【3】 やけに静かな店内は、それでもガラガラという訳ではなく、そこここに人のいる気配があり、ボソボソと話している誰かの声も時折聞こえてくる。ただ、微かに聞こえてくる楽器の音色の所為か、それが言葉として聞き取れるような事はまず無い。 個室という程ではないが、テーブルとテーブルの間は壁で仕切られ、薄暗い為、違うテーブルの客同士の顔が見えなくなっている。ここまでしているという事は、多分、客同士の秘密保持の為なのであろうが、食事をする店、という意味では、シーグルはこんな場所は見たことも聞いた事もなかった。 「変わった店だな」 シーグルが周りを見ながらそう呟くと、慣れた様子のセイネリアは椅子に深く腰掛けながら、注文より先に出てきたグラスを口に運ぶ。 「まぁな。本当は普通の場所に行くつもりだったんだが、少々厄介ごとの後だったからな、そういう馬鹿の邪魔が入らない場所にした。あぁ、料理はこっちで適当に注文しとくがいいか? 食えないものがあるなら言っておけ」 言いながら口を拭うセイネリア。 回りを見ていたシーグルが、顔をセイネリアの方に向ける。 「あぁ、それでいい。別に好き嫌いはない、一般的なものなら食べられる。量は食べられないが」 「ミルク以外で、一般的なものを食ってるお前を見たことがないな」 シーグルの返事に、にやりと笑って嫌味を返すと、セイネリアは傍にいた店員に注文をして下がらせた。シーグルは言葉に詰まってセイネリアを睨む。 セイネリアは強い。 少なくとも、シーグルが知る人間の中では一番。 それはただの戦闘力だけではなくて、人を率いる力だとか、冷静に相手を見極める力だとか、さまざまな要素を総合した強さだ。 勝手で強引で自分を押し通す……もちろん、だから彼に敵は多い。けれども、それを問題にしないだけの力を持っている。 シーグルが望んだ、どんな相手にも屈する必要がないだけの強さを、セイネリアは持っている。 冒険者の間では、名が通りすぎればほぼ必ずといっていい程悪い噂もたつ。セイネリアも、その傭兵団も、例に漏れず悪く言う者は多いし、厄介ごとに巻き込まれたくない層はそんな彼らには近づかない。噂にはそれだけに根拠が何かしらあるとは思うが、少なくとも今のところ、セイネリアが犯罪に類する行為をしているところをシーグルは見た事がない。 だから、知り合いからセイネリアにあまり関わらないように言われていても、シーグルはいつもそれを聞き流していた。噂に流されて、自分の認識を曲げる事なかれ主義者になるのも嫌だったし、単純に彼という存在を見ているのがシーグルは楽しかったのだ。 こんな風に生きれたらいいのに、と思う彼の姿を傍で見られるのが嬉しかった。 「ここのルールは、他の客の事を一切気にしない事だけだ。それさえ守れば、この店にいる間はどんな客でもその安全を保障する。ヤバイ連中に追われてようと、警備隊や騎士団に追われていようともな」 セイネリアは寛いだ様子で、グラスを傾けながら話す。 「……それは、割と不味い場所な気がするんだが」 シーグルがそういって警戒心を露にすれば、セイネリアはなんでもないことのように笑った。 「護衛が必要な立場の連中がゆっくり呑みにきたり、大きめの商談とか、犯罪絡みじゃない利用の方が多い。そういう連中も使うだけあって、それなりにメシは美味いしな」 音も立てずにやってきたウェイトレスが、テーブルの上に次々と料理の皿を置いていく。それなりに量があるが、これはきっと殆どセイネリアが食べるのだろう、とシーグルは思う事にした。 「そういう店なら高いだろ。わざわざそういう店で奢らなくても良かったんじゃないか?」 不機嫌そうにシーグルは言う。セイネリアが相当の金を持っているのは知っているが、シーグルとしてはあまり他人に高い借りを作りたくはなかった。 シーグルのその言葉が、なぜかセイネリアにとっては相当意外だったのか、彼は聞いた途端、一瞬無言でシーグルの顔を凝視して、それから口に手を当てて笑いを抑える仕草をした。 「何がおかしい」 「いや、お前貴族様だろ。お屋敷で生活してる身分で、そういう事を言い出すとは思わなくてな」 シーグルの顔が益々不機嫌そうに顰められる。 「冒険者でいる間は、家の援助は一切受けていない」 「家には帰っているんじゃないのか?」 「寝るのと、祖父に連絡をする為だけにだ」 「屋敷でメシを食わないのか」 「食べない。……元々あまり食えなかったから、料理係は気を使わなくて済んで喜んでいるだろう」 話しているうちに、シーグルの口調がだんだんと淡々とした感情のないものになっていく。セイネリアは話すシーグルの顔をじっと見ていたが、表情が消えていくシーグルに、この話は切り上げることにしたらしい。笑みを苦笑に変えて、今度は少し明るめな声で言ってくる。 「まぁ、どうせお前が食える量じゃ、高いといってもたかが知れてる」 そう言われると反論が出来ないシーグルは、また不機嫌そうに眉を寄せてセイネリアを睨んだ。セイネリアはグラスを一気に呷ると、口元に笑みを乗せる。 「悔しいなら、俺を驚かせるくらい食ってみるんだな。ミルク以外で」 それに買い言葉で威勢良く返事を返す程、シーグルは子供ではなかった。が、そこまで言われて悔しいのはあったので、とりあえず目の前にあった皿からモノをとって口に放り込み、グラスの中身で胃の中へ流し込んだ。 「どうやら固形物も食えるようだな」 そういって、じっと顔を見てくるセイネリアに、シーグルは憮然とした表情をする。 ―――何故こいつは、自分をこんなに楽しそうに見るのか。 いつも思っていた事だが、セイネリアはシーグルの顔を会う度やたらと楽しそうに見ている。 シーグルにしてみれば、最初はそれが気味が悪くて仕方がなかった。 自分が何かそんなに変わった事をしているのかと思っても、思いつくものがなく、いつも苛立つしかなかった。 セイネリアの他にも、シーグルの事をじっと見つめてくる人間は少なくはないのだが、見つめてくる視線の意図が違うのは、流石にシーグルでも分かる。 「まったく、何が楽しいんだ……」 「お前の反応と、表情がな」 呟きにすぐ返されたその言葉に、シーグルは少し眉を寄せて考える。 「表情?」 シーグル自身、自分が表情に乏しい方だという自覚がある。 これは、シーグルが幼い頃から意識してそうしてきた所為もあるのだが、今では逆に、意識しないとハッキリとした表情は出せないようになってしまっていた。 いや、でも、そういえば。 知り合いから、シーグルがよく言われている言葉がある。普段のシーグルの顔は無表情というよりは……。 「俺がいつも不機嫌そうな顔をしているからか?」 聞いてみると、セイネリアは口元だけに曖昧な笑みを浮かべて杯を仰いだ。それから、再び注文をする為に人を呼ぶ。その間、シーグルは彼の顔をじっと見ていたのだが、どうやらわざと焦らしているような気がして仕方なかった。 注文が終わってから、やっとセイネリアはシーグルの顔を見て口を開く。 「確かに、お前の普通の時は不機嫌なように見えるな。でも、本当に不機嫌な時はまた違う顔をしてるぞ。あとはまぁ、いろいろな。お前が自覚してない表情の楽しみ方が俺にはあるんでな」 そういう言われ方をすると、シーグルも胸のうちにもやもやと何か残るような気分になる。ハッキリいって気味が悪い。 セイネリアは、その台詞でシーグルが嫌な顔をするのも計算の内だったのか、シーグルが眉を寄せたのを見て楽しそうにする。 多分、揶揄われているのだろう、とは思う。 だからシーグルは、この話を続けても意味がないと諦めた。 何か納得がいかない気分を抱えながらも、セイネリアの視線を無視して、仕方なしに料理に手を伸ばす。 それをやっぱりセイネリアはただ見ているだけで、シーグルとしてはなんだかとても居心地が悪い。 一つ、軽い溜め息をついて。 今度はきっちりと、セイネリアと視線を合わせた状態で聞いた。 「で、お前は食べないのか?」 その質問は少々セイネリアには予想外だったのか、彼は僅かに眉を寄せると、当然といった口調で答える。 「お前が食べる為にとったつもりだからな。まずお前が食えるだけ食えばいい。俺は暫く呑んでるし、食べるときに足りなければ追加するさ」 流石にその返事には、シーグルは眩暈を覚えた。 「……まさかお前は、俺がこれを一人で食えるとでも?」 「別に皿を平らげる必要はないだろう。一通り手をつけてみて、食いたいと思ったのを食えるだけ食えばいい。量が多いと思ったら残せばいいだけの話だ」 それには、ボソリと、小さな声が返る。 「食べ物は粗末にしたくない……」 だから、いつも最初から食べれるかどうか分からないものは頼まない。 それがシーグルにとって一番気が楽で、だから冒険者になって、料理を前にして祖父や料理係が自分が食べるかどうか監視するような視線に晒されなくて済むのが嬉しかったのだ。 少し俯いたシーグルに、セイネリアは今度こそ本当に意外というよりも驚いた顔をして目を見開いた。 「……お前……」 それから、余程おかしかったのか、セイネリアは顔を手で押さえて、肩を上げて笑い出す。 「本当にお前……貴族らしく無さ過ぎだろ……見た目とはえらい違いだ」 「悪かったな」 「いや……しかし……本当に、お前は面白いな」 シーグルとしては、セイネリアの笑いが収まるまで憮然とするくらいしか出来ない。 セイネリアはかなりのツボに入ったらしく、暫く笑った後に、苦笑しながらシーグルの顔を見る。それが、まるで子供に言い聞かせるような表情に見えたのが、余計にシーグルのカンに障った。 「まぁ、残ったのは俺が全部食う。それでいいだろ?」 「言っておくが、俺はこの量を殆ど食べられないぞ」 つまり、暗にこれをセイネリア一人で食べられるのかとシーグルは聞いたのだが、その意味する事が分かったセイネリアは、見せ付けるようににっと得意げな笑みを浮かべた。 「お前と一緒にするな。この体を維持するのに、俺がどれだけ食べると思ってる。……というか、お前くらいの歳の男なら、普通はこの程度大抵食える」 もちろん、それに反論する言葉をシーグルは持っていない。 仕方なく、やはり手近な、先程とは違う皿から料理を取って食べ始める。 ちらりと伺えば、セイネリアは相変わらず食べるシーグルを見ている。 余計な事を聞くと、揶揄われるネタを提供するだけな気がして、シーグルは今度は自らセイネリアに話し掛けるような事はしなかった。ただ、やはり何か釈然としない気分を抱えて、咀嚼しながら憮然とした表情をするしかなかった。 そうすれば、呟くような、それでもこちらに聞いてきているのだろう、セイネリアが言ってくる。 「……お前、貴族とはいっても、普通の家で育ったか、そういう期間があったかだろう……違うか?」 言いながらシーグルを安心させる為にか、セイネリアも料理に手を伸ばす。 ほんの少しづつしかとらないシーグルと違って、セイネリアが取り分ける量は戦士らしく豪快だ。食べる方も豪快で、もそもそと少量づつしか食べられないシーグルは、思わずその食べっぷりに見とれた。 それに、セイネリアが気付いて目を合わせてきた事で、急激に悔しくなってシーグルは目を逸らす。 「4歳までは、普通の家で育った。普通というか、貧乏な方だったろうな」 そっぽを向いたままぼそぼそと呟いたシーグルの言葉に、セイネリアが興味深そうに笑みを収めて顔を向けた。 「父親と母親と、兄と俺と生まれたばかりの弟と。金は無かったが、普通の、暖かい家だった」 先程までの茶化す気配を消して、セイネリアは黙ってシーグルの話を聞いている。 シーグルは、あまり思い出したくない昔の自分を頭に蘇らせる。 ……何故今そんな話をする気になったのか、シーグルには分からない。 乾いた喉に、目の前のグラスの中身を流し込んで、シーグルはゆっくりと言葉を続けた。 「4歳の時に、家に父側の祖父がやってきた。何も分からず、俺だけが屋敷に連れて行かれた。跡取りに、銀髪の子供が欲しかったそうだ。兄弟の中で俺だけが父親と同じ銀髪だった。あの家は、代々銀髪の者が継ぐのが決まりで、父親は母親と一緒になる為に勘当されたから……だから代わりに祖父は俺を連れてきた。たまたまこの髪に生まれただけで……別にこの国じゃ珍しくも……ない」 話していたシーグルの言葉が、途切れがちになる。 それだけでなく、顔が段々と下を向き、ついにはかくりと頭を垂らす。 「シーグル?」 暫く様子を見ていたものの、テーブルの上につっぷしてしまったシーグルに、セイネリアが名を呼ぶ。 もちろん、返事が返ることはなく、セイネリアは肩を竦めると席を立って、今度は彼の肩を揺らしながら再び名前を呼んだ。 「おい、シーグル」 力の入らない体が、ぐにゃりと崩れるようにテーブルの上で傾き、その横顔が露になる。 その顔を見て、思わずセイネリアは目を見開いた。 シーグルは眠っていた。 それは予想内だったが、セイネリアが少なからず驚いたはその顔だった。普段から表情が乏しい所為か、きつそうとか冷たそうとか、シーグルが他人に持たれる印象といえばそんなところだ。整った顔と、銀髪と青い瞳という色合いが余計にそう見えるのだとは思うが、だからこそ実年齢以上にしっかりしたように普段は見える。 けれども、眠る彼の顔は、そんなイメージとはかけ離れるように、あまりに幼い顔をしていた。印象が違いすぎて、別人のように感じる程。 確かに、普段でも時折幼い表情をみせて、それはセイネリアを楽しませる。 だが、きつい印象の瞳が閉じられている所為なのか、眠るその顔があまりにも幼く見えて、セイネリアは驚くと同時に苦笑がこみ上がってくる。 「本当に、子供だな」 ランプの明かりを反射して光を弾く銀色の髪を撫ぜてみても、彼は完全に眠ってしまってピクリとも動かない。 「まさかまったく呑めないとはな」 シーグルが眠った原因は出された酒だろう。普通に飲んでいたからまさかこんなに弱いとは思わなかったが、考えればこれだけ胃が弱いといっている超真面目人間がそうそう酒なぞ飲む訳がない――そう考えれば、それに思い至らなかった自分の方が抜けてたとセイネリアは思う。 「まったく……そういうつもりではなかったんだが」 あまりにもあどけない彼の寝顔には苦笑するしかないが、表に出さないまでも、心の中で囁く声もある。 このまま、手に入れてしまうか、と。 だがセイネリアは、まだ彼を壊すのは惜しいと思っていた。 それでも、こんなにも無防備な相手を見れば、魔が差しても仕方がないだろうとも思う。 「あまり、俺の前でそんな無防備な姿をするな」 言いながら、酔った所為で体温の高いその頬を撫ぜれば、彼の眉がぴくりと少し苦し気に寄せられる。 ――起きたか? しかし、僅かに震えたその瞼が開かれる事はなく、代わりに涙が一筋、そこから零れ落ちた。 頬に触れたままだったセイネリアの手に、暖かい水滴が当たる。 「……そういえば、話の途中だったな」 子供の頃のシーグルの話。 家族と恐らく幸せに暮らしていたシーグルが、たった一人、祖父に連れていかれて、そして――。 「続きを、聞かないとならないか」 セイネリアは、彼の涙を指で掬った。 |