【3】 「あぁ、いい匂いだ。朝からミルクたっぷりのシチューかな」 珍しく厨房に入ってきたテレイズは、まだ神官服に着替えずに、寝間着の上にガウンを羽織った格好でいた。 「昨日のスープの余りを使っただけですから、そんなに手間は掛かっていません」 フェゼントは返事をしながらも、手際よく他の料理の下準備をしている。 「たまご……はキッシュか、カリカリに焼いたベーコンを乗せたサラダに……この鳥も焼くのかい?」 流石に朝食にしては重過ぎると思ったのだろう、テレイズが並べられた鳥肉を見て顔を顰める。 てきぱきとよく動くフェゼントはテレイズを見ている余裕がないようで、今度はシチューを混ぜながら返した。 「いえ、それは漬けて置いて夕飯に出します」 「成る程。そうなると夕飯は香草入り鳥のクリーム煮かな」 シチューの味見をしていたフェゼントが、ふと顔を上げてテレイズの顔を見る。 「そうです。よくおわかりになりましたね」 テレイズはにっこりと、裏のない笑みを返した。 「そりゃ、ウィアの好物だからね。今ある分だってウィアが好きなものばかりだ」 しかしフェゼントとしては、こんなに自分に対して機嫌がいいテレイズというのがそもそもおかしい。嫌味の一つでもいってくれたほうが安心出来るくらい、ここ数日のテレイズのフェゼントに対する態度は険悪なものだった。 「何か、問題がありましたか?」 だからフェゼントがそう聞いてしまったのは、仕方ないといえば仕方ない。 「いや、問題ない。食事はウィア優先のメニューで構わないよ。俺は別に好き嫌いがある訳じゃないし、ウィアが喜ぶのを見るほうが嬉しいからね。あぁ、邪魔をしに来た訳じゃないんだ、続けて」 幾分かほっとするものの、フェゼントはやはり複雑な表情で、それでも朝食の支度を再開した。 手際よく卵を割り、型に野菜を並べていく。釜の様子を確認にいって、薪をくべる。長髪の小柄な体が厨房でパタパタと良く動いている姿は、スカートを穿いてなくても女性にしか見えないだろう。 よく動く彼の手元をじっと見ていたテレイズは、感心したように唸った。 「前から思っていたが、やけに手際がいいというか、慣れているね」 「昔から、家事はずっとやっていましたから」 「今でも?」 「今でもです」 テレイズに言われたとおり、フェゼントは会話よりも料理を優先する事にしたらしく、相手の顔を見て話す事はしない。 だがそれでも、暫く間を開けてから言われたテレイズの言葉に、思わずその手が止まった。 「シルバスピナの屋敷にいるのに?」 フェゼントは溜め息をつく。 それから、反射的に止まってしまった手を再び動かしだす。 ただし動揺した所為なのか、気持ち先程までよりも手つきが遅くなったようにテレイズには見えた。 「私達はただの居候ですから。家に置いてもらっているだけで、やれる事は自分でやっています」 野菜を切るその手元を眺めて、テレイズは目を細める。 「シルバスピナ卿がそうしろと?」 「いえ、こちらからそうしたいといったんです。その方が気が楽ですから」 シチューを器に入れて、調理台を力を込めてフェゼントは拭きだす。 その姿は、確かに毎日やっているものならではの自然さだろう。 「私達、というのは君と下の弟さんの事かな。上の弟さんは……」 作業に集中しようとしていたフェゼントが、耐えられずに顔を上げて、テレイズの言葉を遮る。 「シーグルは正式なシルバスピナの嫡男です。私達とは違う。私達は父の子と認められていませんから」 感情を抑えようとして失敗した、フェゼントの声は震えていた。 その彼に視線をはっきりとあわせて、テレイズは真剣な面持ちで尋ねた。 「本当に君と下の弟さんは、シルバスピナの血を引いていないのかい?」 フェゼントが唇を震わせる。今にも泣きそうな程に眉を寄せて、そして溜め息とともに顔を手で覆った。 「あの母が不義をするとは思いません。父も母も互いに愛し合っていました。兄弟3人共が父と母の子供です。私達が認められないのは、単にいらないからでしょう」 ――これ以上聞くのは止めたほうがいいか。 今度はテレイズが軽い溜め息を吐いた。 「すまなかった。確認をしたかっただけなんだ、口外するつもりもない。シルバスピナ家にとっては本来隠して置きたかった事だろうしね」 「そう、お願いします」 これで話を終わりにする事にしたテレイズは、そこで口を閉ざして後はフェゼントを見ているだけにした。料理の方ももうすぐに完成するところだったようで、程なくしてすべての準備を終えたフェゼントに、運ぶのを手伝うと言い出すまでは、テレイズはもう話し掛けはしなかった。 ある意味信じられない光景を見て、ウィアは目を丸くした。 あの兄が、料理運びをしている。 いや別に、フェゼントが来る前であれば、朝食を作ったりそれを運んだりなんてことをテレイズがするのも日常茶飯事であったのだ。だが、『あの兄』がフェゼントを手伝って、そんな事をしているのがウィア的には信じられなかった。 だから開口一番。 「何企んでるんだ、兄貴」 と、言ってしまったのは、ウィアとしては当然の結論だった。 「何いってるんだウィア。ちょっと厨房にいったからね、これくらい手伝うのは当然だろう」 ウィアの見たところ、嫌味でいっている訳ではなさそうである。一応。 とはいえ、こういう機嫌のいい兄は、絶対に何か企んでいるというのは、経験測で分かっているのだ。兄の言葉通りに素直に信じることは、ウィアには到底出来る事ではなかった。 というよりも、そもそも厨房にわざわざいったなら、そこでフェゼントに嫌がらせをしてきた可能性もある。心なしか彼の様子に元気がない。とすれば、酷い事をいった手前、仕方なく手伝ってやるかという状態になったのではと、そちらのほうが当たっている気がしてくる。 だからウィアは、今度はフェゼントの手を取って言う。 「ウィア、兄貴に酷い事言われたんだろ? あんまりにも酷かったら俺に言ってくれよ。まぁ兄貴に強くは言えないけどさ、嫌がらせの仕返しくらいはしてやるからさ」 「ウィーアー……」 意外なことをいわれたように目をぱちくりとさせるフェゼントよりも、それに答えるように言い返してきたのはテレイズだった。 「何故そういう事になるんだ。聞きたい事があったから話を少しした程度だよ。俺もここ数日は少々彼に当たりすぎたかと思っていたしね、少し反省してこうして手伝おうと思った訳さ」 それでもウィアには、兄の発言を信じる気には到底なれない。 胡散臭げな目でじっと見つめてみるが、だが本当に何か企んでいたとしても、ウィアが簡単に尻尾を掴めるような兄ではないかと思い直す。 「フェズ、気をつけろよ、何かおかしいなーと思ったらすぐ俺にいうんだぞ」 だからとりあえずは、恐らく兄の企みのターゲットである彼に、そういっておくくらいしか出来る事はない。 フェゼントは、そんなウィアにくすりと笑みを返す。 「大丈夫ですよ、ウィア。さぁ、そんないつまでも顔を顰めてないで、食事にしましょう」 一抹の不安は残るものの、現状どうにか出来ない事は、あっさり思考を切り替えるのがウィアの特技だ。 言われてにっこりと笑顔を返し、椅子に座って、すぐに頭はテーブルの上のご馳走をどう食べようかと考える方に夢中になる。 フェゼントはそんなウィアに思わず笑い、それから一瞬、哀しそうに表情を曇らせた。料理の方に目がいっていたウィアがそれに気付く事はなかったが、テレイズはそんなフェゼントを確認するように見ていた。 食前の祈りが終わると、神官とも思えない勢いで、ウィアが料理に手を伸ばす。 なにせ昨夜は夕飯を食べずにそのまま寝てしまったので、相当に腹が減っていた。その前日には食べ過ぎているくらいには食べていたので、昨日は食べなくてもいいか、とはウィアも思ったくらいではあったのだが。 相当に腹が減っている時というのは面白いもので、食べないでいれば我慢も出来るのだが、一口でも胃に入れてしまえば、思い出したように余計に腹が減ってくる気がする。おかげでウィアの食事スピードは、最初の一口以降加速していくように見えた。 「ウィア、行儀が悪い」 口の周りに、ソースやらシチューやらをたっぷりつけたまま指を舐めているウィアに、流石に見かねたテレイズが口を開く。 「べっつに、いいじゃん。偉い人が見てる訳でもないしさ」 まったく気にしない様子で食べ物を口に運ぶウィアに、テレイズは思わずこめかみを押さえる。 「ウィア、俺は十分にお前の立場から見れば偉い人だと思うんだが」 確かに、リパの準神官と大神官という立場だけでいえばそうだろう。 だがしかし、ウィアはにっこりとテレイズに笑顔で返した。 「ここは神殿じゃねーし、兄貴は兄貴だろ。兄弟の前で硬い話はしなくていいじゃん」 からからと笑うウィアの口元から、へばりついていた何かの欠片が落ち、テレイズは思わず呆れて顔を左右に振った 「普段からそれじゃ、いざという時にもちゃんと出来ないだろ。お前の恥は俺の恥にもなるんだ、せめてもうちょっと落ち着いてゆっくり食べなさい。あぁほら、両手に食べ物を持たない、持った物を食べ終わってから次のものを取りなさい」 こまごまと指示を出しだすテレイズに、ウィアが文句を言いながらも従いだす。それでも納得のいかないテレイズの小言は止まらず、ウィアも嫌気がさしたのか、言い返しもせずに無視をしだした。 そんなやりとりを見ていたフェゼントは、余りにもほほえましくて、思わず顔に笑みを浮かべる。 「ウィア、料理は美味しそうに食べるのが一番ですから、そんな気にしなくてもいいとは思うけど、あまり急いで食べると体によくないですよ。急いで食べ過ぎると、ちゃんと栄養になりません」 不貞腐れるウィアにそういって宥めてみれば、それに追従してテレイズが付け加える。 「そうだウィア、急いで食べても栄養にならないから、背も伸びないんだぞ」 へたに怒るよりも、その言葉の方がウィアには効いたらしい。 急に汚れた手を拭いたウィアは、今度はゆっくりとよく噛んで食べはじめた。 それにテレイズが表情を緩ませる。 だが、そこにまた別の声が掛けられる。 「身長については、結局は食事よりも体質による部分の方が大きいと思うけどね」 声の方に皆して顔を向ければ、パンをもそもそと食べながら、テーブルに置いた本を読んでいる人物が一人。 「ヴィセント……」 あんまりにも存在感がなくて忘れていたのだが、食卓にはもう一人、ウィアの友人である居候の青年がいた。普段から部屋に閉じこもり、本の虫である彼は、食事時でも本を見ているようで、今の発言も目は本の方にいったままだった。 「なぁ、兄貴、あれって行儀悪くないのか」 ウィアが聞けば、テレイズも眉を顰める。 「悪いな。……でもまぁ、彼の場合はもう仕方ないだろ。根本的に何をやるのも本を読むののついでだそうだからね」 「そうなんですか……」 感心したようにフェゼントが呟く。 フェゼントがここに来てから、彼のことを見たのはまだ2,3度なのだが、確かに彼はいつでも本を読んでいた。 「彼みたいに勉強熱心な者は、神官よりも魔法使いの方が向いていると思うんだけどね。まぁ、あそこまで徹底しているだけあって、流石に彼の知識量はすごいよ。天才っていってもいい。あのレベルまで極めている人間なら、行儀だなんだと些細な事で文句をいうのも諦めたくなる」 感心するフェゼントにそう説明して、それからテレイズは今度はウィアにプレッシャーを乗せた笑みを向ける。 「ただし、ウィアみたいな凡人は別だ。プラスアルファする部分がないのに、人並み以下の部分が多いと、その分レベルの低い人間に見られるだけだからね」 ウィアは顔を憮然とさせる。 フェゼントは苦笑してウィアを宥める。 勿論話題の当人であるヴィセントは、我関せずといった状態で本を読んでいるだけだったが、ウィアとテレイズの言い合いが始まると、ぼそりと彼は呟いた。 「ウィアは、背が低いほうがいいとは思うけどね」 気付いたフェゼントがヴィセントを見る。 そこでヴィセントは初めて視線を本から離し、長髪の騎士の青年の顔を見た。 「騎士殿もそう思ってるんじゃないかな?」 フェゼントは一瞬だけ驚いて、そして口元に曖昧な笑みを浮かべる。 「そうですね、私個人的はその方が嬉しいかもしれません」 ヴィセントはそれを聞いて僅かに笑うと、再び目を本に戻した。 「思っても言わないほうがいいだろけどね」 「そうですね」 それ以上は彼が話す気がないのを察したフェゼントは、再び視線をウィアとテレイズに向ける。はたから見ると下らない言い合いに見えるが、本人達の表情は至極真面目で、それが一層ほほえましい。 喧嘩する程仲がいいというのは、彼らの為にあるのだろうとフェゼントは思う。 「兄弟喧嘩、か……」 呟いた言葉はどこか寂しく響いた。 |