【6】 長い髪の騎士らしくない青年はそこから暫く黙って、それから苦笑、というより自嘲を込めた表情でまた口を開いた。 「母は、私のために子守歌を歌った事はなかったそうです」 寂しそうな笑顔を浮かべる青年は、そこで視線を城壁の外に向ける。 セイネリアはフェゼントが生まれるまでのいきさつを知っていた。だから彼の母親が何故彼に子守歌を歌わなかったのかも容易に想像できる。自分を襲った男の子供かもしれない存在に女はどうしても愛情を注ぐことが出来なかったのだろう。 「母は私を疎んでいましたから……赤子の私を抱こうともしませんでしたし、乳さえ飲ませたがらなくてほとんど近所の子のいる女性から飲ませて貰っていたそうです。私が泣くたびに耳を塞いで、おかげで父が苦労をしたと聞いた事があります。幸い私はそのころの記憶はありませんが、家の中はいつも重苦しかったといいます」 けれどそこで、彼はセイネリアの方を向くと笑う。 「……えぇ、シーグルが生まれるまでは」 セイネリアが僅かに口元を緩ませれば、フェゼントは大きく息を吐いて手を胸に置き、笑顔のまま、祈るように目を瞑った。 「シーグルは本当に家族にとっての救世主だったんですよ。シーグルが生まれてから母は笑顔を取り戻して精神的にも安定し、私のことも見ないふりをするのをやめました。シーグルが私にくっついてまわるから、二人いっぺんに世話をするようになったそうです。……それでも母親に避けられているのは子供心でも気づいてましたけど、でも明らかに遠ざけられたり嫌ったりするようなことはされた覚えがないのはシーグルのおかげでしょうね。母に溺愛されていたシーグルが、私が寂しそうにしているといつも『兄さんも』って母に訴えてくれましたから。母の子守歌は、二人でベッドに入って、二人ともに歌ってくれた歌なんです」 「そうか……」 そんなころからあいつは人を救ってきたのか――言葉にしはしなかったがそう考えてセイネリアの口元が笑みになる。 「将軍閣下、貴方も母親から子守歌を歌ってもらうような子供だったのですね。……それを知って安心しました」 セイネリアはその言葉の意図が分からなくて僅かに眉を寄せた。フェゼントはそんなセイネリアの様子の何がおかしかったのかは分からなかったがくすくすと鼻を鳴らして笑った。 「……それは、俺も人の子だったという意味か?」 「貴方も愛された子供だったのだという事にです」 「愛された、子か……」 それは違う、自分は母にとって存在しない子供だった――そう心の中で思ってから、唇だけに自嘲を乗せる。それで少しは察したらしいシーグルの兄は、それでも笑みを崩さずに言葉をつづけた。 「たとえどんな事情があったとしてもちゃんと貴方は愛情を感じたことがある。そんな貴方はきっと、人を愛せる人物なのだと思います。だから……任せられます」 言いながらその視線がシグネットを見たのをみて、セイネリアも腕の中で眠る子供に目をやる。あどけない寝顔は本当に父親によく似ていて、それに僅かな胸の疼きを覚えてしまう。 そこに今度は、急にトーンの落ちた青年の声が聞こえてくる。 「私は……ずっと羨ましかったんです、シーグルが。母から愛されて、騎士としても誰からも文句のつけようがないくらい立派で、強くて、正しくて、欲しいモノを全部持っているシーグルが羨ましかった」 まるでリパ神官への告白ようなその言葉は、かつてシーグルから離れてくれとそう言いに来た時に彼が言っていた事でもある……弟を嫉んでいたと。その時は『シーグルは強いから』と言ったその言葉にムカついたのだが、不思議に今はそれに怒りは沸いてこなかった。 「だがお前も努力してその『騎士』という地位を勝ち取ったんだろ」 言えば優しい風貌の青年は、らしくなく皮肉気に苦笑する。 「いいえ、騎士試験を申し込んだ時には、既に貴族院に私はシルバスピナの者として登録されていました。ですからきっと、貴族扱いで合格になったのでしょう。自分でもよく試験に合格したと思っていましたから……後で知って納得しました」 「だがそれは確定じゃない、お前の実力で受かったものかもしれない。……それにシーグルだって、貴族特典を使わずに全部の試験を受けただけで内部では貴族だからと甘く採点されたかもしれないぞ」 「まさか、彼なら実力でしょう。誰が見ても納得できます」 「だが分からん、お前も、シーグルも。推測だけで自分を卑下するのはやめておけ。いいか、シーグルが『誰が見ても納得できる』と言えるのは、結局はその後のあいつの行動と実績の所為からだろ。つまり実際に試験が優遇されていたか実力だったかなんてのは大した意味はない、その後にそれを否定できないだけのものを見せられればいいだけだ」 言い切れば長い髪の女性のようにも見える青年は、僅かに涙ぐんで笑う。 「そう……ですね、なら国王陛下の先生だと堂々と言えるくらい、私ももっとがんばらねばなりませんね」 前はムカついた筈のこの青年に、何故今はこんなことをわざわざ言ってやったのかセイネリアには分からない。強いて言えば、兄が自虐するそんな姿をシーグルは見たくないだろうと思ったくらいで……あぁやはり、彼が愛しいからこそ彼の愛しい者が彼の望む通り幸福であってほしいと自分は思っているのだと妙にセイネリアは納得する。 「それに、これだけは覚えておけ。シーグルが自暴自棄になって全てを捨てようとした時……お前はあいつを救った。俺には出来なかったが、お前は救えた。あいつにとって『大好きな兄』がいたからこそ、母が死んでも目的を見失わなくて済んだし、お前との和解があいつの心を救った」 今度は空色の瞳を大きく見開いて、フェゼントはセイネリアを凝視する。この彼がこれだけしっかりこちらを見るのは初めてかもしれないなと思いながら、セイネリアは仮面の下から見える口元だけで笑った。 「俺としてはムカつく事にな、あいつはお前が大好きなんだ。だからあいつの為にお前はちゃんと『幸せ』という顔をしていてくれないと困る。それが一番あいつが喜ぶんだからな」 それにはふふっと軽く笑ってから、母親似の優しい青年は今度は満面の笑みを浮かべてセイネリアに言った。 「知らなかったんですか? 私は今とても幸せで幸せすぎるくらいで、いつもそういう顔をしているんですよ」 それはとても美しい笑みで……おそらく今ここにあのチビ神官がいたら感動するだろうなと思いながら、目を細めたその目元が兄弟らしく『彼』に印象がに似ているなとセイネリアは思う。 それから、また、視線を腕に落として。似ているというよりそのものに近い寝顔の少年を見てセイネリアは笑うと、眠るシグネットの鼻を軽く擦った。 そうすればシーグルの幼子版のような少年は眉を寄せて、鼻を手で払うように数度触ってから薄く目を開いた。 「ほらシグネット、迎えがきたぞ」 言えば青空の瞳がぱっと開いて、くすくすと笑っているフェゼントを見る。 「あれ、ウィアじゃないんだ」 「ウィアはちょっと……貴方の代わりにディーレイ先生のお小言を聞いてます」 「え、なんで?」 「城の抜け道地図がばれたからですよ。まったく、堂々と製作者名として自分の名前を入れてるんですからね……」 「そっかー、しょーぐんおろして」 シグネットとしてはウィアに迷惑をかけたのは不本意だったのだろう、困った顔で見上げてくるシグネットをセイネリアはそっと地面に下してやる。そうすればタタタッとフェゼントの方に走って行ってからくるりとこちらを向き、シグネットは最後にセイネリアに手を振って言った。 「じゃおれ行くね。でも次はきたらぜったい会いにきてね、やくそくだよっ」 そもそも最近セイネリアは毎日城に来ていない。だからこそ会えた時は甘えたがるシグネットに、そろそろ甘やかしすぎるのも悪いかと思っていたのもあったのだが……どこかすがるような目で言ってくる『彼』によく似た少年に、やはりセイネリアは厳しい言葉を返せなかった。 「わかった」 了承を返せばそれだけでシグネットは笑って、更に手を大きくぶんぶんと元気よく振る。だがそこで一緒に歩き出そうとして背を向けた長い髪の青年は足を止めると、不思議そうに見上げた子供に笑いかけて何か言ってからこちらを向いた。 「将軍閣下、よければ次はお茶会に来てくださいませんか? その時間なら必ず陛下に会えますから」 「しょーぐん、そうすればいいよっ。フェズのおかしはすごーくおいしいーから」 セイネリアはそれに少しだけ眉を寄せて、けれども苦笑して聞き返した。 「いいのか? 俺がいくといろいろ面倒だろ」 いくらシグネット周りの連中が前より自分に慣れたと言っても、さすがに似合わなすぎるその手の席にいけば場の雰囲気を悪くするくらいはセイネリアも分かっている。けれどシグネットはそこで跳ねて怒鳴ってくる。 「いいよっ、来てよっ。ぜったいっ、おれがいいって言ったんだからいいんだよっ」 ちょっと泣きそうな顔までして必死にそう言われればセイネリアが断れないのは仕方がない。だから再び、分かった、と返せば少年はまた嬉しそうに笑って、今度こそフェゼントと共に建物の方へ去っていく。その姿を見送ってからセイネリアも城壁から離れた。 「本当にボスは……シグネット様には甘いのですね」 「当然だろ、本当に甘えてほしい方は甘えてくれないしな……あぁ、いや……少し違うかもしれないな」 「ボス?」 カリンの疑問には答えず、セイネリアは心の中だけで考えて薄く笑う。 シーグルに甘えて欲しいと思う以前に、本当は自分の方がシーグルに甘えたいのかもしれないと――そんな自分のガキさ加減に呆れながらも、今夜の彼からの報告の時にはフェゼントからの言葉を教えてやろうとセイネリアは思った。 ジクアット山での生活は朝が早い。もともとシーグルはいつも早起きしていたからそれは少しも苦ではないが、その為に早く寝なくてはならないから夜の報告はいつもセイネリアの不満そうなセリフで終わる事になる。 「そろそろ寝るから今日はここまでだ」 当たり前だが報告の終わりを告げるのはいつもシーグルの方で、そしてそれをセイネリアに拒否されるのもいつものことだった。 『俺は……ったく眠くないんだが』 「うるさい、寝ろ」 だからしつこいと怒ってみせるのだが、あのセイネリア・クロッセスがそれで引き下がることはまずない。 『な……勝手に寝ろ、俺はこのまま聞い……るから』 双子草は常に反響しあっているから特にスイッチなどなくてずっと繋がって音を伝え合ってはくれる。その分感度と精度があまり良くなく、よく途切れるし、草の傍で話さないとなかなか音が伝わらない。だから寝ている間にも聞こえるような音がしているのかと思ってシーグルは少し不安になる。 「鼾(いびき)でも聞こえるのか?」 『聞こえてく……ら楽しいんだがな、お前の寝……は静かすぎる』 「何も聞こえないのに、聞いてるのか」 『お前とつ……がっていると思え……からいいんだ』 そんな言葉を聞いてしまえば、彼がどれだけ自分に会いたいか分かってしまって罪悪感を感じてしまう。疑ってはいないが彼の想いが変わらな過ぎる事に、喜びと重圧の両方を感じて申し訳なさに胸が苦しくなる。 「馬鹿か、さっさと寝ろ」 だからついきつい言い方で返してしまう自分に、シーグルはいつも後で後悔することになるのだが。 『そのうち寝るさ、お前……気にするな』 「気にするぞ。ちゃんと寝とけよ。おやすみ、セイネリア」 『あぁ、おやす……ーグル』 そうして双子草から離れると一人のベッドに倒れ込み、手を天井に向けて開いて……それから掴む。 ぐっと握った手の感触は、前よりもずっと力強く自信をくれる。 この感触がもっと確かになったら彼のもとに帰るから――考えて、それから呟く――もう少しだけ待っていてくれ、と。 それがセイネリアに聞こえたかどうかは分からないが、シーグルはそこで手を下して目を閉じると意識を眠りの中へ落とした。 --------------------------------------------- シーグルサイドが出てきたところで、シーグル修行中編が終了です。 |