセイネリアが頭を撫でればセイネリアにだけは甘えてもいいと思っている少年王は嬉しそうに頭をこちらに預けてくる。 「まぁ今日はお前のサボりにつきあってやる、どうせ俺のところなら先生も連れ戻しにこれないと思ったんだろ」 「……うん」 「このところ勉強ばかりで大変だろうしな、たまの休憩くらいいいだろ」 「……う……ん」 そうして寄りかかっていた少年は安心しきって気が抜けたのか目を擦りだす。これは本気で疲れていたらしいとセイネリアが思った時には頭がこくりと揺れだして、それを支えて眠りやすい体勢にしてやれば本当にシグネットは寝てしまった。セイネリアはその寝顔を見て苦笑するしかない。 「本当に、そっくりだな」 呟けば、傍でやりとりを見ているだけだったカリンもシグネットの顔を覗き込んでくる。 「シーグル様にですか?」 「あぁ。あいつは普段の表情からは思いつかないくらい寝てる時の顔が子供っぽいんだ」 そこまで言えばベッドで眠る彼を抱きしめている一番幸せな時間を思い出してしまって、セイネリアは少しだけ呼吸が苦しくなるのを感じた。涙は出ないものの瞳の奥もが熱く感じる。無性に今、彼に会いたくて仕方なくなる。 だから、つい。 眠る少年の銀髪に軽く唇で触れて、それから軽く口ずさむ。シーグルが歌っていた子守歌――かつて母親が歌ってくれたのと同じ歌を。 ねむれ、いとしい子供たち ねむれ、ねむれ、よいゆめを ゆめのなかでも、たくさんの笑顔と幸せがお前達にあるように らしくないなと自分で思いながらも、それで自分の中にあった焦燥にも似た彼への想いが少し和らいだ気もして、セイネリアはシグネットの髪を撫でながらも大きく息をついた。 「子守歌ですか?」 歌い終わればカリンがそう聞いてきて、セイネリアは苦笑して返す。 「あぁ――知っているか?」 「私は歌ってもらったことはありませんが、婆様のところで聞いた事があります」 「わりとあちこちで歌われている歌のようだからな」 「そうですね、ただ……」 だがカリンは、そこで言葉を止めて姿勢を正した。 セイネリアは視線をシグネットに留めたまま、近づいてきた人物に声を掛けた。 「メルセンではなく、次の授業の先生が探しにきたのか?」 「……まだ私の時間ではないのですけど、頼まれました」 金髪に近い薄茶色の長い髪を後ろでゆるくまとめている優しい容貌の騎士は、言いながら眠っているシグネットを見て笑った。 「多分陛下は、次は私の時間だから抜け出したんだと思います。私の授業に間に合わなかったらウィアがすぐに連れ戻しに行きますから」 「さすがの悪ガキ王様も、悪ガキの先生からは逃げられないか」 シーグルの兄であるフェゼントは、セイネリアが子供部屋に毎日顔を出していたせいもあるのか、今は前のようにセイネリアの前でもびくびくする事はなくなった。ただ自分から話しかけてくることはまずないからこの状態は珍しい事ではある。 「知っていますか? シグネットがこんな簡単に逃げ出せるのは、ウィアが作った城の抜け道地図の所為なんですよ」 それにはセイネリアも笑ってしまう。ただ、あの神官の性格を想像すれば納得出来てしまうから、呆れつつも感心してしまうのだが。 「……本当に行動が悪ガキだな、あのガキ神官は」 「えぇ、でも本当に人が困る事はしません」 シグネットの顔を見たまま、それにセイネリアは鼻で笑った。 そうすれば少しだけ躊躇しているらしい間が空いて、その後にシーグルの兄である優し気な青年はおそるおそる聞いてくる。 「それにしても、その……シグネットを探しに来たおかげでとても珍しい光景を見れました。将軍閣下の子守歌なんて、その辺りの兵が聞いたら腰を抜かすんじゃないですか」 セイネリアはそこで初めてフェゼントの顔を見た。 「まぁそうだろうな、試しに誰か言ってみるといい。寝込むかもしれないぞ」 そう軽く流したセイネリアだったが、フェゼントが笑みのままだが少し硬いだけ声で聞いてきた言葉には口元の笑みが消える。 「私も知っている歌でした、まさかシーグルから聞きましたか?」 セイネリアはそこで一瞬考えた。ハッキリシーグルから聞いたと言ってしまえばいいのかもしれないが、フェゼントにとってシーグルとセイネリアの関係は一方的にセイネリアが求めていただけだとしていた方がいい。 だから悪気もなさそうに笑顔を浮かべているフェゼントに、セイネリアは再び笑みを纏って言う。 「レイリースからだ。母親から聞いたのも同じ歌だったんだが、歌詞は忘れていた」 「そうですか……」 --------------------------------------------- セイネリアの子守唄……怖いよね(==。 |