惑える愚か者の序曲





  【1】




 エルクア・レック・ルーア・パーセイは、その日、もう世界の終わりのような気分であった。
 彼は一応生まれは貴族なのだが、そうは言っても兄弟は多く4番目の男子という、成人したら本当に、全く、おこぼれ程度にも家からなにも貰えないという境遇であった。
 だからどうにか成人して家から放り出された時に路頭に迷う事だけは避けるべく、一応貴族という肩書きだけを活用して騎士になり、騎士団に入って生活苦だけは考えなくてすむようにしたのだ。

 とはいえ、今、彼がここまで落ち込んでいるのはそれが原因という訳ではない。

 一言で言えば、将来を約束した女性をやっとの事で迎えにきたら、彼女は既に結婚済みだった――という現実につい数時間前に打ちのめされてきたのである。

 貴族の家にこれだけ男子が多く生まれた場合、大抵何人かは養子に出されるのが普通であった。
 血筋が重要な旧貴族など、一度でも旧貴族の血が絶えてしまえば『旧』の名と権利を失ってしまうという事もあって、どうしても子供が生まれなかった場合、どこかの旧貴族の家に男子が余っていれば金を積んでも養子に来てもらうくらいだ。
 だが、エルクアの家は旧貴族でもなかったのでそんな引く手あまたという事にはならず、ただそこそこに古い家柄だった為に一応は養子縁組が決ってはいた。それがこのアッシセグの街の領主の家で、首都から遠いとはいえそれなりに裕福なこの家に引き取られて、兄弟の中でもかなり幸運だと養子に出す時に親には何度も言われたものだ。
 ところが、彼が18の時、領主に隠し子がいる事が判明した。
 領主自身も知らなかったからこそエルクアが引き取られてしまったのであるが、やはり自分の血を分けた息子がいるならそちらに家を継がせたいと思うのが人情で、結果、エルクアは元の家に返されてしまったのである。

 安泰だと言われていた彼の将来は、一瞬で真っ暗に閉ざされてしまった。

 今更養子のアテなどある筈もなく、成人したらいきなり何も持たずに放り出されるという状況に、彼は必死でどうにかなる手段を模索した。
 そしてさすがに哀れに思った兄に勧められたのが、騎士となって騎士団に入る事だった。馬は乗れる、読み書きは出来る、剣は一応程度には習った事があるから、やれない事はないだろう。なるなら最低限の装備くらいは用意してやると現パーセイ卿である長兄は言ってくれたし、両親と祖父は貴族として騎士になるのは正しい姿だとそれはもう喜んでくれた。
 ただし、騎士となって騎士団に入ったからには、何かあれば危険な戦場にかり出される事があるかもしれない。
 のほほんと、人に何でもやってもらいながら生きてきた彼にとって戦場なんて想像出来ず、それ以前に自分が騎士となって本気で武器を振り回すなんて事がもう考えられなかった。

 だが、怖じ気づく彼の背中を押したのは、将来を約束した愛しい恋人の存在だった。

 愛する彼女は、実家に戻される事になった彼を涙ながらに引き止めて、絶対待っているからと約束してくれた。
 エルクアも、どうにか自分が彼女を養っていけるめどがついたら絶対に迎えにくるからと、それはそれは何度も、固く、約束したのだ。

 ちなみに、彼は幸いにも見た目だけはなかなかに良く生んで貰えた為、実はどこかの貴族の女性の愛人になって養ってもらうという選択肢が一番手っとり早く生きる手段としてあった。実際誘いもあったし、流されてれば、貴族のぼんぼんの延長線上のお気楽生活を今でも続けていられたのである。

 それを断り、自立して生きる方法を探したのだって、全部彼女の為だったのだ。

 ところが、やっと騎士団に入って、給料も出るようになって家族を養う事が出来ると思って彼女を迎えに来たら……彼女はもう1年も前に結婚していて、子供もいて幸せにやっているという状態だった。
 最初は、信じられなくて彼女に会いにいって問いただした。
 だが。

「だって貴方がいなくなってから3年も何の連絡もなかったんですもの。とっくに向こうで誰かいい人が出来てしまったと思ってたわ」

 彼女がいうところ、本気で迎えにくる気があるなら定期的に連絡寄越せ、自分の年齢的にこれ以上待たされたら行き遅れると焦るんだから――と怒られた。

 自分は何をしていたのだろう。もう、生きる意味もないんじゃないか。そう、彼が思ったって仕方ないではないか。
 彼女と別れて4年。何でも人にやってもらってのんびり生きてきた彼が必死になって過ごしてきた日々は、完璧に無駄だったというのが彼に突きつけられた現実だった。

 とりあえず、こういう時は呑むしかない。

 そう思った彼は、彼女を迎える為に持ってきた金を惜しげなくつぎ込んでひたすら呑んだ。呑み過ぎて意識ないまま死ぬのって楽かな、なんて思いながらとにかく呑んで前後不覚になって余計自暴自棄になってどうでもよくなった。
 ふらふらと、おぼつかない足取りで裏街をうろうろして、それがどれだけ危険かとかも考えられないというより本気でもう彼は自分がどうなろうとどうでもよかった。

「にーさん、随分ふらふらだねぇ」

 どこからか声が掛けられた事は分かったが、それが自分にかどうかもわからず、エルクアはただふらふらと壁に手をついて歩いていた。

「おーい、にーさん、ちょっと待ちなよ」

 今度は肩に手を置かれて引っ張られる。
 今の状態のエルクアがそんな事をされればあっさりと体勢を崩すのは当然で、彼の体は簡単に地面に崩れるように倒れた。

「あーあー、こらもう全然だめだな」
「こら楽でいいわ」
「ほらにーさん、いい子で掴まってな、俺たちがもっと楽しい思いさせてやっからよ」

 力の入らない体を、3人程の男達がわざわざ起きあがらせて、両脇を支えて歩き出す。
 この人達はなんだろうと思いつつも、もう自分などどうなってもいいのだと思っている彼は特に抵抗をする気もなくされるがままになっていた。

「ま、顔だきゃいいからな、たっぷり楽しんだ後に売り飛ばしちまえばいいだろ」
「こういう世間知らずな坊やはな、結構仕込めばハマっちまうもんだぜ」

 下卑た笑い声と体を撫で回す手の感触で、これからどうなるのかが彼にも少しだけ分かってきた。
 彼だって、男が女の代わりにそういう事をするというのを知らない訳じゃない。騎士になる時には、お前は顔だけはいいからと散々その手の趣味の輩には注意するように言われていたし、実際騎士団でもそういう誘いを受けた事がある。
 だが彼は彼女一筋だったし、相手が男でも女でも彼女以外とそういうマネはするもんかと頑なに断ってきたのである。

 けれども今は……そんな事もどうでもよかった。

 彼らのいう通り、散々犯されて、売り飛ばされて、墜ちるまで墜ちて死ぬのだ。それはそれでどうでもいい自分にはお似合いかもしれない――なんて思考力らしい思考力がない頭でぼーっと考えて、うすら笑いさえ浮かんできた彼は、ずるずると男達に引きずられるように歩いていた。
 だがそんな時、両脇を歩く男達の足が止まった。

「なんだ貴様は、そこどきやがれっ」

 誰かがいるらしい、と思って顔をあげようとしたものの、力の入らない体では視線だけをどうにか向けるのがやっとで、薄暗い事もあって彼には黒い影がたっているのが見えるだけだった。

「黙ってそいつを置いていけ」

 低い声は殆ど抑揚がなく、そんな大きな声ではないのによく通る。

「うるせぇ、それではいそうですかと言う事聞くと思ってんのか?」

 男達は笑う。
 両脇で笑っている男達の声が、酒が回った頭の中で反響してうるさかった。
 けれども、笑い声は唐突に止まる。
 エルクアが感じたのはただの風だった。
 次に聞こえたのはガラガラと何か鉄が落ちる音。
 エルクアは何が起こったのかわからなかった。しんと静まり返ったことだけが彼にわかることだった。

「お、まえ……何者だ?」

 こちらの男の声は震えている。
 彼らの前にいるだろう男の方は、それでわずかに笑った気配があった。

「わざわざ貴様等程度に名乗っているとキリがなくてな。さっさとそいつを置いて失せろ」

 カシンと、聞こえたのは剣の音。
 それで彼は放り出される。
 酔っている為、地面に落とされてさえ痛くはない。固い筈の石の道さえ、ふわりと柔らかいベッドのように受け止めてくれる。
 放り出されたまま地面に倒れていれば、誰かが近づいてくる気配がある。

「起きろ……といっても、自分でも起きあがれもしないのか」

 黒い影が見下ろしてくる。
 彼はにへらっとその影に向かって笑ってみせた。

「あんたが助けてくれたのかぁ」

 影は答えない。だが、忌々しげに舌打ちをしたことだけがわかる。

「べっつにいいのにさー、どーせ俺はもういきてる価値もないしー。めちゃめちゃのぼろぼろになって死んじまってもいいんだ俺はぁあ……ぐげっ」

 やけくそにそう叫べば、エルクアの腹は上から足で踏まれた。

「別に貴様がぼろぼろになって死のうと俺の知った事ではないがな。だったら、俺の見えないところで死ね、目障りだ」

 相当に相手は怒っている、そうは思っても、声には抑揚がやはり殆どない。ただ、酔っぱらった頭でも、低い彼の声はエルクアにはどこか心地よく聞こえた。

「目障りで悪かったなぁ、いーんだほっとけよ、俺なんかどうなってもなぁ」
「黙れ」

 本気で苛ついているようなのに、相手はどうやらしゃがんだようだった。
 それで、近くなった相手の顔が見える。
 薄闇の中の黒い影、その中に見える2つの金茶色の瞳。ぞっとするような不気味なその瞳の色に、完全に酒に支配されていた頭が少しだけクリアになる。

「……貴様が銀髪の騎士でなかったなら、誰が助けるか」

 騎士? ――あぁそういや、彼女を迎えにくる為に目一杯格好つけてきたから、今の自分はちゃんと騎士様に見えるかもしれない――なんて思いながらも、相手が余りにも忌々しげにそんな事を言ったから、エルクアも不貞腐れるよう呟き返した。

「どーせ俺は、シルバスピナの跡取り様みたくデキ良くねーよ」

 銀髪の貴族の騎士様と言えばまず上げられる、シルバスピナ家の時期当主の青年の名は、貴族の間でも、騎士団でも有名であった。
 エルクアも兄弟や親にも散々言われたのだ、みてくれでも中身でも相手にならない、せめて騎士としての腕でもしっかりした頭の方でも、どっちか彼の4分の1でもお前にあれば路頭に迷うことはないだろうに、と。
 噂は前から聞いていたが実際本人を見たのはつい最近、彼が騎士団に入ってきてからだ。
 ちょっとは自信があった見た目でも勝てなければ、剣の腕なんか話にならない。貴族騎士なんて裏じゃ馬鹿にしている一般団員達からもあっという間に慕われて、貴族院は彼に期待して将来は騎士団の重鎮になる事が約束されている。
 なんだあの反則的になんでも持ってる人間は、とエルクアが落ち込んだ事は記憶に新しい。
 だから、銀髪の騎士様でもエライ違いだ、と友人や兄弟達に馬鹿にされる事が多かった彼としては、この髪の事を言われるとどうしても、文句のつけようがない騎士様のあの綺麗な青年の事を思い出してしまうのだ。

「……っ」

 なぜか、彼の今の発言に黒い影の人物が動揺したのが分かった。
 獣のように人を見据える金茶色の瞳が、細められて僅かに揺れる。
 それが分かった彼は、初めて目を見開いてはっきりと相手の顔を見ようとした。
 黒い影、とだけ認識していたその人物は何も暗いせいだけでなく、本当に黒一色の服装に身を包み、黒い髪をしていた。
 精悍な顔つきは思ったよりは若そうで、それでも彼よりは年上だった。
 落ち着き払った、けれども底知れぬ不気味さを感じさせるその持つ雰囲気は、それだけで相手を威圧する事が出来る真に強い者だけが持つそれだった。
 そこで彼は唐突に思い出す。
 黒一色の姿、金茶色の獣のような瞳、そして銀髪の騎士、シルバスピナ家の彼の名に反応する、といえば――。

「あんた、セイネリアか」

 目を見開いたエルクアは、それで完全に頭の酔いがさめた。

 シルバスピナの青年の事を引き合いに出されて、エルクアは彼がどんな人物なのかと調べた事がある。確かに調べれば調べる程褒めるところしか出てこないような人物で、ただ彼に関するよくない話といえば――セイネリア・クロッセスという馬鹿みたいに強い騎士のオンナだと言われている――という下卑た噂話だけだった。

 言われた相手はその程度では動揺しなかった。だが、それを否定も肯定もせず、ただ、立ち上がって忌々しげに見下ろしてくる。その金茶色の瞳は、どこまでも冷たく怒りを燃やしていた。

「酔いが覚めたならさっさと起き上がって何処かへ失せろ。いつまでもそこで寝転がってまたどこかのごろつきにつれて行かれるのでは腹がたつ」

 その男はそういって背を向けて去ろうとする、だからエルクアは急いで起きあがってその背に声を掛けた。

「あんたが俺を助けたのは、シルバスピナ家のシーグルのせいか? 銀髪の騎士ってだけで、あんたはあいつを思い出して……」

 けれどその言葉は最後まで言えない。
 振り返った男の金茶色の瞳の圧力に、彼の声が止まったからだ。

「余計な事は喋らなくていい。それ以上言ったら口が聞けないようにしてやる」

 あぁこれこそが本当に強い男なのだと、ぞくぞくと背筋を走る恐怖という感覚に、彼は怯えながらもどこか高揚するものも感じていた。

 エルクアは自分が分かっていた。一生掛かっても、自分はこんな強い男になどなれない。それどころか、この男が目を向ける存在にさえなれない。
 何の意味もない自分、何も出来ない自分、価値のない自分、どうなってもいい自分、なら――何が出来るだろう、この男を引き留める為に。

「シーグルの事を知りたいんじゃないか?」

 明らかに、去ろうとしていた相手の足が止まる。

「俺は今騎士団にいる。俺なら騎士団にいるシーグルの事をあんたにいつでも知らせてやることが出来る」

 黒い影がふと、笑ったのが気配で分かった。

「それで、お前が代わりに望むのは何だ?」

 あの金色に光る瞳が再び向けられたのに気付いて、エルクアはじっと彼を見つめる。

「あんたの――……」

 あんたのモノになりたい。

 そう、金色の瞳から目を逸らす事なく自然と出た言葉は、自分でも意識したものではない分、言葉の意味に気付くのが遅れた。
 見つめている瞳がすぅっと怒りに細められて、自分が彼を怒らせたのだと思った時点で、やっとエルクアは自分が何を今口走ったのかを理解した。

「あ……いや、その、これは……」

 自分でどうにかフォローしようとしても上手い言葉が思いつかない。
 あたふたと焦っていると、こちらが何かをいうより先に向こうの言葉が返された。

「貴様などいらんな」

 そりゃそうだよな、と妙にエルクアは納得する。
 それでもすごくガッカリしている自分に気付いて、なんだかその場に座りこんだまま項垂れる。

「うん、そうだよな。そりゃーそうだ、俺はシーグルじゃない……」

 頭の酔いは覚めた筈なのにまたぼーっと思考力がなくなってきて、おまけにぐらりと眩暈がしてきて、体からから力が抜けてくる。
 ゆらん、と視界が揺れたあと崩れるように、エルクアはまた地面につっぷした。
 本当に、なんだか全部どうでもよくなった。
 このまま寝てたら死ぬかな、なんて思ったら眠くなってきた。

「この馬鹿が」

 声が聞こえた後に、急激な浮遊感。
 さっきまで仲良くしていた地面が一瞬で遠くへ離れていってしまう。
 すごい勢いで自分の体が引っ張られて、エルクアは気持ち悪くなりかけた。
 その後乱暴に何かに引っ掛けられて、その体勢のまま揺れ出せば、どうやら自分は肩に担がれて運ばれているらしいというのが分かる。

――なんでこの男は自分を見捨てていかないのだろう。

 それが不思議で、でもそんな事を考えるよりも、単純に連れていってくれるということが嬉しかった。
 男の背は相当に高いらしく地面が遠い。
 肩は広くその筋肉は固く、エルクアの体重など全く苦にならないというように揺るぐ事がない。
 揺れる振動と男の体温が心地よくて、エルクアは何時の間にか意識を手放していた。



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騎士団編新エピソード、というか番外編です。短編予定。
シーグルが騎士団でがんばってる時、セイネリアは……という物語ですね。



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