【3】 「さて、手伝いますんで、ちゃっちゃと着ちゃってくれませんかねぇ」 呆然と座り込んだまま、あれからそれなりの時間が過ぎていたらしい。 気付けば灰色の髪と瞳の男が傍にいて、シーグルの服の乱れを直しだした。 「奴らはもう来ないと思いますがね、ここは治安が悪いですから、何時またヘンな連中が来るか分からないっスからねぇ」 他人事のように、男の手が自分に服を着せて行くのを見つめる。 貴族であるシーグルにとって、こうして誰かに服を着せられるのは別に慣れない事でもない。ただ、初めてこれだけ近くで見るこの男をじっと見て、そのヘラヘラとした表情に反した完璧な気配のコントロールに感心する。 相当の手練だという最初の認識は間違っていない。彼の年齢は予想がつかないが、かなりの場数を踏んでいる事はその落ち着いた所作でわかる。 「貴方も……セイネリアと契約しているのか」 文句を言いながら、シーグルに装備をつけていた男の手が一瞬止まる。 「えぇ、そうッスよ。……何か、聞きたい事があるんですかね?」 笑顔でシーグルの顔を見て、それから手の動きを再開する。彼の様子に動揺は見えなかった。 「貴方は……今のセイネリアをどう思ってるんだ?」 「どう? 質問の意味が曖昧すぎっスねぇ」 「セイネイリアが変わった事に、ついて……」 男は再び顔をあげる。いつでも笑っているようなその顔の中、ゆっくりとその灰色の瞳を開くと同時に、その顔から笑みが消えた。 「人間ってのは変わるもんです。それは仕方ない。変わったあの人がどうなるかは……全部あんたに掛かってると思うんですがね?」 シーグルの顔が強張る。 男が顔を近づけてくる。 「いいですか、人の心ってのはうつろうモンです。悲しみが喜びに、憎しみが愛情になる事もあります。でも、大事なのは今じゃないんですかね?」 「今……」 「そう、行動は今するモンなんですから、今の心が大事でしょ。過去なんて終わっちまったモンは今更どうにもならない、未来なんてそん時になって決めりゃいい。古い感情に引きずられて今を見失うのなんてバカバカしいと思いませんかね」 色素の薄い灰色の瞳は、じっと見つめると魔性を感じさせような不気味さがある。 その瞳に見入られたように視線を逸らす事が出来ず、シーグルは呆然と呟くように言葉を返した。 「そんな……都合良く変化を認められるものか」 瞳を開いたまま、唇だけで男は笑みを作る。 「いいじゃないですか、都合良くたって。自分に嘘をつくよりはよっぽどマシって奴です」 シーグルは思わず眉を顰めて歯を噛みしめる。 その様子に、男は芝居じみた深い溜め息を吐く。 それから、その唇からも笑みを消すと、細めた灰色の瞳を真っ直ぐにシーグルに向けた。 「ねぇ、いい加減、お子様過ぎやしませんかねぇ? あんたが頑なに守ってるものも、信じようとしてるものも、今に比べちゃ大した価値などないもんスよ」 シーグルの顔が益々険しくなり、ついに瞳を閉じる。 「……なら、どうしろと言うんだ。今を選択しろといっても、生憎と、もう俺には何も残っていない。セイネリアだって、既に俺に愛想を尽かせた筈だ」 助けに来はしても、もうセイネリアはシーグルを見ようともしなかった。見捨てられても、愛想を尽かされても当然だとシーグルは思う。あれだけの想いを否定されて、彼は自分を憎んでさえいたっておかしくない。それだけの酷い拒絶をしたという自覚がシーグルにはある。 だが、灰色の男は唇を歪めると、喉を震わせて笑い声をたてた。 「ボスがあんたを見捨てたですって? まさか、本気でそう思ってるんスか?」 シーグルが呆然と目を開いて、笑う男を見返す。 男は顔を近づけて、じっとシーグルの瞳を覗きこむように見つめてくる。 「あんたは『愛』ってやつを甘く見すぎてる。お子様過ぎて愛を知らない。まぁ、でなきゃ、ボスにあれだけ酷い事は言えないっスよね」 シーグルは、その瞳に見据えられて何も言う事が出来なかった。ただその色素の薄い灰色の瞳を見つめて、怯えたように唇を震わせていた。 「笑い話ですよねぇ、あの男はね、あんたが大事過ぎて、あんたに触れる事さえ怖いんですよ。あの強い男が、全身全霊であんたを愛して、それを拒絶されて、それでもあんたが大切で大切で触れる事さえ出来なくなってるんでスよ」 声の最後は、明らかに怒りがあった。 ここまで飄々とした空気を崩さなかった男が、明らかにシーグルに怒りを向けていた。 シーグルは呆然と途方に暮れたように、何もない宙を見つめる。 「嘘だ……そんな筈は、ない」 彼は怒って、憎んで、自分を見捨てる筈だ。 彼にとっての自分はもう、この体を弄ぶ程度の価値しかない筈だ。 セイネリアは強い。 強いから、もう、自分など切り捨ててそれで済む話な筈だ。一時期の感情など、あの男がいつまでも引きずるようなものじゃない。 何度自問自答を繰り返しても、結果と答えが合わない。 シーグルの頭の中で、必死に形作っていたセイネリアという男の像が、歪んでその形を保てなくなって行く。 ただ黙って宙を見つめる銀髪の青年騎士に、灰色の髪と灰色の瞳の男は凍える程冷たい視線を向けて呟いた。 「ねぇ、シーグル・アゼル・リア・シルバスピナ。あれだけの愛を拒絶して、あんたは何が欲しいんですか?」 大通りを歩く、足取りは重い。 美しい魔法鍛冶製の甲冑に身を包んだ銀髪の青年は、大勢の中にあっても目立つ。 ただし、殆どの人間が注目するのは彼のその容姿で、その甲冑を普通とは違うと思いつつも、それが旧貴族の主しか着れない魔法鍛冶製だと気づく者は少ない。ましてや、いくら近い町だとはいっても、その胸にある紋章がリシェの領主であるシルバスピナ家のものである事など、殆どが遠くからやってきた者ばかりが集まる首都ではまず分からない。 更に言えば、今、どんよりと曇った空は遠くに雷の音さえして、道行く人々はさっさと建物の中へ逃れようと急ぎ足になっていて、他人など気に掛ける余裕のないものが多い。 だから、明らかに様子のおかしいその青年に、声を掛ける者がいなかったのは幸いだったのかもしれない。 足早に歩いている人波の中、シーグルは心の重さを引きずるように重い体をひきずって、ただ、歩いていた。 あんたは愛ってものを甘くみている――と、おそらく人を殺す事さえ必要なら一切躊躇しないだろう目をした男は言った。 シーグルが子供過ぎて愛を分からないのだとも。 それは、間違いではないのだろう、とシーグルは思う。 シーグルに分かる愛というものは、家族が与えてくれたものだ。 幼い頃、母親が、父親が、兄弟が、生まれた時から与えてくれて、そしてシーグルも抱いていた家族への愛情。シーグルにとって、心の奥にしまわれた、大切な大切な幸せの記憶。 けれど、それ以外の愛をシーグルは知らない。 いや、もしかしたら、一般的な恋愛感情に当たる愛というものは、シーグルにとって厭うものでさえあったのかもしれない。 シルバスピナの家にきてある程度の年齢に達した時、教育係だった騎士は、シーグルがこの家にいる本当の事情を話してくれた。 そして、祖父が何故シーグルに辛く当たるのかも。 祖父は父を息子として深く愛していた。 シルバスピナの跡取りとして理想的な容姿、騎士としても申し分ない能力、礼儀。他の貴族達から立派な跡取りと羨まれ、賞賛をうけ、まさに父は自慢の息子として祖父に溺愛されていたと言っても過言ではなかったという。 だからこそ、その期待のすべてを裏切って家を捨てた父を祖父は憎んだ。愛情と期待が大きすぎた分だけ、その反動で祖父は嘆き、怒り狂った。 シーグルに事情を教えた騎士は、その話の後に頭を下げて言ったのだ。 ――裏切られた反動で、あの方は変わりました。アルフレート様とよく似てらっしゃるシーグル様に辛く当たるのはその所為です。ですが、どうかあの方を嫌わないでください、アルフレート様を愛しているからこそ、あの方は怒り、アルフレート様と同じ轍を踏まない為に、シーグル様を殊更家に縛ろうとしているのです――と。 事情を知ったシーグルは、祖父を憎めなくなった。 だが、代わりに父を軽蔑した。 ――父が、母を諦めれば、全てが丸く収まったのではないかと。そうすれば、誰も悲しまなくて済んだのではないかと。 父は母を愛していた。母は父を愛していた。 それは分かっていた。けれども、二人がその気持ちを殺して別れれば、結果的には全てうまく行き、誰も苦しまなくて済んだのではないかとシーグルは思ったのだ。 父はどこかの貴族の娘と結婚し、シルバスピナ家を継ぐ。母もいずれは彼女にふさわしい他の誰かと結婚し、父を忘れられるだろう。 誰も裏切られる事なく、シーグルのように家族と引き離される子供もなく、父も母も死ぬまで後悔に苦しむ事もない。別れた時は辛いとしても、その一時の辛さを乗り切れば、やがてはそれぞれ家庭を築き、誰も悲しまず皆幸せになれたのではないか。 それを、父が分からなかった筈がない。幼い頃からこの家の跡取りとして育った父が、そんな事を分からない筈がないのだ。 だからずっと、シーグルは思っていた。 何故、父は祖父を裏切ってまで母を選んだのだと。 愛などというものの為に、祖父や家を裏切って周りを不幸にした父の事を、シーグルはずっと心の奥で責めていた。 だからこそ、シーグルは恋愛感情というものを自分に許さなかった。家よりも愛する人を取った父親の選択は、結局皆を不幸にした。誰も傷つかない為には、自らの意志で誰も愛さなければいい。愛するのなら、祖父に言われて結婚した相手を愛するようにすればいいのだと。 だが、長く抱いていたその疑問は、シェンの告白で答えが返された。父は母を愛していても、母を諦める気でいたのだ。それが出来なくなったのは、自殺する程に追い込まれた母を助ける為だった。 ――愛している、とセイネリアは言った。 誰よりも強い男が、望めば何でも手に入る筈の男が、あれだけの苦しみと痛みにさいなまれながら、ただ、シーグルを愛していると言ったのだ。 「俺に、どうしろと言うんだ……」 呟いた声は、だが、雨音に飲み込まれる。 気づけば、いつの間にか辺りには雨が降ってきていた。 もともとフードで身を隠していた為、今日は兜をつけていないから、空を見あげれば顔に大粒の雨が痛いくらいにぶつかってくる。 濡れた髪が顔に張り付き、頬はもし涙を流していても分からない程濡れている。目に入らないように自然に目を細めて、シーグルは時折雷光が走る暗い空を見つめた。 ――あいつは、どれだけの想いを込めて、俺を愛していると言ったんだろう。 今の気持ちだというなら、果たして自分は今セイネリアをどう思っているのか。 シーグルには分からない。 自分がすべき事が分からない。 まるで空に問うように、シーグルは虚ろな瞳で空を見上げる。 だが、その時。雨音に混じって聞こえて来た声に、シーグルの意識が現実に戻ってくる。 「シーグル君、シーグル君」 名前が呼ばれているのだと気づくのに、どれだけの間があったのかシーグルは知らない。 だが、馬車が自分の横で止まったのに全く気づかなかったくらいだから、もしかしたら何度も名を呼ばれていたのかもしれない。 ゆっくりと、顔を声の方に向ければ、馬車の中の人物は人の良さそうな笑みを浮かべる。 「やはり、君だったね。さすがにこの雨の中で、何時までも濡れているのは感心しない。確か君はそこまで体が強い方ではなかったろう」 ぎこちなく礼を返したのは、殆ど反射的なものだった。馬車の中の声の主はヴィド卿で、どうやら、街の外の用事から帰ってきたところらしかった。 「とにかく、馬車に乗りなさい。リシェまで送っていく訳にはいかないからね、とりあえずは私の屋敷に来たまえ」 『ヴィド卿には近づくな』 セイネリアから何度も言われている言葉を思い出して、シーグルは断りの言葉を探して返事が出来ない。 だが、にこやかな笑みを浮かべていた馬車の男は、彼の地位にふさわしい威厳を瞳に乗せて、今度は威圧を掛けてくる。 「私に恥をかかせる気かね? 乗りなさい、シーグル・シルバスピナ」 結局、シーグルはそれに従う事しか出来なかった。 それが、決定的な何かを引き起こす事になると、この時のシーグルに分かる筈はなかったから――。 --------------------------------------------- 話は順調(?)に不穏な方へ向かっていきます。 |